広島カープブログ

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    黒田博樹

     セ・リーグ3連覇を置きみやげに昨季限りで現役を引退したプロ野球・広島の“レジェンド”新井貴浩氏(41=現野球解説者)、お笑いコンビ「ザ・ギース」の“カープ芸人”尾関高文(41)が24日、東京・銀座の広島アンテナショップTAUでトークショーを行った。

     新井氏といえば、引退表明後の昨年11月5日、OBの黒田博樹氏(43)が私費を投じて中国新聞に出した「結局、新井は凄かった」の広告が話題を呼んだ。

     新井氏は「何も聞かされてなかったのでびっくりした。家にいた時にメールが入ってきて、何これとなった。裏の意味として『結局、黒田は格好良かった』と言いたかったんだと思う。黒田さんはやることが違う。さすが」と先輩を持ち上げた。

     自身は強肩・俊足が売りの上本崇司内野手(28)をかわいがっており「上本が引退する時にはやりたい気持ちはある」と話したが「僕は黒田さんみたいにお金を持ってないので」と笑わせた。

     その黒田氏とは先日、一緒にゴルフをラウンドしたという。「黒田さんがすごくうまくなっている。特にゴルフをしたかったわけではないが、悔しいので、ちょっとやってみようと思う」と、今年はゴルフに力を入れるようで、先輩へのリベンジを誓った。



    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190124-00000064-tospoweb-base

    青天のへきれきだった。91年12月。秋季近畿大会で準優勝し、ほぼ確実と思われたセンバツ出場を辞退することになった。同年夏に勇退した前監督の行きすぎた指導が問題となった。ただ、現場の指導者、選手は関わっていない不祥事。黒田をはじめ上宮野球部員は突然の悪夢に襲われた。



    黒田は当時について「あんまり記憶にない。覚えていない」と多くを語らない。同学年の溝下進崇も同じで「記憶が飛んでしまっている部分がある」と吐露する。それでも断片的な記憶をつむいだ。

    溝下 聞かされたのは、沖縄の修学旅行のときだったと思うんです。離島へ行った宿舎の一室に集められて。決まったわけではないから、まずは修学旅行楽しんで、また帰ったら集合すると言われた。帰ったら「辞退します」と。正直、やる気がうせましたよね。怒りの矛先のない、憤りの中で記憶が飛んでしまっている。

    当時の教頭は部員や保護者を前に土下座してわびた。保護者からは署名活動を促すような声も上がった。ざわつく周囲とは対照的に、部員たちの時間は止まったようだった。高校球児にとって「甲子園」は夢以上の存在。溝下は2日間、家から1歩も出ることができなかった。

    溝下 高校野球をすることの意義の1つ。夢というぼやっとしたものではなく、上宮に選ばれて入った以上はそこに行かなければいけない使命感を持ってやっていた。本当にふ抜けになっていた。

    監督の田中は指導者として苦慮した。「本当にバラバラになりました。選手も選手の保護者もかわいそうだった」。学校に直談判し、自分たちが出るはずだったセンバツが始まる時期に九州遠征に出た。強豪校で野球専用球場を持つ上宮は他校の遠征を迎えることが多く、通常は遠征に出ることはない。「そんなことで心が和むとは思っていなかった。でも彼らに何かしてあげたかった。また強い上宮に戻したい気持ちがあった」と田中は述懐した。

    上宮野球部は何とか夏の大会へ向けて動きだしたが、黒田に前年秋の感覚はなかった。「冬になってボールに触れない中で、なかなか継続することは難しかった。甲子園に行っていたら変わっていたかもしれないが、春になってもあまり変わっていなかった」。加えて右手中指の腱(けん)を痛めてしまったことも投球を苦しめた。最大の武器だった真っすぐの力強さが戻ってこない。生まれて初めて痛み止めの注射を打って投げたこともあったが、結果は出なかった。オープン戦でめった打ちにあい、黒田の評価は急降下。最後の夏は、登板機会が1度も訪れないまま府大会5回戦で敗退。黒田の高校野球人生は静かに幕を下ろした。

