広島カープブログ

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    あるぞ、島内1軍キャンプ! 広島畝投手コーチが新人合同自主トレを初視察し、ドラフト2位・島内颯太郎投手(22=九州共立大)の調整具合に太鼓判を押した。



    キャッチボールを見守り「フォロースルーがマエケン(ドジャース前田)みたい」と高評価。1、2軍振り分けについては「分からない」としたが、17日のスタッフ会議で抜てきされる期待が高まった。島内も「1軍でやりたい」と意気込んだ。


    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190114-00445603-nksports-base

    広島ドラフト5位・田中法彦投手(18=菰野)が、新人一番乗りでブルペン入りした。

    トレードマークの濃いまゆ毛ばかり目立っていたが、野球でもアピール。大野練習場の屋外で立ち投げし、ストレートを約30球投じた。「7割くらいで投げました。久しぶりなんで、指にかかったり抜けたりした」と苦笑い。畝投手コーチは「いい球を投げていた。しっかり体もつくれていた」と話した。





    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190113-00445624-nksports-base

     2007年師走。夕暮れ時だった。西武新宿線・新狭山駅の改札口。寒風吹きすさぶ中、私は1台の車を待っていた。「新春ドラフト特集」の準備のため、ホンダの強打者・長野久義の取材に訪れていたのだ。

     合宿所の最寄り駅には、マネジャーさんが迎えに来てくれる予定だった。ホンダのワゴン車が止まり、運転席から日焼けした若者が出てきた。

     「報知の記者さん、ですよね。遠路はるばる、ありがとうございます」

     驚いた。長野本人だった。「すいません。マネジャーが急用で」。23歳は自らハンドルを握り、合宿所へと招き入れてくれた。

     応接室で二人。「缶コーヒーしかないんですけど…」。ありがとう。ごちそうになります。「加藤さん、いい時計していますね」。実は2年前、冬のボーナスを全部ブッ込んで買った自慢のアイテム。うれしくなった。初対面なのに、話は弾んだ。気配りができる男。私は長野が好きになった。

     あの日から11年の歳月が経つ。09年ドラフト1位で巨人に入団した長野は、10年に新人王、11年に首位打者、12年に最多安打のタイトルを獲得。中心打者として12年からのリーグ3連覇に貢献した。昨季は116試合に出場し、打率2割9分、13本塁打、52打点の成績を残した。

     しかし、長野が成し遂げてきた「仕事」はこれらのバットが生み出したものだけではない。チームが一つになるため、勝つために、ずっと心遣いを重ねてきた。中でも期待と不安を胸に海を越えて日本にやってきた、助っ人たちへの配慮は特筆に値するだろう。

     マシソンはかつて、こんな話をしてくれた。

     「珍しい人だね。あれだけすごい選手なのに、みんなに気を遣ってくれるんだ。僕が来日して間もない時も、言葉の壁を越え、真っ先に自己紹介してくれたんだよ」

     14年から3年間、巨人でプレーしたアンダーソンは言った。

     「長野さんは僕が今まで出会った中で一番、心が清らかで、温かい人だよ」

     長野の新天地は広島に決まった。快活で謙虚な人柄だけに、カープでもナインやファンに愛される存在となることは間違いない。

     そして今後の巨人には、長野が長年務めてきた「数値化されないファインプレー」を遂行できる後継者の出現が求められる。助っ人にさりげなく声をかけ、笑顔で励ます。長野の背中を見続けてきた若きG戦士の中で、誰がそのような役割を担うのか。グラウンドの内外に熱視線を送っていきたい。(野球デスク・加藤 弘士)


    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190114-00000116-sph-base

     広島の平岡敬人投手(23)が12日、廿日市市の大野練習場でキャッチボールやゴロ捕球などの自主トレを行った。2年目の右腕は、今春の1軍キャンプに初めて参加することが濃厚。課題とするフィールディングでアピールし、1軍生き残りを目指す。



