阪神タイガース
【広島カープ】阪神さん、来年は今年以上に苦しめられそう
【広島カープ】阪神の来年のスローガンに・・・
【広島カープ】カープ2軍が阪神小野からサヨナラ勝ち!!
【こいせん】藤川引退に思う事
【広島カープ】朝山打撃コーチ、「打ち崩すことができなかった」
広島は9日、マツダスタジアムでの阪神8回戦に1-5で敗れ、今季初の同一カード3連勝と勝てば4位浮上の機会を逃した。
朝山東洋打撃コーチ(44)は「立ち上がりからコーナーに丁寧に投げられ、狙い球を絞ることができなかった。内と外にカーブ、スライダーと丁寧な投球をされた。スピン量が多く、スピードガンより速い。なかなか打ち崩すことができなかった」と阪神の先発・秋山に脱帽した。

引用元 https://news.yahoo.co.jp/articles/c8e6b00c644ffb14aa69235f45636a4d30a84e8d

引用元 https://news.yahoo.co.jp/articles/c8e6b00c644ffb14aa69235f45636a4d30a84e8d
【広島カープ】阪神ファンだった正田が大事にしていたもの
【正田耕三「野球の構造」(19)】和歌山生まれの和歌山育ち。高校卒業後に進んだ社会人野球の新日鉄広畑(現日本製鉄広畑)も含めて長く関西圏で過ごした僕は、根っからの阪神ファンでした。和歌山ではサンテレビ制作の阪神戦中継を見ることができたので、練習漬けだった中学生や高校生の一時期を除いて、熱心に見ていたものです。
子供のころに好きだったのは中心打者の遠井吾郎さんや、同じ和歌山県出身で先発投手陣の柱だった上田次朗さん。新日鉄広畑時代に甲子園球場のライトスタンドで観戦するようになってからは掛布雅之さんを応援していました。僕にとってプロ野球は、小学生のころから「目指す場所」ではなく、ただ単にファンだったのです。
僕は物に執着がなく、プロも含めて現役時代にいただいたトロフィーやユニホームの類いを一切持っていません。1987年に初受賞したゴールデン・グラブ賞のトロフィーぐらいは実家にあるかもしれませんが、あったとしてもその程度。それこそ1984年ロサンゼルス五輪で勝ち取った金メダルも僕の手元にはありません。
メダルもタイトルも目標ではありました。しかし、目標達成に伴って授与されるトロフィーなどに対して、僕は価値を感じません。だから、お世話になった方にそれらをプレゼントしていたのです。僕のトロフィーをメルカリで見つけたときはショックでしたけどね。
そんな僕が今でも大事にしているユニホームが1着だけあります。大好きだった掛布さんが着用していたタテジマ。引退する88年にいただいたものでサインとともに「正田くんへ」と書かれています。掛布さんはテレビの解説などで選手のことを“君付け”で呼びますよね。「『正田さん』じゃなくて『正田くん』だよ」と妙なところで興奮したものです。
脱線ついでに阪神ファンとの触れ合いについても触れておきましょう。同僚とライトスタンドでメガホンを手に大声で選手の応援歌や六甲おろしを歌っていた僕は私設応援団の方々とも仲良く話したりしていました。だから覚えてくれていたのでしょう。
あれはプロ1年目でした。甲子園球場で阪神―広島の“親子ゲーム”があって、二軍だった僕は勉強のためにナイターで行われる一軍の試合を見るように言われました。普通ならマネジャーからチケットをもらって内野席で見るところですが、僕は一人でライトスタンドに行って阪神の応援をしていたんです。そうしたら顔見知りの応援団の人と出くわして「最近、姿を見んけど忙しいんか? ちゃんと応援せなあかんでえ」と…。カープの選手になったことを知られていなかったのは不幸中の幸いですが、さすがに肝を冷やしました。