    憧れた甲子園出場はかなわなかった。過酷な練習にも耐え抜いた3年間は無情な結末を迎えたが、高校3年間で何も得られなかったことが、結果的に何にも代え難い財産となったのかもしれない。(敬称略=つづく)【前原淳】

    (2017年12月18日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)


    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190114-00436000-nksports-base

    黒田の投手としての能力を認めていたチームメートは少なくなかった。黒田よりも評価されていた主戦の溝下進崇には、今でも忘れられない1球がある。打撃練習から遅れてブルペンへ向かう途中、黒田の投球が真後ろから見えた。

    溝下 スライダーが衝撃的だった。「なんじゃ今のは? こんなスライダー打たれない」と。真っすぐの軌道で来たと思ったら横に滑っていく。自分が思っている理想と体の動きがマッチしたときはとんでもない球を投げていた。

    潜在能力の高さを認める者は他にもいた。主将の筒井壮は投手としての雰囲気を感じ取っていた。

    筒井 才能はすごく感じるけど、ムラがあった。でもやっぱり一番、投手としての振る舞いをしていた。黒田が投げた方が、より強いチームだったんじゃないかなと思います。

    そんな黒田がようやくスポットライトを浴びるときが訪れる。新チームとして迎えた2年秋の近畿大会。直前の府大会で登板機会がなかったものの、ブルペンでの投球の変化に監督の田中秀昌は気づいていた。

    田中 フォームが安定していた。体のバランスもよく、リリースも一定だった。クロにとって、良薬は結果だと思っていた。いいときに使ってあげたいし、自信をつけてもらいたかった。

    田中は相手打線との兼ね合いを考慮しながら、黒田起用のタイミングをうかがっていた。準々決勝の日高(和歌山)戦、1-0の7回途中から出番が巡ってきた。背番号17の黒田は1安打無失点に抑えて試合を締めくくる。田中の「打たれても、溝下と西浦(克拓)がいる」という予防策を立てた起用を見事に裏切った。

    続く準決勝のPL学園(大阪)戦でもチャンスを与えられた。3-0の8回から2番手で登板し、2イニングを2安打1失点。さらに決勝の天理戦では先発西浦がKOされ、2番手溝下も打ち込まれ、三たび黒田に出番がきた。3-8の4回から6イニングを投げ、登板投手の中で唯一無失点。チームは2点差まで迫り、敗れはしたものの、翌春のセンバツ出場権をほぼ手中にした。待ちわびた黒田の好投に、チームメートも自分のことのように喜んだ。

    溝下 快刀乱麻でした。切れ抜群のストレートととんでもないスライダーが面白いように決まって、バッターがクルクルと回っていた。見ていて面白いし、気持ちが良かった。僕は軟投派で、西浦は力投派でもショットガンのようですが、クロは糸を引くような真っすぐを投げていた。

    もちろん、黒田にも特別な喜びがあった。勝利をただベンチで待つのではなく、自らマウンドでたぐり寄せた勝利もあった。近畿大会で3試合10イニング以上を投げて1失点の結果は、監督の田中が期待した良薬になりそうな予感があった。上宮に入学して、初めて味わう感覚に浸った。

    黒田 自分が投げて貢献できた喜びがあった。ベンチにいてチームが勝っていくのではなく、投げて勝っていくから充実感はあった。だから、(翌春のセンバツを)すごく楽しみにしていた。

    近畿大会準優勝で、翌春のセンバツ出場はほぼ確実となった。黒田に足りなかった結果と自信が芽生え、殻を破るきっかけとなる可能性は十分あったが…。ようやく開けたと思われた視界は、予期せぬ形で真っ暗闇に変わる。(敬称略=つづく)【前原淳】

    (2017年12月17日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)


    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190113-00435995-nksports-base

    1学年上で、のちにロッテに入る薮田安彦らが引退しても、黒田の立場は控え投手のままだった。新チームとなり、それまで野手と併用されていた溝下進崇と西浦克拓が、投手に軸足を置くようになった。決断したのは、コーチから監督になった田中秀昌だった。