     首脳陣が投手陣に求めるのは投球だけではない。ゴロ捕球やサインプレーなどの総合力が、開幕1軍入りへの判断基準だ。初めて春季キャンプを1軍で迎えることが濃厚な平岡の課題は守備。「それを克服して生き残りたい」と力を込めた。

     昨秋キャンプで行われた投内連係などの守備練習ではミスが目立った。ブルペンでの投球練習で評価を上げただけに悔しさが残った。同じ轍(てつ)を踏むわけにはいかない。今オフは守備への意識を高く持ち、ノックを受けている。

     「大卒だし今年が勝負の1年」。昨季は体づくりに力を入れ1軍登板はなかった。2年目の今季はその成果を示さなければならない。さらに即戦力としてドラフト2位で島内(九州共立大)が加入しライバルが増えた。強い危機感がある。

     筋力トレやランニングを継続しておりコンディションは良好。「太りやすい体質」という体も、体重はシーズンとほぼ同じ95キロ前後を維持する。「重さはない」。軽快に打球を処理できそうだ。

     昨年末、佐々岡投手コーチは若鯉に「期待している」と言った一方で、準備不足に見えた投手については、3日間しかない第1クール終了後の入れ替えを示唆した。「1日1日が勝負」と平岡。開幕1軍入りを目指し、日南のグラウンドに立つ。


    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190113-00000032-dal-base

     【球界ここだけの話】

     広島のドラフト1位・小園海斗内野手(18)=報徳学園高=ら育成を含む新人8選手が6日、広島・廿日市市内の大野練習場に隣接する選手寮「大野寮」に入寮した。1975年のカープ初優勝時のメンバーで現在は寮長を務める道原裕幸さん(69)はルーキーに、1軍で成功する秘訣を説いた。

     「寮に入ってきた選手にまず最初に伝えるのは時間厳守と食事の大切さです。1軍で活躍するためにはご飯をたくさん食べないといけません。1軍で活躍している選手でいえば丸や菊池(涼)、最近ではアドゥワがよく食べていましたね」

     現在は球界を代表する選手に成長した丸と菊池涼もルーキー時代は今の新人選手と同じように体の線が細く、パワー不足だったが、大野寮に入って強化した。グラウンドではカープ伝統の猛練習を耐え抜き、寮では1食2000キロカロリーになる栄養満点のメニューを朝昼晩欠かさず食べて、1シーズンをフルで戦えるプロ仕様の体を作り上げた。

     道原寮長は若鯉が成長する姿を近くで見たきたからこそ「特に朝食をしっかり食べているか見ます。朝にしっかり食べない選手はうまくなりません。朝食の時間に遅れたり、ご飯を残す選手はコーチに連絡することもあります。それぐらい大事なこと」と力説する。

     新人、独身選手、ドミニカ共和国のカープアカデミー出身の練習生らが共同生活を送る同寮の献立は料理長の宮本悦夫氏が考えている。栄養バランスやカロリー計算はもちろんのこと、選手個々にアレルギーはないかをヒアリング。ときにはドミニカ共和国出身の選手のために郷土料理「ポジョギサード(鶏肉のトマト煮)」を作ったりと工夫している。

     大野寮を経て、1軍へ羽ばたいた生え抜きメンバーが次々に台頭して球団史上初のリーグ3連覇を達成したカープ。次世代を担う存在として注目を集める走攻守そろった黄金ルーキーの小園も赤ヘル式“食育”で大きく成長する。(柏村翔)


    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190113-00000500-sanspo-base

     広島への電撃移籍が話題を呼んでいる長野久義選手について、妻の下平さやか・テレビ朝日アナウンサーが12日放送のAbemaTV『みのもんたのよるバズ!』内で心境を生激白した。

     有力選手の思わぬ移籍に、地元紙は号外を発行、地元テレビ局も特番を放送するなど、街を挙げての歓迎ムード。下平アナは「ありがたいこと」と話し、司会のみのもんたが5年前に広島の堂林選手と結婚したTBSの枡田絵理奈アナウンサーは結婚を機に退社、広島への移住を決断したことを挙げ、今後の生活について尋ねると「これから人事など、各所に相談して決めないといけないなって。ただ、私が引っ越したとしても彼は日本中を回ることになるので、どういう生活になるのかさっぱりわからないんです」とコメント。「でも、素敵な就職先を見つけたんです。みのさんが社長を務めるニッコクさんの広島営業所があるんですよね(笑)」と冗談も飛ばしていた。