☆しょうだ・こうぞう 1962年1月2日生まれ。和歌山県和歌山市出身。市立和歌山商業(現市立和歌山)から社会人の新日鉄広畑(現日本製鉄広畑)に進み、84年ロサンゼルス五輪で金メダル獲得。同年のドラフト2位で広島入団。85年秋から両打ちに転向する。86年に二塁のレギュラーに定着し、リーグVに貢献。87、88年に2年連続で首位打者、89年は盗塁王に輝く。87年から5年連続でゴールデン・グラブ賞を受賞。98年に引退後は広島、近鉄、阪神、オリックスほか韓国プロ野球でもコーチを務めた。現役時代の通算成績は1565試合で1546安打、146盗塁、打率2割8分7厘。

引用元 https://news.yahoo.co.jp/articles/3627bdf7d9b2ba881f71e190ef704cd8e8d60987
子供のころに好きだったのは中心打者の遠井吾郎さんや、同じ和歌山県出身で先発投手陣の柱だった上田次朗さん。新日鉄広畑時代に甲子園球場のライトスタンドで観戦するようになってからは掛布雅之さんを応援していました。僕にとってプロ野球は、小学生のころから「目指す場所」ではなく、ただ単にファンだったのです。
僕は物に執着がなく、プロも含めて現役時代にいただいたトロフィーやユニホームの類いを一切持っていません。1987年に初受賞したゴールデン・グラブ賞のトロフィーぐらいは実家にあるかもしれませんが、あったとしてもその程度。それこそ1984年ロサンゼルス五輪で勝ち取った金メダルも僕の手元にはありません。
メダルもタイトルも目標ではありました。しかし、目標達成に伴って授与されるトロフィーなどに対して、僕は価値を感じません。だから、お世話になった方にそれらをプレゼントしていたのです。僕のトロフィーをメルカリで見つけたときはショックでしたけどね。
そんな僕が今でも大事にしているユニホームが1着だけあります。大好きだった掛布さんが着用していたタテジマ。引退する88年にいただいたものでサインとともに「正田くんへ」と書かれています。掛布さんはテレビの解説などで選手のことを“君付け”で呼びますよね。「『正田さん』じゃなくて『正田くん』だよ」と妙なところで興奮したものです。
脱線ついでに阪神ファンとの触れ合いについても触れておきましょう。同僚とライトスタンドでメガホンを手に大声で選手の応援歌や六甲おろしを歌っていた僕は私設応援団の方々とも仲良く話したりしていました。だから覚えてくれていたのでしょう。
あれはプロ1年目でした。甲子園球場で阪神―広島の“親子ゲーム”があって、二軍だった僕は勉強のためにナイターで行われる一軍の試合を見るように言われました。普通ならマネジャーからチケットをもらって内野席で見るところですが、僕は一人でライトスタンドに行って阪神の応援をしていたんです。そうしたら顔見知りの応援団の人と出くわして「最近、姿を見んけど忙しいんか? ちゃんと応援せなあかんでえ」と…。カープの選手になったことを知られていなかったのは不幸中の幸いですが、さすがに肝を冷やしました。
☆しょうだ・こうぞう 1962年1月2日生まれ。和歌山県和歌山市出身。市立和歌山商業(現市立和歌山)から社会人の新日鉄広畑(現日本製鉄広畑)に進み、84年ロサンゼルス五輪で金メダル獲得。同年のドラフト2位で広島入団。85年秋から両打ちに転向する。86年に二塁のレギュラーに定着し、リーグVに貢献。87、88年に2年連続で首位打者、89年は盗塁王に輝く。87年から5年連続でゴールデン・グラブ賞を受賞。98年に引退後は広島、近鉄、阪神、オリックスほか韓国プロ野球でもコーチを務めた。現役時代の通算成績は1565試合で1546安打、146盗塁、打率2割8分7厘。

引用元 https://news.yahoo.co.jp/articles/3627bdf7d9b2ba881f71e190ef704cd8e8d60987
【広島カープ】松田オーナーと阪神近本の意外な接点
2018年のドラフト会議後、広島・松田オーナーは「阪神はいい選手を取ったな」とニヤリと笑った。阪神は1位指名した大阪桐蔭・藤原(ロッテ)、立命大・辰己(楽天)のクジを続けて外し、大阪ガス・近本の交渉権を獲得していた。
