広島カープブログ

広島カープのまとめブログです!試合速報、日程、選手、グッズ情報など広島カープに関連する情報を配信していきます!

    カープOB

     12球団のドラフト候補には入っていなかった――。

     5日に現役引退会見を行った広島の新井貴浩(41)。通算2200安打、319本塁打を誇る男も、アマ時代はプロ入りすら危うかった。

    ■「契約金はいりません」

     1998年ドラフト6位で広島に入団する当初から取材する元スポーツ報知記者の駒沢悟氏はこう語る。

    「新井にはプロ志向があったものの、プロの評価は打撃は粗く、肩が弱い、スローイングに難があるという判断。しかし本人は諦めなかった。駒大の先輩である野村謙二郎(前広島監督)の自宅で素振りを見てもらい、推薦してほしいと頼み込んだ。当時の太田監督も、『伸びしろがある。プロに入れてやりたい』との思いがあった。新井の父親は担当の渡辺秀武スカウト(故人)に『契約金はいりません。息子の夢をかなえてください』と頭を下げた。さらに駒大OBでその年に達川監督のもと、ヘッドコーチ就任が決まっていた大下剛史氏にもすがった。こうしたコネもあり、ようやく獲得へのゴーサインが出た。広島が指名挨拶をしたのはドラフト10日ほど前。当初は8位で指名する予定だったとも聞いています」

     入団当時の監督だったソフトバンクの達川光男ヘッドコーチはこの日、「どうしてプロ野球に来たんかなという感じ。絶対に3年以内でクビになると思った」と述懐したが、それも当然だろう。

     新人だった99年の日南キャンプ。守備はおろか、打撃練習でもなかなかバットの芯に当たらない。駒沢氏は、「大下ヘッドには無理やり入団させたという思いもあってか、泥だらけになるまでノックをしていたし、新井もそれに食らいついた。手の豆が何度もつぶれるくらい、誰よりもバットを振っていた」と言う。

    ■ケガをして反省の丸坊主に

    「最近も球場で挨拶した時に『元気です』と言っていましたし、引退と聞いたときは驚きました」とは、元同僚でテレビ解説者の山内泰幸氏(45)。

    「新井が新人だった年のキャンプで、2人とも丸坊主にしたんです」と、当時を振り返る。

    「キャンプ前半にふくらはぎを肉離れしてしまい、早朝にリハビリ組がいる広島・大野練習場に強制送還された。新井も同時期にリタイアし、広島で一緒にリハビリに取り組んだ。ケガが癒え、いざ日南に再合流というタイミングで、反省の意味を込めて、確か、寮にあったバリカンで一緒に頭を丸めました(笑い)」

     さらに山内氏は言う。

    「当初は守備では全く動けなかったし、一塁守備の際に、アウトカウントを間違えてボールを一塁コーチにトスし、走者の生還を許したこともある。山本浩二監督時代の2003年には開幕から4番を任されるも、プレッシャーのあまり『4番を外して下さい』と首脳陣に直訴したこともあった。ただその裏では、当時ブルペン捕手だった水本勝己二軍監督と毎日欠かさず、早出特打をやっていた。水本さんは『阪神にFA移籍するまで続けていた』と言っています。決して自分に妥協することなく、血のにじむような努力をしていました」

     新井がアニキと慕う金本知憲(現阪神監督)は、広島時代、新井がミスをするとよく怒ったという。

    「おまえは誰に入れてもらった? 先輩の顔をつぶすようなことはするな」

     08年に阪神にFA移籍してからは不遇をかこったこともある。前出の駒沢氏が言う。

    「08年北京五輪で腰椎を骨折してから、背中と腰の張りや痛みと闘ってきた。今も完治はしていないと思います。自ら阪神を自由契約になった時には『僕はもう、阪神に必要とされてないんですよ』と話したことがありました。それが広島に復帰して、もう一度鍛え直した。『打撃は無限大です』と言っていたが、広島復帰後も打撃は進化した。下半身をうまく使って、逆方向へうまく打つようになりましたから」

     20年の壮絶なプロ生活は間もなく終焉を迎える。


    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180906-00000128-dal-base

    【大下剛史 熱血球論】5日午前9時半過ぎだった。携帯電話の着信音に気づいてディスプレーを見たら「新井貴浩」の名前が表示されていた。着信ボタンを押し「どうしたんな、こんな早くから。やめるんか?」と問うと、受話器の向こうから「あ、あ、あ…はい」という聞き慣れた新井の声が返ってきた。私からは「そうか、ご苦労だったの」と、ねぎらいの言葉をかけて手短に会話を終えた。