    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190112-00010020-abema-base

    黒田は南海の野手としてプレーした父一博の次男として生を受けた。幼少期から野球は身近なものだった。家に父の現役時代の写真が飾られ、南海の試合を見に行けば、試合前に父がベンチ裏へ下りていって選手のサインをもらってきてくれたこともある。ただ、プロ野球選手の息子という特別な意識はなかった。



    黒田 生まれたときにはもう現役を引退していたので、現役時代を知らない。プロ野球選手はたくさんいたので、ただその中の1人という感覚。特別なことではないと思っていた。

    現役を引退した父はスポーツ用品店「クロダスポーツ」を営んでいた。黒田が小学6年のときに南海が消滅。父がプロ野球選手という意識はほとんどなかったが、成長とともに父の偉大さも感じるようになった。南海のOB会のゴルフが行われる日には、監督経験のある杉浦忠が黒田家に迎えに来ることもあった。

    小さいころは、母靖子がキャッチボール相手だった。両親から勧められるわけでもなく、小学校の友達が入っているという理由で小学1年のときに野球チームに入った。「練習に参加してボールを追いかけて、というのが楽しかった」。当時はまだ、普通の野球少年だった。

    小学5年のときに、父一博が監督に就任したボーイズリーグ「オール住之江」に入った。当時から球が速く、投手を務めるようになった。ただ、野球が盛んな土地柄もあり、周囲の目は厳しかった。「監督の息子」ということで、保護者の中には「自分の息子ばかり試合に使って」と言う者もいた。そんな声は黒田少年の耳にも入っていた。「結果を残して黙らすしかない」。子どもながらに責任感が芽生えた。

    父一博は野球に対しては厳しかった。特に準備、道具を大切にすることには厳しかった。家に帰っても、練習をさせられた。素振りだけでなく、砂袋を腰に巻いて走りに行かされることもあった。それでも黒田少年は純粋に野球が楽しくてしょうがなかった。やらされた感覚はない。

    黒田 まったく苦にならなかった。土曜になるとすごくうれしくて、学校にいても土日の野球のことばかり考えていた。体育の授業でケガしないように気をつけていたことも覚えている。

    自然と、そして深く野球にのめり込んでいった。当時から高校野球が好きで、夏休みには家の近くの住之江球場へ1人、府大会を見に行くこともあった。中学時代も続けた野球は、高校野球へのステップアップと位置づけていた。「甲子園に行きたいのと、自分の力を試したい。どこまで通用するか楽しみもあった」。大阪の強豪校を希望し、上宮のセレクションを受け、見事に合格。ほかは受けなかった。

    黒田が中学3年になった89年、上宮は元木大介(のち巨人)や種田仁(のち中日)らを擁してセンバツで準優勝、夏の甲子園では8強に入った強豪校だった。「ワクワク感はすごくあった。あとはおやじが監督をやっていた下で野球をしていた環境から、離れて野球をする楽しみもあった」。希望にあふれていた。だが、黒田少年が抱いた大きな希望はすぐに崩れ落ちることになる。上宮の門をくぐると同時に、野球は苦しみに変わった。(敬称略=つづく)【前原淳】

    (2017年12月13日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)


    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190109-00435944-nksports-base

    広島ドラフト1位小園海斗内野手(18=報徳学園)ら広島新人8選手が10日、合同トレーニング第1クールを打ち上げた。11日は休みで、都内で行われるNPB新人研修に参加。この日午後に東京へ移動した。


    7日から始まった合同トレーニングでは基礎体力強化のほか、キャッチボールやノックなどの技術練習、トレーニング室でのウエートトレーニングを行ってきた。小園は「いい感じでトレーニングができています」と胸を張る。連日スカウト陣や報道陣が見守る環境にも「もう慣れました」とけろり。昨夏甲子園とU18日本代表として注目された大物ぶりを発揮する。

