広島カープブログ

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     日南キャンプ参加中の広島・野間峻祥外野手(23)が13日、ウオーミングアップを終えてからチームを離れ、日南市内の病院で「急性胃腸炎」と診断された。

     この日の残りの練習は休み、14日以降については様子を見て判断する。

     広島・緒方孝市監督(47)が13日、若手選手にハッパをかけた。14日には今季初の対外試合となるオリックスとの練習試合が行われるが、「若手にとっては格好のアピールの場。やってやるぞという気持ちを見せてもらいたい」と奮起を促した。

     また14日はバレンタインデー。今季、選手の1番人気は大瀬良大地投手(24)。現役時代はカープのスター選手として絶大な人気を誇った指揮官も「うらやましい限り。(宿舎に)段ボールをおいてあるけど、(プレゼントが)全く入らない」と苦笑いしつつも、「家族から一つもらえれば十分だよ」ときっぱり。

     来た球を無心で打つーー。究極の打法を求め続けた職人には、球界に尊敬する恩師がいた。大けがを境に、ガラスの天才打者と惜しまれた広島OBの前田智徳が、今はなき人への思いを語る。



    涙が止まらなかった

     微笑む宮川さんの遺影がすぐに涙でゆがみました。1月13日、北九州市内の斎場で執り行われた葬儀で、宮川さんがスカウトした北別府(学)さんや、現監督の緒方(孝市)さんの弔辞の間、僕も心の中で宮川さんと、初めて会った時のことからずっと話し続けました。

     葬儀で初めて会ったアマチュア球界の方から、こんな昔話を伺いました。

     「前田さんが甲子園に出たとき、宮川さんは隣でこうつぶやいていたんです。『とにかく、打つな。頼むから打つな』と。甲子園で打つとカープ以外の球団からも注目される。どうしても欲しかったんでしょう」

     改めて宮川さんの「一途な愛」を実感し、胸がジーンときました。

     前田智徳(44歳)。名門・熊本工業から'90年にドラフト4位で入団。2年目から卓越した打撃センスに加え、俊足、強肩の外野手として頭角を現した。

     その卓越した打撃技術は、落合博満やイチローから「天才」と認められる。しかし、入団6年目の'95年に右足アキレス腱を断裂してけがとの戦いを強いられ、「ガラスの天才打者」と惜しまれて、2013年に24年間の現役生活を終えた。

     その前田を獲得したのが宮川孝雄スカウト(後に村上と改姓)だった。1月8日、心不全により79歳で死去。代打で活躍し、通算代打安打187本は現在も 日本記録として残る。九州地区担当スカウトに転身後、選手の将来性を見抜く眼力で、津田恒実(故人)、緒方孝市など、のちに広島の屋台骨を支える選手を獲 得した。

     僕は高校時代に計3度、甲子園に出場しましたが、目立った活躍はできませんでした。同期には上宮高の(元木)大介(元巨人)がいて、彼の存在が際立っていた。

     それでも、夏の甲子園が終わってから広島以外の11球団も僕に挨拶してくださるようになり、特にダイエー(当時)は、広島よりひとつ上の3位での指名を 早い段階で明言してくれました。地元・九州の球団ですし、仮にプロで結果を残せなくても、すぐに帰れるーーそう思い、おのずとダイエーが第1希望になって いました。

     しかし、11月のドラフト当日、異変が起きました。ダイエーからは指名がなく、広島から4位指名。今振りかえれば、ドラフト当日に変更になることは当然、起きうる事態ですが、当時の僕はまだ高校生です。

     「(ダイエーに)騙された」と思って、現実をなかなか受け入れられなかった。落ち込んだ僕は下宿先の4畳半にこもり、登校拒否になってしまった。誰とも会いたくなかったのです。気持ちは、社会人で野球を続けることに傾いていました。