     あらためてテレビで入団当時の映像を見たら、別人のようにホッソリしていて驚いたが、少々のことではバテたりケガをしたりしない体の強さは魅力だった。打っても投げても走っても不格好。当時広島のヘッドコーチだった私は、新井の入団1年目にあたる1999年の春季キャンプで、とても活字にできないようなことも言ったし、やった。それでも歯を食いしばってついてくるのが新井だった。

     誰にも負けない長所はもう一つある。裏表がなく、誰からも好かれる性格の良さだ。先輩ばかりでなく、菊池ら年下の選手にイジられるのも愛されているからこそ。タイトルを取ろうが、通算2000安打の金字塔を打ち立てようが偉そうにすることのない謙虚さも含め、これだけの人物はそういない。いちずな面もしかり。オフに鹿児島の最福寺で行ってきた護摩行は14年も続いた。

     一度は阪神へFA移籍しながら、古巣に戻って有終の美まで飾らせてもらえた球団への恩は、新井も心から感じている。引退表明はしたが、リーグ3連覇、さらには34年ぶり日本一への戦いは続く。球団や熱い応援で支えてくれたファンに恩返しするためにも、最後まで“新井らしさ”をグラウンドで見せ続けてほしい。(本紙専属評論家)


    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180906-00000026-tospoweb-base

     ソフトバンクの達川光男ヘッドコーチ(63)が5日、引退を表明した広島・新井貴浩内野手(41)をねぎらった。

     新井のルーキーイヤーから2年間、監督として指導。初めてのキャンプで見た際は、ファウルチップばかりの新井に対して「どうしてプロ野球に来たんかなという感じだった」と懐かしそうに回想。「3年でクビになると思っていたけど、20年。2000安打も打って。強みは体が強かったことと、痛みにも強かったこと」。努力を惜しまなかった41歳に敬意を表した。

     「ここまで20年間、ようやったのぅ」と広島弁でねぎらい、「色んな経験をしてきた。2軍からたたき上げの人間だから、指導者になってほしい」とプロ野球界の将来をたくした。


    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180905-00000132-spnannex-base

     元広島の川島堅さん(48)は、一部メディアで「甲子園史上最も美しいフォーム」と称された。東亜学園2年の秋にブロック予選で敗退した後、自ら試行錯誤を重ねてつかんだものだった。


     川島さん(以下、敬称略) 2年と3年では投げ方がまったく違います。2年の時は力任せで投げていました。野茂さんほどではないけど、打者に背中を向けていました。

     夏の大会も近づいた5月にアクシデントがあった。浦和学院との練習試合に登板した際、右手中指の筋を伸ばして投げられなくなってしまった。

     川島 投げているときにブチッとなりました。もうボールが握れない。本来なら最後の投げ込みをする時期に、1カ月半ぐらい投げられなかった。投球再会は6月後半…もう大会の直前でした。ぶっつけ本番ですね。

     不安を持って最後の大会を迎えた。

     川島 そうですね。でも、もう3年生だったし、負けたら引退するだけ。それほど深くは考えていませんでした。この時はプロに行くという気持ちも、まったくありませんでしたから。進路ですか? 大学でもやれたらいいかなと思っていたぐらい。監督が東洋大出身だったので、東洋かな。でも東都の強豪で通用するかな。試合に出られなかったらつまらないな。そんなことを考えていました。

     前年の経験から体力温存を重視した。2年夏の西東京大会は、背番号11ながら主力投手として奮闘した。全6試合のうち5試合で完投と、ほぼ1人で投げきった。優勝はしたものの、最後はバテてしまった。

     川島 3球勝負で球数を減らした。三振を狙ったわけではなく、どんどん勝負にいっただけ。下位打線にはど真ん中に投げていましたからね。言い方は悪くなりますが、抜いて投げることもありました。前年は6試合。この年はノーシードで7試合だから、さらにきついと思っていた。準決勝の日大三にピークを持っていこうと。そこまでは少々打たれても、要所を抑えて勝てればいいと考えていました。