    田中 山上烈前監督のままであれば、黒田をそのままエースに立てたかもしれない。でも私が監督となり、甲子園に出ないといけないと感じていた。どうしたら激戦区の大阪で勝ち上がれるかと考えたとき、西浦と溝下も投手としてやらせないと無理だと思った。

    田中は溝下と西浦を呼び「激戦の大阪を勝って甲子園に行くには、黒田1人では無理だ」と伝えた。溝下と西浦に投げ込みを命じるため、練習試合では黒田の登板が増えた。それでも結果を残すことはできなかったが、不思議と黒田に悔しさはなかった。まだ、背番号1を背負う覚悟ができていなかった。

    黒田 自分が1番手になるとは思っていなかった。チーム状態を客観的に見て、自分がもし監督でもそうしたと思う。あのとき自分がエースになるようではいけない。同時に、そこまでの自信がなかった。1番を背負う責任が自分にはなく、不安の方が大きかった。

    溝下と西浦に、投手としても勝てるとは思っていなかった。追い付き、追い越そうとも思えなかった。「その頃は諦めていた。こいつらには勝てないなと。そこまで気持ちを上げられなかった。1日1日を消化して、3年間終わってくれないかという気持ちが強かった」。走らされる日々は最上級生になっても続いた。そんな日々を乗り越えるのに必死だった。

    一方で抜群のコントロールを武器とする左腕溝下と力強い球を持ち味とする西浦は、投手として信頼を勝ち取った。気づけば2人が上宮の2枚看板となっていた。

    ただ3番手に追いやられても、黒田がくさることはなかった。激しくチーム内で争う一方で、部員同士の関係は良好だった。全部員が自宅から通っていたこともあり、練習後は数人で電車を乗り継ぎ帰宅した。新チームの主将に就任した筒井壮(現阪神2軍守備走塁コーチ)は懐かしそうに振り返る。

    筒井 帰りの電車は憩いの場でしたね。お菓子を買ったり。もう楽しくて、(野球のことを)相談し合うとかいう雰囲気はなかった。クロはゲラ(笑い上戸)なんで、笑うのが大好きでおちゃめなキャラでしたよ。

    黒田に勝利するように主戦となった溝下も、黒田と仲が良かった。「クロは優しい。誰かと特別にというよりも、まんべんなく優しかった」と溝下。エース争いに敗れ、ひたすら走らされる日々にあって、黒田は愚痴一つこぼさなかった。

    強豪校の上宮にも一般入部の生徒がいた。スポーツ推薦で入部した生徒には一定のプライドや責任感が伴うため、しばしば距離ができるものだが、黒田は一般入部の生徒とも仲が良かった。上宮野球部に3つある部室も、一般生が使用する「1号」部屋を使用。自然と溝下も輪に加わった。強豪校で見られるチーム内の激しいポジション争いの中にいても、黒田は優しかった。殻を破り切れない黒田の姿を、チームメートはもどかしく思っていた。

    そんな黒田が、ようやく周囲の期待に応えたのは2年秋の近畿大会。上宮の3年間で最も輝いた大会だった。(敬称略=つづく)【前原淳】

    (2017年12月16日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)



    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190112-00435977-nksports-base

    投げたことよりも、走った記憶が強く残る上宮時代で忘れられない出来事がある。1年夏の合宿のことだった。黒田はこの日も監督の山上烈から「走っとけ」と言われた。黙々と走る。日が傾いても、日が暮れても、全体の練習が終わっても、走った。合宿中は監督も合宿所に寝泊まりする。黒田は消灯になるまで走り続けた。それが4日続いた。

    食事はランニングコースの近くまでチームメートがこっそり持ってきた。消灯後にスコアボードの下に倒れ込むように眠り、そして起床時間の朝6時前には走りだした。そしてまた一日中、走った。

    黒田 景色が変わらないから時間が全然過ぎない。日の傾きでしか分からなかった。

    ただ走るだけで練習が終わった。チームメートは全体練習のウオーミングアップで外野付近をランニングする。黒田とすれ違うときに「酸っぱい臭いがした」と同学年の溝下進崇は振り返る。最長4日、食事と睡眠は何とか取っていたが、風呂には1度も入っていなかった。