    「とにかく振れ」

     ドラフトから数日後、指名挨拶で宮川さんと会ったときに、こう言われました。

     「ウチは4位で指名すると言って実際に指名した。約束を守ったよな。でもダイエーは3位で行く、と言っても、約束を守らんかった」

     その言葉を聞いた直後も、社会人に進む僕の決意は変わりませんでしたが、その後も宮川さんは、押しの強い説得を続けてきます。次第に「僕が(入団を)拒 否することによって、高校の先輩方の顔に泥を塗ることはできないし、後輩がプロに入れなくなるのも困る」と、考えるようになりました。

     両親とも相談しました。

     僕が熊本工で3年間野球を続けるために、県内の自宅からは通えないので、両親が熊本市内の下宿代を出してくれ、経済的な負担もかけていました。プロに入 れば、両親を少し楽にできるかもしれない。広島への返答期限当日まで迷いに迷い、その日の夜12時に、当時の高校の野球部長の先生を通し、「お世話になり ます」と返事をしました。入団の報告をしたのは、同期入団8人の中で最後だったそうです。

     こんな具合で、入団まで僕の心の中は葛藤の連続でしたが、「プロで勝負する」と決めてからは、宮川さんの話を素直に受け入れました。1年目のキャンプは二軍スタートでしたが、宿舎にこられた宮川さんからこう言われたのです。

     「お前は、握ったバットが手から離れなくなるくらい、バットを振らないと一人前になれん。フォームがああだ、こうだと屁理屈を言うよりも振っていかないと駄目だ」と。

     前田に厳しい言葉を投げかけた宮川氏自身、現役時代は自らをとことん追い込む人だったという。宮川氏の4年後に広島に入団し、遠征先で同部屋になることが多かった苑田聡彦スカウト統括部長が振り返る。

     「宮川さんは朝食後、部屋に戻ると、パンツ一枚になって昼までスイングする。昼食後にさらに1時間振ってから、球場入りする人でした。代打としてバット一本で勝負する、という姿勢は凄かった」

     スカウトとして前田を評価したのは、彼の中に自身と重なる〝職人根性〟の芽を見たからかもしれない。

     当初、僕が評価してもらったのは守備と肩で、宮川さんが得意とする打撃には課題がありました。宮川さんの教えに従い、僕は球団から支給された約1㎏のマ スコットバットを振り続けました。当時、スポーツメーカーとの用具契約はもちろんしていませんし、一本数万円するバットを1ダース購入することは年俸が低 かった(推定480万円)僕にとっては、高い買い物でした。

     ですから、メーカーの人にお願いして半ダースだけ買い、試合でしか使わなかった。来る日も来る日も、練習では1㎏のマスコットだけを振る。こうしてバットを振る力を養うことができたんです。

     僕は今でも「石の上にも三年」という言葉を信条にしています。何かをやる、と決めたら3年間、続ける。その結果、出た課題に対して、新たにチャレンジする。現役生活もその繰り返しでした。

     幸い、2年目から129試合に出て、3年目の'92年から'94年までほぼフル出場を果たし、打率はすべて3割を超えました。打席でストレートを待ちな がら、変化球が来ても、無意識に体が自然に対応する。相手投手の配球に頭を巡らせず、「来た球を打つ」という「究極の打法」に近づいている手ごたえがあり ました。



    一番に病室に来てくれた

     中日戦でヒットを放ち、一塁に行くと、神のような存在だった落合さんに声をかけてもらうようになりました。気にかけてもらえると接しやすくなるので、このチャンスを逃したくなかった。

     落合さんに限らず、打撃の時の力の入れ具合や練習法を、大先輩たちに聞いて回りました。広島の元監督の山本浩二さんはもちろん、王貞治さん、体が小さくても本塁打を打つ若松(勉)さん、福本(豊)さん、掛布(雅之)さん、立浪(和義)さんにも頭を下げました。