    12日から第2クールに入り、15日には会沢選手会長ら先輩選手との合同自主トレが始まる。「今までと変わるけれど、見て盗んだり、聞いてコミュニケーションを取れたらと思います」。順調にステップを踏めば、1軍キャンプ参加も見えてくる。


    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190110-00442381-nksports-base&pos=4

    全国高校野球選手権大会が100回大会を迎える2018年夏までの長期連載「野球の国から 高校野球編」の、元球児の高校時代に迫る「追憶シリーズ」第26弾は黒田博樹氏(42)が登場します。甲子園出場がなく、公式戦登板も数えるほどしかなかった上宮(大阪)での3年間。チームで控え投手のままだった右腕は苦しい日々の中でどう過ごし、何を感じたのか-。全10回で振り返ります。



      ◇   ◇   ◇   

    栄光を積み重ねたマツダスタジアムの記者席で、黒田は言葉を絞り出すように話した。高校時代の3年間に思いをはせ、「走らされていた記憶しかない」と振り返った。フラッシュバックするのは、苦しかった当時の情景ばかり。できれば思い出したくなかったのかもしれない。

    広島だけでなく、米国の名門ドジャースやヤンキースでも輝かしい足跡を残した日米通算203勝の大投手も、上宮では3番手投手だった。3年夏は登板さえかなわなかった。無力さとともに味わった悔しさが野球人生の礎となり、糧となり、黒田博樹という投手をつくってきた。出場辞退という予期せぬ形で、甲子園出場がかなわなかった悲運もあった。

    黒田 同級生に聞かれると何を言われるか分からないけど、いま考えれば(甲子園に)出られなくて良かったかなと思う。当然、当時は出たかった。でも出なかったから、今の野球人生があると思う。

    中学時代まで楽しいと思っていた野球が、高校で一瞬にして楽しくなくなった。練習試合に投げれば制球を乱し、罰走を命じられた。自信もなく、自分を支える実績を積み重ねることができなかった。頭角を現した専大でも、確かな自信を得ることはできなかった。それはプロ入りしても変わらない。広島でエースとなっても、米大リーグで名門の大黒柱となっても変わらなかった。自信がないから常に全力を意識した。「1球の重み」と表現したように、マウンドではすべてをかけて腕を振った。

    広島でエースと呼ばれるようになった2000年代から他球団に所属する先輩後輩へのあいさつを避けるようになった。たとえ先輩選手であっても、あいさつに行かないことも増え、後輩からのあいさつも敬遠してきた。オフになれば他球団の選手から食事に誘われる機会もあったが、断った。

    黒田 (エースとしての)立ち居振る舞いがある。へらへらするのが嫌だったし、チームの士気にも影響すると思っていた。違うユニホームの選手には敵対心を持って戦わなければいけない。チームメートは守らないといけない。そういう意識が強かった。そうしないとマウンドで目いっぱいインサイドに投げられない。

    生きるか死ぬかの世界で生き抜くすべだった。「自分が弱いことを知っているから。それくらい徹底しないとこの世界では、結果を残せないと思っていた」。高校時代に辛酸をなめた経験から、導き出されたスタイルでもあった。

    06年に広島でFA権を取得し、高額オファーを受けても、国内他球団への移籍は考えられなかった。移籍が活発な米大リーグでも7年間で所属したのは2球団のみ。黒田の謙虚さは、より良い条件を求めて球団と交渉する代理人には珍しく映り「メジャーリーガーで最も自己評価が低い選手」とまで言われていたほどだ。

    甲子園出場がかなっていれば、黒田の野球人生は大きく変わっていたかもしれない。いや、変わっていただろう。本人も認める。

    黒田 たぶん変わっていたと思う。でも、そこからおかしくなっていたかもしれないし、野球をやめようと思ったかもしれない。万が一、いい投球をしていたら、そこでプロに入れていたかもしれない。そうなると違う球団でプレーしていたかもしれないし、ここまで野球をできていたかも分からない。全く違う人生だったと思う。