松田オーナーはかねて近本の打撃センスを高く評価。スカウト会議が開かれる度、「大阪ガスの近本という選手はいいぞ」と名前を挙げ、「ワシは推しとるんじゃけどな、誰も聞いてくれんわ」とジョーク交じりに話したこともあった。
「育成のカープ」のドラフト戦略はフロント主導。その年チームの補強ポイントは遊撃手で、当時フルイニング出場を続けていた田中広の後継者探しが急務だった。現場からは即戦力投手を求める声もあったが、大本命は報徳学園・小園で最後まで揺るがなかった。
スカウト会議に必ず出席する松田オーナーはもちろんチーム事情を全て把握。それとは別にオーナー個人として、近本が好みの選手だったというわけだ。
2019年、近本は大活躍した。「1番・中堅」に定着し、142試合に出場し、打率・271、9本塁打、42打点。新人王こそヤクルト村上に譲ったが、36盗塁でタイトルを獲得した。小柄ながら思い切りのいい打撃は目を見張るものがあり、今ではすっかり阪神の顔だ。松田オーナーは「活躍すると言っただろう」と得意げで、うれしそうだった。
あの年、広島は4球団競合の末、緒方監督がクジを引き当てて、小園をドラフト1位で獲得。小園は1年目から1軍でスタメン出場するなど、レギュラー争いに加わる活躍を見せた。そのオフ、丸が巨人にFA移籍、長野が加入した。丸が抜けた中堅レギュラーには内野から外野転向した西川が収まった。
(デイリースポーツ 杉原史恭)

引用元 https://news.yahoo.co.jp/articles/72ff70aa1dc9415a12074d65073be342ca9e2043
松田オーナーはかねて近本の打撃センスを高く評価。スカウト会議が開かれる度、「大阪ガスの近本という選手はいいぞ」と名前を挙げ、「ワシは推しとるんじゃけどな、誰も聞いてくれんわ」とジョーク交じりに話したこともあった。
「育成のカープ」のドラフト戦略はフロント主導。その年チームの補強ポイントは遊撃手で、当時フルイニング出場を続けていた田中広の後継者探しが急務だった。現場からは即戦力投手を求める声もあったが、大本命は報徳学園・小園で最後まで揺るがなかった。
スカウト会議に必ず出席する松田オーナーはもちろんチーム事情を全て把握。それとは別にオーナー個人として、近本が好みの選手だったというわけだ。
2019年、近本は大活躍した。「1番・中堅」に定着し、142試合に出場し、打率・271、9本塁打、42打点。新人王こそヤクルト村上に譲ったが、36盗塁でタイトルを獲得した。小柄ながら思い切りのいい打撃は目を見張るものがあり、今ではすっかり阪神の顔だ。松田オーナーは「活躍すると言っただろう」と得意げで、うれしそうだった。
あの年、広島は4球団競合の末、緒方監督がクジを引き当てて、小園をドラフト1位で獲得。小園は1年目から1軍でスタメン出場するなど、レギュラー争いに加わる活躍を見せた。そのオフ、丸が巨人にFA移籍、長野が加入した。丸が抜けた中堅レギュラーには内野から外野転向した西川が収まった。
(デイリースポーツ 杉原史恭)

引用元 https://news.yahoo.co.jp/articles/72ff70aa1dc9415a12074d65073be342ca9e2043
【広島カープ】安仁屋宗八が語る阪神時代
懐かしの猛虎戦士が現役当時を振り返る企画「あの時は…」。今回は1974年オフに若生智男投手(現デイリースポーツ評論家)とのトレードで阪神に加入した安仁屋宗八氏(75)=現広島OB会長、デイリースポーツ評論家=の登場だ。移籍1年目は66試合に登板し、12勝5敗、7セーブ、防御率1・91。中継ぎで大車輪の活躍を見せ、最優秀防御率とカムバック賞を獲得した。盟友・田淵幸一氏との秘話、巨人への思い、阪神で過ごした5年間を振り返った。
◇ ◇