     久留米西との4回戦では3点を失った。日本学園との5回戦は、1発を浴びて先行を許した。終盤に逆転して2-1で勝利した。

     川島 抜きすぎたところもあったかな。久留米西に3点を取られたけど、結局、甲子園の準決勝まで3失点以上はこれだけでした。あとは全部2点以内に抑えました。

     日大三の準決勝は圧巻だった。

     川島 一番本気で投げました。ほとんどヒットを打たれていないんじゃないかな。

     わずか3安打で完封。11三振を奪い、三塁を踏ませぬ投球だった。決勝では東京菅生(現・東海大菅生)を6-1で破り、2年連続の甲子園出場を決めた。

     圧巻の投球は甲子園でも続いた。

     ◆1回戦 2-1伊野商(高知) 9回111球6安打7奪三振0四球1失点1自責

     ◆2回戦 3-2金沢(石川) 9回139球6安打14奪三振0四球2失点1自責

     8月16日に東東京代表の帝京・芝草宇宙(ひろし)投手が、東北戦でノーヒットノーランを演じた。東亜学園の3回戦は、その翌日に行われた。

     ◆3回戦 3-0延岡工(宮崎) 9回96球6安打7奪三振0四球1失点1自責

     川島 この頃が一番調子がよかったですね。準々決勝の相手は抽選で決めたのですが、キャプテンに「PL学園を引いてきて」と言ったぐらいです。「今なら、勝てずともいい勝負ができる」と。どうせならセンバツ王者のPLとやりたかったし、負けても胸を張って帰れるでしょう。でも、対戦できませんでした。

     PL学園は立浪和義主将を軸に、エース野村弘(弘樹)投手、片岡篤史選手らを擁し、この年のセンバツを制していた。結果的に春夏連覇を果たす。

     ◆準々決勝 3-0北嵯峨(京都) 9回108球3安打14奪三振1四球0失点0自責

     この試合、甲子園で初めて四球を出した。8回2死から8番打者に対し、カウント3-2から外れた。甲子園での無四球は34回2/3で止まった。122人目の打者、441球目の初四球だった。

     川島 無四球は意識しました。そこまでいくと騒がれますので。ただ、四球を出した選手は試合前に監督と「今大会のラッキーボーイかもしれない。要注意が必要」と話していたんです。だから厳しくいった結果でした。

     ◆準決勝 1-2×常総学院(茨城) 9回0/3 152球6安打5奪三振2四球2失点2自責

     同点で迎えた延長10回裏。常総学院の先頭、島田直也投手に右前打を浴びた。続く仁志敏久選手を遊ゴロに打ち取るも、遊撃手が一塁へ悪送球した。一塁走者の島田投手が一気にサヨナラのホームに返った。

     川島 もうヘロヘロでしたね。6回ぐらいから肩も上がらなくなっていた。いっぱいでした。

     西東京大会、甲子園を通じて川島さんの名前は高まった。進路を考える時期がきた。

     川島 全日本の遠征でチームメートと話しているとき「お前、ドラフト1位だな」と言われて、そうなのかなと。

     当時の新聞を振り返ると、川島さんは在京セ・リーグの希望を口にしている。ただ、同年の目玉には立大の長嶋一茂選手がいた。在京セのヤクルト、大洋(現DeNA)は長嶋選手に狙いを定めたと報じられていた。

     川島 在京セとは言っていたけど、一茂さんがいたので無理だと思っていました。広島、阪神、近鉄が熱心に誘ってくれていました。ただ、広島には行ったことがなかったのでイメージが沸かなかった。行ったことがある大阪だろうと思っていました。

     11月18日のドラフト会議では広島、阪神、近鉄の3球団から指名され、抽選の末に広島入団が決まった。

     ◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇

     当時の広島は投手王国だった。大野豊投手、北別府学投手、川口和久投手、抑えには津田恒実投手もいた。

     川島 大野さん、北別府さん、川口さん、長富さん、清川さん、紀藤さん、金石さん、川端さん、白武さん、津田さん…すごい人ばかりだった。私のことなんか獲得する必要があったのかなと思った。もう入る余地なんてないですよ。1軍は雲の上の存在でした。当時は野手も含めて1、2軍の入れ替えも少なくて、入れるわけがないと思っていました。

     だが、1年目の8月13日に1軍昇格の機会が巡ってきた。金石投手が肘を痛めてことによる入れ替えだった。

     川島 2軍は広島市民球場でデーゲームでした。そこで首脳陣に「お前、1軍に上がりたいか」と聞かれて「はい」と答えた。そうしたら「じゃあ、このまま夜も残れ」と言われました。ナイターで1軍の試合だったんです。

     そこまでウエスタン・リーグで4勝6敗、防御率3・33の成績を残していた。昇格時、当時の阿南準郎監督が「最初は楽な場面で投げさせたい」とコメントしているが、なかなかその場面は巡ってこなかった。