    合宿期間中のある日。1学年上の先輩の母親が、その先輩と黒田を合宿所から連れだし、自宅で風呂に入れてくれることになった。先輩の母親が黒田の自宅に電話すると「タクシー代は支払いますので、うちの子は合宿所に帰してください」と母靖子は黒田を突き返すようにお願いした。黒田は合宿所に戻り、また走りだした。この夜の出来事は翌日には上宮の全部員に知れ渡り、今でも伝説となっている。

    黒田 うちの母親ならそう言うだろうな、と予想はできた。(親類の)おじさんやおばさんからも「信念を貫き通す人だった」と聞いていた。家でも厳しかった。愛情のある厳しさだったように感じる。父親には野球の厳しさを教えてもらった。母親には人間的な厳しさを教えてもらった。

    溝下も黒田の母親の記憶が鮮明に残っているという。「家に泊まりに行ったり、合宿中にご飯を作りに来てくれたりした。厳しいなという印象。黒田にはもちろん言うけど、分け隔てがない。僕たちにも言わないといけないことは言ってくれていた」。筋が通っていた。

    黒田は1年秋からベンチ入りするようになった。投手としての潜在能力を買われていた部分もあるが、それ以上に同期で投手だった西浦克拓と溝下がそれぞれ野手としての能力も高く、野手として出場していたことが大きかった。投手枠が空いていたことでベンチ入りしたものの、なかなか公式戦で登板機会は巡ってこなかった。

    メンバーには入っても、走らされる毎日は続いた。それでも音を上げない。その精神力には両親の強い影響があると、当時コーチだった田中秀昌は感じていた。「忍耐強い生徒だった。それはなぜかと言われたら、絶対にお母さんだと思います。肝っ玉のお母さんで、あのお母さんの下で小さいころ育っている。今があるのは、お母さんのしつけだと思う」。過酷な練習にも耐える精神力。のちに男(おとこ)気と呼ばれる強い信念を持った思考の源流は、母親にあった。

    ただ、走り続けられる精神力は、エースへと駆け上がる向上心にはつながらなかった。そこには同学年のライバルの存在と、黒田の優しい性格があった。(敬称略=つづく)【前原淳】

    (2017年12月15日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)



    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190111-00435968-nksports-base

    甲子園出場を目指し、セレクションに合格した上宮への入学に迷いはなかった。黒田が中学3年の年に、甲子園で春準優勝、夏8強に入った強豪校。自分の力を試したかった。だが、すぐに希望がしぼむほどの厳しい現実を突きつけられた。



    黒田 中学3年で練習に参加したときに、これはえらいところに来たなと思った。野球じゃなくなった。

    中学時代まで楽しくて仕方なかった野球は、そこにはなかった。野球がさかんな大阪からえりすぐりの選手たちが集まり、競争はハイレベル。中学時代までなかった上下関係の厳しさもあった。さらに練習は想像を絶する過酷さだった。

    黒田はスポーツ推薦で入ってきた新入部員の1人にすぎなかった。当時コーチだった田中秀昌(現近大野球部監督)は黒田の第一印象をこう語る。

    田中 身長は180センチ近くありましたけど、線が細くてひょろっとしていたので、上宮の厳しい練習に耐えられるか、大丈夫かな? というのがありました。

    当時の上宮は好素材の宝庫だった。3年には前年甲子園のマウンドに上がった宮田正直(のちダイエー)、2年には薮田安彦(のちロッテ)、中村豊(のち日本ハム)、市原圭、久保孝之(ともにのちダイエー)がいた。さらに同学年にも西浦克拓(のち日本ハム)、筒井壮(のち中日)、溝下進崇(のち大阪ガス)。好投手も多く、ブルペンでの球筋に衝撃を受けた。

    黒田 大阪のトップクラスの選手が集まったレベルで(自分の)力のなさに面食らったところがあった。メンタルが弱かった部分もある。

    野心を持って入学したものの、レベルの高さにあっさり心が折られた。当時から上背があり、球には力があった。1年時も練習試合では登板機会が与えられた。だが、自信を持てない弱い気持ちでは結果を残すことはできない。制球を乱し、打たれる試合が続いた。その都度、黒田は走らされた。