トレードのきっかけは1974年開幕前、ジョー・ルーツ(当時広島打撃コーチ)からサイドスロー転向を勧められたことだ。ワシは「なぜ、キャンプの時に言わなかった?」と断った。そのオフ、ルーツが監督になって、若生さんとのトレード話が進んだ。
ワシは阪神に行くなら辞める腹積もりじゃった。女房にも「カープから電話があっても、どこにおるか言うな!」と。でも、吉田さん(当時阪神監督)に請われ、広島でお世話になった方からも「1年遊んでこい」と勧められてね。入団した頃からかわいがってくれた古葉さんも女房に「阪神に行った方がいい」と言っていたみたい。「じゃあ1年だけ行ってきます」とトレードを受け入れたんじゃ。
それまでオフは遊ぶもん、ジャージー、運動靴も履いたことがなかったけど、悔しかったから、カープを見返したかったから、ジムにも初めて通った。体重を7~8キロ落とした。
「浩二(山本)、衣笠、大下には打たさん!」とカープ戦は必死に投げた。ある試合で浩二に敬遠のサインが出た。ワシは吉田さんに「敬遠するなら代えてくれ!」と直訴した。本塁打を打たれてしまったけど、後悔はない。今となってはいい思い出だよ。
移籍1年目(1975年)にカープが初優勝した時も複雑というより喜んだよ。古葉さんが監督だったからね。三村がワシから(9月に)甲子園で本塁打を打ったんだけど、あれで(事実上)決まったんじゃないかな。
阪神という注目度の高いチームで巨人戦は燃えたね。小さい頃から沖縄での野球中継といえば巨人戦。雑誌も巨人の選手が表紙を飾っていたからね。やっぱり長嶋さん、王さんから三振を取りたかった。当時のピッチャーはみんなそうだったんじゃないかな。吉田さんもワシを巨人戦で起用してくれた。カープの時から巨人に勝たせてもらっていたから、そういう狙いもあったんじゃないかと思う。
最も思い出に残っている試合は神宮でのヤクルト戦。大杉にぶつけて、次の外国人選手にもぶつけたら広岡さん(当時ヤクルト監督)が怒って、ベンチから出てきた。大杉も詰め寄ってきたんだけど、田淵が大杉に飛びかかって止めてくれた。広岡さんは「安仁屋を退場にしろ!」と言ったけど、ワシは退場にならんかった。田淵が守ってくれた。
田淵とは相性が良かった。肩が良かったから、走者を出しても安心して投げられたね。打つだけの捕手だと思っていたけど、いい捕手だった。試合が終わってからも一緒にマージャンをしたり、飲んだりね。オフは田淵の自宅に呼んでもらったこともあるし、本当によくしてもらったね。
79年オフ、古葉さんから「戻ってこい」と言われて、カープに戻ったんだけど、阪神に行って良かったと思っている。今のワシがあるのも阪神での5年間が大きい。カープに帰ってからの現役2年間は何もできなかったけど、古巣のありがたみも分かった。今でもカープが優勝できなかったら、阪神にしてほしい。お世話になったところが優先。シーズンの順位予想でも常に広島優勝、阪神2位にしとるじゃろう。

◇ ◇
トレードのきっかけは1974年開幕前、ジョー・ルーツ(当時広島打撃コーチ)からサイドスロー転向を勧められたことだ。ワシは「なぜ、キャンプの時に言わなかった?」と断った。そのオフ、ルーツが監督になって、若生さんとのトレード話が進んだ。
ワシは阪神に行くなら辞める腹積もりじゃった。女房にも「カープから電話があっても、どこにおるか言うな!」と。でも、吉田さん(当時阪神監督)に請われ、広島でお世話になった方からも「1年遊んでこい」と勧められてね。入団した頃からかわいがってくれた古葉さんも女房に「阪神に行った方がいい」と言っていたみたい。「じゃあ1年だけ行ってきます」とトレードを受け入れたんじゃ。
それまでオフは遊ぶもん、ジャージー、運動靴も履いたことがなかったけど、悔しかったから、カープを見返したかったから、ジムにも初めて通った。体重を7~8キロ落とした。
「浩二(山本)、衣笠、大下には打たさん!」とカープ戦は必死に投げた。ある試合で浩二に敬遠のサインが出た。ワシは吉田さんに「敬遠するなら代えてくれ!」と直訴した。本塁打を打たれてしまったけど、後悔はない。今となってはいい思い出だよ。