     川島 1軍には上がったけど、しばらく登板の機会はありませんでした。敗戦処理が役目ですが、ピッチャーがいいから試合が壊れないから出番がない。一番下なので雑用係とブルペンで投球練習するだけの毎日でした。

     1軍昇格から約1カ月は出番のない試合が続いた。チャンスは9月16日に訪れた。高校時代に慣れ親しんだ甲子園での阪神戦。川島さんは球場に到着して、忘れ物に気付いた。コンタクトレンズだった。プロに入り、ナイターで捕手のサインが見えにくいと感じて使うようになった。

     川島 忘れたと気付いたけど黙っていました。その日の先発は大野さんでしたから、どうせ出番はないだろうと思ったんです。でも、その日に限って大野さんが打たれて、ブルペンに「次の回いくぞ」と電話がきた。

     先発の大野投手が4回途中6失点でKOされた。この回は紀藤投手が後続を断ち、次の5回から川島さんがマウンドに上がった。

     投球練習を終えると、達川光男捕手がサインを打ち合わせるためにマウンドまできた。

     川島 そこで打ち明けました。達川さんに「すみません。今日コンタクトを忘れました」と言ったら「バカタレ!」と怒られた。でも、すぐに「よっしゃ、分かった」と言って戻っていった。何が分かったのかなと思っていたら、おなかの前で大きくサインを出してくれました。すごい見やすいんですよ。

     達川捕手といえば、ホーム付近でコンタクトレンズを落として探す姿がテレビ番組の珍プレーで取り上げられていた。その達川捕手に、コンタクトレンズのことで叱られた。

     川島 達川さんは本当に頭のいい方ですよね。一瞬で「よし分かった」ですから。1回を抑えてベンチに戻ったら「大野だって打たれるんじゃ。きっちり準備をしておけ」と怒られました。

     1年目は未勝利に終わったが、2年目の1989年(平元)に初勝利を挙げた。4月29日、やはり甲子園での阪神戦だった。9回5安打1四球で1失点の完投勝利だった。

     川島 この時も達川さんのおかげです。ブルペンで調子が悪かったんですが、達川さんは「あまりよくないな」と言った後で「よっしゃ、任せておけ」と言ってくれた。もうサイン通りに投げるだけでした。それまでは内容がよくても勝てなかったのに、この日は調子が今イチで勝てました。

     ただ、この時の不調は長引いた。初勝利の後、中4日で5月4日のヤクルト戦(広島)に登板すると、4回1/3を7安打3失点で途中降板した。さらに同18日の阪神戦(広島)は1回1/3を4安打3四球の6失点でKOされた。

     川島 初勝利の後で中4日ですよね。なかなか球が走らなかった。この年から山本浩二さんが監督になって、キャンプから競争が激しかった。私も飛ばしていたんで、もうヘロヘロになっていていたんでしょう。結局この年は1軍と2軍を行ったり来たりでした。

     この年は8月6日にもう1度先発している。先発予定だった北別府投手が右肩の異常を訴えて回避したため、緊急的な昇格で先発した。だが、4回5安打3失点で降板となり、チャンスを生かせなかった。

     翌90年は1軍に入れなかった。結果を残せず、首脳陣からフォーム変更を指示された。高校時代、「甲子園で最も美しい」と評されたフォームだったが、プロでは欠点と評された。

     川島 プロとすれば迫力に欠けていたのでしょう。「このままじゃ終わってしまうよ。イメージを変えないとダメだ」と言われて、スリークオーターで投げるようになりました。

     高校時代からの力みのないフォームは理想的に見えるが…

     川島 結果が出れば何も言われないんですよ。でも、結果が出ていないから仕方がない。言われたらやるしかなかった。

     フォームを変更して2カ月ほど過ぎた5月中旬、川島さんの右肘に異変が起きた。(つづく)【飯島智則】


    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180713-00261800-nksports-base.view-000

    【熱血球論 大下剛史】中日がサヨナラ負けで3タテを食らった9日の広島戦で、両チームの差を痛感するワンプレーがあった。4回、広島が西川の適時打で同点に追いつきなお無死一、二塁の場面だ。岡田の投前へのバントは三塁で完全に封殺できる打球だったが、三塁手の福田は前に出てしまってベースに戻れない。みすみす一死二、三塁とピンチを広げてしまった。

     あれは三塁手が絶対に前に出てはいけない打球だ。笠原が踏ん張って追加点にはつながらなかったが、広島の守備陣なら考えられないプレーだ。投げて打っては両チームにそれほど力の差はない。ただ、こうしたちょっとしたことが積もり積もって首位と最下位という差になっている。