     しかし、その陰で実は体が悲鳴をあげるようになっていたんです。一軍に対応できる体にしようと、必要以上に追い込み、パワーをつけようとウェートトレー ニングを積んで、無理やり食べ、体重も増やしました。でも、段階を追わずに急激に体を大きくしたことで体に負担をかけ、徐々に疲れが足にたまっていたので す。

     入団4年目の'93年からアキレス腱の痛みがひどくなり、6年目の'95年のシーズン前には、「症状がこのまま改善しなかったらオフに手術する」と決め て、開幕戦にのぞみました。そのシーズン序盤の5月23日のヤクルト戦で、一塁への走塁中、右足アキレス腱を断裂してしまったのです。

     右足をつって身動きのとれない僕の病室に、宮川さんは一番最初に来てくださいました。入団2年目から結果を出すことができ、「究極の打法」を手に入れかけていた分、落ち込みました。

     「(入団を迷った時に、広島に)入っていなければ、アキレス腱を切ることもありませんでしたね」と宮川さんに、憎まれ口を叩いた記憶もあります。

     こんな生意気な態度をとったのですから、宮川さんは本当だったら怒りたかったはずです。でも、その時は、半分笑いながら「バカタレ、お前」と慰めてくれた。

     宮川さんは、自分が獲得した選手に対し、息子のように愛情を注ぎます。その分、チャンスを生かそうとしない甘さが見える選手には叱咤激励したり、ときにはげんこつを落とす厳しさもありました。

     獲ってもらった選手でも、宮川さんとは気安くしゃべれませんが、僕が野球に対して、生半可な気持ちではやっていない、ということだけは理解してもらって いたと思います。だからこそ、生意気な態度をとったときも、大けがをした僕の心情を思い、慰めてくれた。その心の大きさに、救われました。

     アキレス腱を切った後の18年間はジレンマとの戦いでした。僕が目指した「究極の打法」は、けがをした右足が命です。打ちにいったとき、踏み出した右足 で踏ん張ってしっかり止まらなければいけないのに、踏ん張れなくなってしまった。足の左右のバランスが崩れているので、全盛期同様に動かそうとすると、肉 離れをおこしてしまう。

     アキレス腱を切った翌年の'96年は、開幕から数試合出て肉離れを発症。以来、けがにつながらないよう、休養を挟みながら出るようになりました。'00 年には、右足を無意識にかばおうとした負担が蓄積したのか、今度は左足のアキレス腱が悪化。7月に痛みを和らげる手術を受けました。翌'01年は公式戦の 出場はわずか27試合。入団1年目以来の本塁打ゼロでした。


    「お前ならまだできる」
     そのシーズンオフ、僕は宮川さんに訴えました。

     「もう(現役を)やめます。オーナーにも、その意思を伝えていただけますか」と。

     宮川さんからは「アクシデントがあった中で、よう頑張ったな」とねぎらってもらいました。しかし、話は終わりません。

     「でも、まだ楽しみにしている人がたくさんおるわけやから、お前ならごまかしてでも、できるだろう」

     受け入れるまで時間はかかりましたが、球団に契約してもらったので、覚悟を決め、トレーナーの方にハードなメニューを組んでもらいました。

     「これを3年続け、もう一回勝負をかける。それでダメなら、そこでやめよう」と。

     オフはもちろん、試合後も「ルーティン」を続けました。試合に出て、リハビリをして、バットを振る。本拠地・広島市民球場の試合後は、アップシューズで マウンドの傾斜を利用して、バットを振りました。わざと足が滑る状況を作り、踏み出した右足の親指でぐっと踏ん張る。けがをする前が10としたら、5~6 のレベルまで戻したかった。誰もいない球場で、ひとり続けました。「(右足の)感覚よ、蘇って来い」と祈りながら……。

     この時期、キャンプの中旬には宮川さんから差し入れがありました。僕はお酒が飲めないのですが、甘いものに目がない。宮川さんの差し入れは粒あんの大判 焼きを12個。キャンプでは昼飯をほとんどとらずに打ちこんでいましたが、この大判焼きを2個食べれば、十分に腹持ちしたんです。宮川さんの気持ちが、僕 のお腹を満たしてくれました。