    高校時代に日の目を見なかった右腕が、大投手への階段を上がったサクセスストーリーは、多くの高校球児たちに夢を与えるに違いない。(敬称略=つづく)【前原淳】

    ◆黒田博樹(くろだ・ひろき)1975年(昭50)2月10日生まれ、大阪市出身。「オール住之江」から上宮へ進学。1年秋からベンチ入りするも、3年間で公式戦登板はわずか。3年夏も3番手投手で出番がなかった。専大を経て、96年ドラフト2位(逆指名)で広島入団。01年に初の2桁勝利をマーク。04年アテネ五輪で日本代表として銅メダル獲得に貢献。05年最多勝、06年最優秀防御率のタイトルを獲得。07年オフにFAでドジャースへ移籍し、12年1月にヤンキース移籍。15年に広島復帰、16年のリーグ優勝に大きく貢献した。日米通算533試合に登板して203勝184敗1セーブ、防御率3・51。大リーグ通算79勝は野茂(123勝)に次ぐ日本人2位。現役当時は185センチ、93キロ。右投げ右打ち。

    (2017年12月12日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)


    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190108-00434613-nksports-base

     広島の皆さん、お世話になります――。巨人にFA移籍した丸佳浩外野手(29)の人的補償によりカープ移籍が決まった長野久義外野手(34)が本紙の直撃に応じ、電撃発表後初めて自らの口で現在の心境を明かした。両軍ファンの心を打ったあのコメントに込めた思いと、前を向いて新天地に臨む決意。球界全体に波紋が広がり続けるなか、遠く離れた異国の地で男は今、何を思うのか。

     丸を失った心の穴を埋めてくれるようなヒーローの誕生に、広島は球団の枠を超えて街全体が沸いている。市内では地元紙が号外を発行し、地元テレビ局は急きょ特番を放送。カープナインも続々と歓迎の声を上げた。そんな熱狂は遠く米国・ロサンゼルスで自主トレ中の長野にも届いていた。

    「うれしいですよね、本当に…。カープの皆さんはもちろん、広島の街の知り合いの方々も、皆さん口々に『困ったことがあれば何でも助けになるから』と言ってくれているんです。ありがたいことですよね」。いつものちゃめっ気は封印して、長野は素直な思いを口にした。

     思い焦がれて入団した巨人を思わぬ形で去ることになった。傷ついていないはずがない。それでも「僕は大丈夫ですよ」と記者のしんみりムードを穏やかな口調で制すると「伝えたいことはあのコメントに込めました」と短い言葉を発した。

     球界に衝撃が走った直後、巨人を通じて発表された長野のコメントは両軍ファンの心に響いた。その始まりは「3連覇している強い広島カープに選んでいただけたことは選手冥利に尽きます」。続けて巨人のチームメートやファンら、全ての関係者へこれまでの感謝を述べ「ジャイアンツと対戦することを楽しみにしています」という言葉で結んでいた。

     長野によると、自ら紙にペンを走らせて何度も推敲を重ね、数時間考え抜いたのだという。

    「『驚きましたが…』というような言葉は絶対に使いたくありませんでした。まずは選んでいただいたカープの方々への思いを一番初めに伝えるべきだろうと思いました。それからファンの方々やジャイアンツの皆さんへの感謝も。どう受け止められたかは分かりませんが、自分なりにしっかり考えたつもりです」

     あふれるほど抱えているはずの巨人への思いは封印し、代わりに最後口にしたのは新天地に臨む前向きな思いだった。

    「なぜカープはあんなに強いのか、ずっと知りたかった。中に入ればきっとそれが分かるでしょう。新しい野球を勉強できるのは、本当に楽しみです」

     天才・長野が王者の野球を吸収したとき、どんな化学反応が起こるのか――。愛したG党の涙に見送られ、赤く染まった広島の街にもうすぐ飛び込む。


    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190111-00000006-tospoweb-base

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