移籍1年目(1975年)にカープが初優勝した時も複雑というより喜んだよ。古葉さんが監督だったからね。三村がワシから(9月に)甲子園で本塁打を打ったんだけど、あれで(事実上)決まったんじゃないかな。
阪神という注目度の高いチームで巨人戦は燃えたね。小さい頃から沖縄での野球中継といえば巨人戦。雑誌も巨人の選手が表紙を飾っていたからね。やっぱり長嶋さん、王さんから三振を取りたかった。当時のピッチャーはみんなそうだったんじゃないかな。吉田さんもワシを巨人戦で起用してくれた。カープの時から巨人に勝たせてもらっていたから、そういう狙いもあったんじゃないかと思う。
最も思い出に残っている試合は神宮でのヤクルト戦。大杉にぶつけて、次の外国人選手にもぶつけたら広岡さん(当時ヤクルト監督)が怒って、ベンチから出てきた。大杉も詰め寄ってきたんだけど、田淵が大杉に飛びかかって止めてくれた。広岡さんは「安仁屋を退場にしろ!」と言ったけど、ワシは退場にならんかった。田淵が守ってくれた。
田淵とは相性が良かった。肩が良かったから、走者を出しても安心して投げられたね。打つだけの捕手だと思っていたけど、いい捕手だった。試合が終わってからも一緒にマージャンをしたり、飲んだりね。オフは田淵の自宅に呼んでもらったこともあるし、本当によくしてもらったね。
79年オフ、古葉さんから「戻ってこい」と言われて、カープに戻ったんだけど、阪神に行って良かったと思っている。今のワシがあるのも阪神での5年間が大きい。カープに帰ってからの現役2年間は何もできなかったけど、古巣のありがたみも分かった。今でもカープが優勝できなかったら、阪神にしてほしい。お世話になったところが優先。シーズンの順位予想でも常に広島優勝、阪神2位にしとるじゃろう。

【広島カープ】岐路となった2015年4月25日。カープの転機となった試合
記者席から思わず身を乗り出した。打席からのけ反って尻もちを付いた黒田博樹投手が、マウンドに立つ藤浪晋太郎投手をにらみ付ける。両軍選手、首脳陣がホーム付近に集まり、不穏な空気が流れた。乱闘寸前。投手が打席で魅せた闘志は、長く低迷したカープナインの意識を変えた。
2015年4月25日の広島-阪神戦(マツダスタジアム)。この年、「広島に僕を待ってくれる人がいる。1球の重みを感じられる」と、電撃復帰を決めた黒田が先発した。チームは最下位と低迷。1-1で迎えた二回、1死一塁で打席に立った。バントを試みたが、藤浪の投球が2球続けて頭部付近を襲った。
「自分の体は自分で守らないといけない。それにチームの士気にも関わる。(藤浪の)闘う姿勢も分かるが、負けない気持ちを出した」。試合後、黒田は当該シーンについて、こう説明した。この回に1点を取って勝ち越すと、続く三回にも2点を追加。まさに気迫で奪った勝利だった。
ただ、黒田は対戦の翌日、投げ合った藤浪にもエールを送っている。
「一生懸命、闘う中で起こったこと。次の対戦があれば、思い切って腕を振って投げてくれたらいい。僕は(死球を)頭に当ててしまったことがある。いろんな経験をしてきた。それを乗り越えらないと強くなれない」
そんな言葉通りに、順風満帆な野球人生だったわけではない。エースとして活躍した2000年代前半。市民球場のマウンドに立つと、空席の目立つ客席が見えた。「ファウルボールがスタンドに入っても、誰にも当たらずイスに当たっていた」。当時の主砲だった新井貴浩内野手と2人、口を開けば勝つための方法を探した。広島復帰後は、衰えが見え始めた体で闘った。全盛期は150キロ超の直球とフォークが主体。スタイルの変化に「当然葛藤はあった」という。だが投手である前に、プロとして生きざまを探した。