     翌'02年に3シーズンぶりに打率が3割に復帰。カムバック賞もいただきました。'05年には146試合全試合に5番・左翼で先発。現役生活最多となる 172安打を放つことができた。プロ18年目の2007年、ようやく2000本安打を達成できたことが、数少ない恩返しのひとつです。

     僕が完成を目指した「究極の打法」は、けがのため23歳で断念しました。しかし、体が万全でなくても、技術でカバーして、チームが求める大事な場面で打 つ。それで、チームもファンも喜んでくれる。それも一つのプロの技なのだ、と思えるようになりました。そう考え方を改めることができたのも、引退の決意を 告げたとき、やんわりと現役続行に仕向けてくれた、宮川さんのおかげにほかなりません。

     評論家の仕事をはじめて3年目になります。周りの方は「ネット裏から3年野球を見ると、ユニフォームを着たくなる」と言いますが、今の僕は、宮川さんが 亡くなったショックが大きく、その元気はありません。ただ将来、若い選手を教える機会に恵まれたら、煙たがられても、宮川さんの教えを伝えたい。

     「握ったバットが手から離れなくなるくらい振れ」

     プロの本当の厳しさを正直に伝える。それが、真の優しさですから。

     広島の宮崎・日南の1軍キャンプに12日、謎の助っ人が合流した。

     姿を現したのは190センチ、100キロ前後の巨体を誇る2人の外国人。球場を訪れたファンからも、思わずどよめきがあがった。

     正体はドミニカ共和国「カープ・アカデミー」出身の練習生。メヒア内野手(22)と、バティスタ内野手(23)で、昨秋のキャンプにも参加していた。

     午後から行われる予定の紅白戦でもバティスタが、白組の「4番・一塁」で、メヒアが紅組の「4番・三塁」で出場する。アピールに成功すれば、育成契約を勝ち取る可能性もある。

     昨年まで散々苦しめられたマエケン。彼が抜けた穴をどう埋めるか。そこに注目して広島のキャンプを見たけど、シート打撃で掘り出し物を見つけた。ドラフト6位で入団した左腕、仲尾次オスカル(Honda)。右打者の内角にクロスして入ってくる球が素晴らしい。社会人で経験を積んで試合をつくる力があると感じたね。

     監督の立場で言えば、いい左打者に対して左投手をどこで使うかは大事。この投球を見たら、先発で回しても面白いんじゃないかな。5番目、6番目の先発がしっかり回るとチーム状態は良くなるから。同2位・横山(NTT東日本)も完成度は高い。同1位の岡田(大商大)を含めた新人3投手がそろえば、マエケンの穴を埋められるくらいの働きが期待できる。

     打者では新外国人・プライディがいい。何がいいって外国人には珍しく足が短い(笑い)。下半身で粘れる打ち方をしているから、変化球にも対応できると思う。率を残せるタイプだね。

     最後に忘れちゃいけないのが、駒大の後輩・新井。2000安打まで残るは29本。本人は「まずは試合に出られるように頑張ります」と言っていたけど、若手と一緒に元気に動いていて安心した。早く達成してほしいね。お祝いは焼き肉食べ放題がいいかな。そのお返しに、あいつにはもっといいものを食わせてもらうよ。「先輩、お世話になりました」って言ってくるのが、新井だからね。(DeNA前監督、スポニチ本紙評論家)

     ◆仲尾次 オスカル(なかおし・おすかる)1991年3月28日、ブラジル・サンパウロ州生まれの24歳。カントリーキッズ高から白鴎大を経て、Hondaでは主に救援として活躍。13年WBCではブラジル代表の予選突破に貢献し、本大会の日本戦にも登板した。契約金3000万円、年俸800万円。1メートル78、78キロ。左投げ左打ち。

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