    当時の監督、山上烈の「走っとけ」は地獄が始まる合図だった。グラウンド外の外野フェンス沿いを走り込む。1度「走っとけ」と言われれば「いいぞ」と言われるまで走り続けなければいけないが、なかなか「いいぞ」とは言われなかった。監督やコーチ、チームメートからも見えているだけに、休むことは許されない。黒田は、部員の間で怒りのツボにはまることから「ツボる」と言われた走り込みの常連だった。

    同学年で投手と野手を兼任していた西浦と溝下は、1度も「ツボった」経験はない。溝下は当時の黒田の投球に「負ける気がしなかった」と振り返る。黒田は練習試合で登板機会が巡ってきても、同じ失敗を繰り返していた。問題は技術面だけではなかった。

    黒田 精神的にびびっていたんじゃないかと思う。練習では投げられるのに、試合では投げられないタイプだった。走らされたり、きつく叱られたりして、イップスのようになった時期もあった。

    毎日のように走らされることが次のチャンスで重荷となる。失敗できないというプレッシャーに襲われ、負の連鎖から抜けることはできなかった。「唯一の救いだったことは、寮生活ではなかったことくらい。全体的にやるしごきはそこまで。耐えられる」。ただ、両親も黒田に厳しかった。黒田の野球人生にとって切っても切れない両親の厳しさが、今も上宮に残る伝説を生むことになる。(敬称略=つづく)【前原淳】

    (2017年12月14日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)


    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190110-00435964-nksports-base

    黒田は南海の野手としてプレーした父一博の次男として生を受けた。幼少期から野球は身近なものだった。家に父の現役時代の写真が飾られ、南海の試合を見に行けば、試合前に父がベンチ裏へ下りていって選手のサインをもらってきてくれたこともある。ただ、プロ野球選手の息子という特別な意識はなかった。



    黒田 生まれたときにはもう現役を引退していたので、現役時代を知らない。プロ野球選手はたくさんいたので、ただその中の1人という感覚。特別なことではないと思っていた。

    現役を引退した父はスポーツ用品店「クロダスポーツ」を営んでいた。黒田が小学6年のときに南海が消滅。父がプロ野球選手という意識はほとんどなかったが、成長とともに父の偉大さも感じるようになった。南海のOB会のゴルフが行われる日には、監督経験のある杉浦忠が黒田家に迎えに来ることもあった。

    小さいころは、母靖子がキャッチボール相手だった。両親から勧められるわけでもなく、小学校の友達が入っているという理由で小学1年のときに野球チームに入った。「練習に参加してボールを追いかけて、というのが楽しかった」。当時はまだ、普通の野球少年だった。

    小学5年のときに、父一博が監督に就任したボーイズリーグ「オール住之江」に入った。当時から球が速く、投手を務めるようになった。ただ、野球が盛んな土地柄もあり、周囲の目は厳しかった。「監督の息子」ということで、保護者の中には「自分の息子ばかり試合に使って」と言う者もいた。そんな声は黒田少年の耳にも入っていた。「結果を残して黙らすしかない」。子どもながらに責任感が芽生えた。

    父一博は野球に対しては厳しかった。特に準備、道具を大切にすることには厳しかった。家に帰っても、練習をさせられた。素振りだけでなく、砂袋を腰に巻いて走りに行かされることもあった。それでも黒田少年は純粋に野球が楽しくてしょうがなかった。やらされた感覚はない。

    黒田 まったく苦にならなかった。土曜になるとすごくうれしくて、学校にいても土日の野球のことばかり考えていた。体育の授業でケガしないように気をつけていたことも覚えている。

    自然と、そして深く野球にのめり込んでいった。当時から高校野球が好きで、夏休みには家の近くの住之江球場へ1人、府大会を見に行くこともあった。中学時代も続けた野球は、高校野球へのステップアップと位置づけていた。「甲子園に行きたいのと、自分の力を試したい。どこまで通用するか楽しみもあった」。大阪の強豪校を希望し、上宮のセレクションを受け、見事に合格。ほかは受けなかった。