この一戦を契機に、チームは闘う集団に変貌を遂げた。復帰2年目の2016年には、初めてリーグ優勝を経験した。スタンドを見渡せば客席は、真っ赤に染まっている。新井との抱擁シーンは広島だけではなく、プロ野球ファンの感動を呼んだ。カープは地方球団ではなく「地域球団」と呼ぶ。ファンと共に戦ってきた。この年限りで現役を引退。「常に野球の神様がいると思って投げてきた」という男に、最高のフィナーレが待っていた。
今月の17日にはオンラインで臨時の12球団代表者会議が開かれ、5月中の開幕断念と交流戦の中止を発表された。2005年に始まった交流戦の中止は16年目にして初めてで、試合数削減を含めた大幅な日程の再編も必至。最短で6月中旬以降の開幕になるが、これすら先が見えない。開幕後も当面は無観客での開催になりそうだ。
だからこそ、例年以上に「1球の重み」が感じられるシーズンになるだろう。プロ野球界から元気、勇気を届ける1年にしたい。連覇を狙う巨人に、覇権奪回を誓う広島。戦力を整えた阪神やDeNAも頂点をうかがう。闘志あふれる気迫の対決を楽しみに待ちたい。

引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200425-00000043-dal-base
2015年4月25日の広島-阪神戦(マツダスタジアム)。この年、「広島に僕を待ってくれる人がいる。1球の重みを感じられる」と、電撃復帰を決めた黒田が先発した。チームは最下位と低迷。1-1で迎えた二回、1死一塁で打席に立った。バントを試みたが、藤浪の投球が2球続けて頭部付近を襲った。
「自分の体は自分で守らないといけない。それにチームの士気にも関わる。(藤浪の)闘う姿勢も分かるが、負けない気持ちを出した」。試合後、黒田は当該シーンについて、こう説明した。この回に1点を取って勝ち越すと、続く三回にも2点を追加。まさに気迫で奪った勝利だった。
ただ、黒田は対戦の翌日、投げ合った藤浪にもエールを送っている。
「一生懸命、闘う中で起こったこと。次の対戦があれば、思い切って腕を振って投げてくれたらいい。僕は(死球を)頭に当ててしまったことがある。いろんな経験をしてきた。それを乗り越えらないと強くなれない」
そんな言葉通りに、順風満帆な野球人生だったわけではない。エースとして活躍した2000年代前半。市民球場のマウンドに立つと、空席の目立つ客席が見えた。「ファウルボールがスタンドに入っても、誰にも当たらずイスに当たっていた」。当時の主砲だった新井貴浩内野手と2人、口を開けば勝つための方法を探した。広島復帰後は、衰えが見え始めた体で闘った。全盛期は150キロ超の直球とフォークが主体。スタイルの変化に「当然葛藤はあった」という。だが投手である前に、プロとして生きざまを探した。
この一戦を契機に、チームは闘う集団に変貌を遂げた。復帰2年目の2016年には、初めてリーグ優勝を経験した。スタンドを見渡せば客席は、真っ赤に染まっている。新井との抱擁シーンは広島だけではなく、プロ野球ファンの感動を呼んだ。カープは地方球団ではなく「地域球団」と呼ぶ。ファンと共に戦ってきた。この年限りで現役を引退。「常に野球の神様がいると思って投げてきた」という男に、最高のフィナーレが待っていた。
今月の17日にはオンラインで臨時の12球団代表者会議が開かれ、5月中の開幕断念と交流戦の中止を発表された。2005年に始まった交流戦の中止は16年目にして初めてで、試合数削減を含めた大幅な日程の再編も必至。最短で6月中旬以降の開幕になるが、これすら先が見えない。開幕後も当面は無観客での開催になりそうだ。
だからこそ、例年以上に「1球の重み」が感じられるシーズンになるだろう。プロ野球界から元気、勇気を届ける1年にしたい。連覇を狙う巨人に、覇権奪回を誓う広島。戦力を整えた阪神やDeNAも頂点をうかがう。闘志あふれる気迫の対決を楽しみに待ちたい。

引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200425-00000043-dal-base