    黒田が中学3年になった89年、上宮は元木大介(のち巨人)や種田仁(のち中日)らを擁してセンバツで準優勝、夏の甲子園では8強に入った強豪校だった。「ワクワク感はすごくあった。あとはおやじが監督をやっていた下で野球をしていた環境から、離れて野球をする楽しみもあった」。希望にあふれていた。だが、黒田少年が抱いた大きな希望はすぐに崩れ落ちることになる。上宮の門をくぐると同時に、野球は苦しみに変わった。(敬称略=つづく)【前原淳】

    (2017年12月13日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)


    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190109-00435944-nksports-base

    全国高校野球選手権大会が100回大会を迎える2018年夏までの長期連載「野球の国から 高校野球編」の、元球児の高校時代に迫る「追憶シリーズ」第26弾は黒田博樹氏(42)が登場します。甲子園出場がなく、公式戦登板も数えるほどしかなかった上宮(大阪)での3年間。チームで控え投手のままだった右腕は苦しい日々の中でどう過ごし、何を感じたのか-。全10回で振り返ります。



      ◇   ◇   ◇   

    栄光を積み重ねたマツダスタジアムの記者席で、黒田は言葉を絞り出すように話した。高校時代の3年間に思いをはせ、「走らされていた記憶しかない」と振り返った。フラッシュバックするのは、苦しかった当時の情景ばかり。できれば思い出したくなかったのかもしれない。

    広島だけでなく、米国の名門ドジャースやヤンキースでも輝かしい足跡を残した日米通算203勝の大投手も、上宮では3番手投手だった。3年夏は登板さえかなわなかった。無力さとともに味わった悔しさが野球人生の礎となり、糧となり、黒田博樹という投手をつくってきた。出場辞退という予期せぬ形で、甲子園出場がかなわなかった悲運もあった。

    黒田 同級生に聞かれると何を言われるか分からないけど、いま考えれば(甲子園に)出られなくて良かったかなと思う。当然、当時は出たかった。でも出なかったから、今の野球人生があると思う。

    中学時代まで楽しいと思っていた野球が、高校で一瞬にして楽しくなくなった。練習試合に投げれば制球を乱し、罰走を命じられた。自信もなく、自分を支える実績を積み重ねることができなかった。頭角を現した専大でも、確かな自信を得ることはできなかった。それはプロ入りしても変わらない。広島でエースとなっても、米大リーグで名門の大黒柱となっても変わらなかった。自信がないから常に全力を意識した。「1球の重み」と表現したように、マウンドではすべてをかけて腕を振った。

    広島でエースと呼ばれるようになった2000年代から他球団に所属する先輩後輩へのあいさつを避けるようになった。たとえ先輩選手であっても、あいさつに行かないことも増え、後輩からのあいさつも敬遠してきた。オフになれば他球団の選手から食事に誘われる機会もあったが、断った。

    黒田 (エースとしての)立ち居振る舞いがある。へらへらするのが嫌だったし、チームの士気にも影響すると思っていた。違うユニホームの選手には敵対心を持って戦わなければいけない。チームメートは守らないといけない。そういう意識が強かった。そうしないとマウンドで目いっぱいインサイドに投げられない。

    生きるか死ぬかの世界で生き抜くすべだった。「自分が弱いことを知っているから。それくらい徹底しないとこの世界では、結果を残せないと思っていた」。高校時代に辛酸をなめた経験から、導き出されたスタイルでもあった。

    06年に広島でFA権を取得し、高額オファーを受けても、国内他球団への移籍は考えられなかった。移籍が活発な米大リーグでも7年間で所属したのは2球団のみ。黒田の謙虚さは、より良い条件を求めて球団と交渉する代理人には珍しく映り「メジャーリーガーで最も自己評価が低い選手」とまで言われていたほどだ。

    甲子園出場がかなっていれば、黒田の野球人生は大きく変わっていたかもしれない。いや、変わっていただろう。本人も認める。

    黒田 たぶん変わっていたと思う。でも、そこからおかしくなっていたかもしれないし、野球をやめようと思ったかもしれない。万が一、いい投球をしていたら、そこでプロに入れていたかもしれない。そうなると違う球団でプレーしていたかもしれないし、ここまで野球をできていたかも分からない。全く違う人生だったと思う。

    高校時代に日の目を見なかった右腕が、大投手への階段を上がったサクセスストーリーは、多くの高校球児たちに夢を与えるに違いない。(敬称略=つづく)【前原淳】

    ◆黒田博樹(くろだ・ひろき)1975年(昭50)2月10日生まれ、大阪市出身。「オール住之江」から上宮へ進学。1年秋からベンチ入りするも、3年間で公式戦登板はわずか。3年夏も3番手投手で出番がなかった。専大を経て、96年ドラフト2位(逆指名)で広島入団。01年に初の2桁勝利をマーク。04年アテネ五輪で日本代表として銅メダル獲得に貢献。05年最多勝、06年最優秀防御率のタイトルを獲得。07年オフにFAでドジャースへ移籍し、12年1月にヤンキース移籍。15年に広島復帰、16年のリーグ優勝に大きく貢献した。日米通算533試合に登板して203勝184敗1セーブ、防御率3・51。大リーグ通算79勝は野茂(123勝)に次ぐ日本人2位。現役当時は185センチ、93キロ。右投げ右打ち。

    (2017年12月12日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)


    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190108-00434613-nksports-base

     温厚な性格の広島・大瀬良大地投手(27)大瀬良の“野球観”が変わったプレーがある。2017年8月16日の阪神戦(京セラドーム)。2回の打席で藤浪から左腕に死球を受けた。

     球場内は一時騒然。しかし、大瀬良が笑顔で「大丈夫」と藤浪にサインを送ったことで不穏なムードはすぐに収まった。この行為にネット上では「神対応だった」など称賛の声が挙がった。

     大瀬良は「別にあれは神対応だとは思ってない」と振り返る。「僕が小さいころから学んできた野球観がそういうものだったので、そういう対応をした」と当たり前のことをしただけだった。しかし、この行為が思わぬ波紋を呼んだ。16年限りで引退したレジェンド黒田氏から「大地のやったことを肯定も否定もしない。ただ、やるかやられるかという気持ちは必要」との指摘を受けたのだ。

    「“アマチュアの野球観”と“プロの野球観”に違いがあるというのは、そこで勉強させてもらった」。少年時代から高校、大学を通して自らを形成してきた野球に対する考えを見直すきっかけになったという。

     ただ「変えなくてもいい価値観もある」とも言う。チームメートとの接し方。後輩に対して言葉で伝えることやコミュニケーションを取りやすい環境をつくることは継続していくつもりだ。


    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190103-00000012-tospoweb-base

     今季限りで現役を引退した前広島の新井貴浩氏(41)が20日、広島市内で講演を行い、モデルデビューを果たした件を振り返った。12月25日発売の男性向けファッション誌「メンズクラブ」2月号に登場。中国地方の一部書店には新井氏を表紙とした特別号も置かれる。

     観客から「この間、モデルもされたようですが、今後、どのようなことをされたいですか?」と質問を受けると、「その話、出ると思っていました」と苦笑いを浮かべた。

     新井氏によると、所属事務所のマネジャーの勧めで、撮影に臨んだ。当初は「これは恥ずかしいです」と断りかけたが、「歴史も格式もある雑誌ですから」と説得されたという。「12月25日に発売ということですが、その日が本当に怖くて怖くて」と心情を明かした。

     さらに「後日談があるんです」と裏話を披露。「そのニュースが出て、絶対にあの人からメールが来ると思った。朝、携帯をパッとつけたら『モデルデビューおめでとう! 俺も大量に買って、友人に配るわ』と。はい、関西の方で監督をされていた方です。すごくネタにされるんで」と爆笑を誘った。「あの人」は阪神の前監督の金本知憲氏(50)で間違いなさそうだ。


    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20181220-00000101-sph-base

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