     福田はもともとが捕手で、内野はほとんど一塁しか守っていない。今年から打撃を買われて三塁へ本格的にコンバートされた選手。プロのコンバートとはそんなに簡単なもんじゃない。守備が打撃にも影響する。

     福田のコンバートは首脳陣が決めてキャンプから練習もさせていたのだから、私がとやかく言うつもりはない。福田も本職じゃないのだからミスもする。守備でミスをすれば苦しいだろう。それでも「俺は打ってナンボの選手。守りのミスは打って取り返す」ぐらいの強い精神力を持ってほしい。

     大事なのは首脳陣が守りのミスを怒らず、どれだけ我慢できるか。練習をさせるのは当たり前だが、怒ってはいけない。そうしたベンチの我慢が選手へも伝わる。それが首脳陣と選手の強い絆にもなる。まだまだ中日は発展途上。このワンプレーを見てつくづくそう思った。 (本紙専属評論家)


    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180810-00000027-tospoweb-base

    <全国高校野球選手権:下関国際-創志学園>◇15日◇2回戦

     「レジェンド始球式」に沖縄(現沖縄尚学)OBで元広島の安仁屋宗八氏(73)が登板した。往年のフォームをほうふつとさせる力投で力強く投げ込んだ。

     「終戦の日」の登板に「100回大会を迎えられて、日本が平和じゃないと続くことじゃない。日本が平和だから続いたこと。戦争というのは2度と起きてはいけない。終戦の日に始球式をさせてもらえることは、幸せの1ページ。一生の思い出です」と平和を願った。


    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180815-00300125-nksports-base

     1966年(昭41)、大阪大会の準決勝で快速左腕・江夏豊を擁する大院大高は公立校・桜塚に0-1で惜敗した。決勝点は3回に出た内野手の3失策によるものだった。もう1歩のところまでに迫った甲子園にわずかに届かなかった。自身が打ち込まれたわけでもない。しかし江夏は今はもちろん、その頃も不満を示すことはなかったという。


     江夏 ウチも桜塚の奥田(敏輝)を打てなかった。1回裏1死一、三塁。ここで4番打者のオレが二ゴロ併殺に倒れた。チャンスらしいチャンスはここだけだったな。それに野球にエラーはつきものだしな。そういう考えは、もう頭に染み込んでいた。だからプロ野球の世界に入った後も野手のエラーにそんなに怒った記憶はないんや。

     大院大高3年になったころ江夏の名前は高校球界にとどろいていた。「学院に江夏あり」。そう言われた。向かうところ敵なしの状況に慢心も生まれていった。味方が失策すると滑り止めのロジンバッグをマウンドにたたきつけ、けっ飛ばしたりもしたという。

     江夏 3年になったころかな。試合中にエラーが出て、そういう感じになっていたら塩釜監督が飛んできて、はり倒された。そして試合の後に懇々と諭されたわ。野球にエラーはつきもの。それにロジンは自分の味方なんやぞ。グラブとロジンは投手にとって最後の味方なんや、ということだったな。そのことをしっかり染み込まされた。だからオレは野手のエラーに怒ったことはないと思うよ。

     多くの人たちの力があっての野球人生だと、江夏は振り返る。慕った大院大高監督の塩釜強も、その1人だ。塩釜は野球の技術論はほとんど教えなかったが、野球に対する考え方をしつこく指導した。失策に不満顔を示した江夏を叱責(しっせき)し、指導したのも塩釜だった。

     江夏 このトシになるまでオレは好き放題に生きてきたよ。バカな失敗もやらかしたしな。でも本当にいい人たちに恵まれたと思う。人との出会いがよかったんだな。

     夢を砕かれ、のちに阪神で同僚になった奥田、高校の練習試合で打ちのめされた兵庫・育英の同じ左腕だった鈴木啓示もライバル視した。プロに入ってからは同じ背番号「28」を背負っていた衣笠祥雄も意識していた。

     江夏 鈴木には高校時代、てんぐの鼻を折られたからな。サチ(衣笠)は高校時代から知ってたよ。「平安の衣笠」は有名だ。あとになって広島でいっしょに戦ったんだけどな。そんな連中と、のちになって親友といえる存在になるんだからな。

     そんな人々とのめぐり合いも野球をやっていればこそだ。その原点は江夏本人も強調するように高校野球にあった。大院大高での3年間は江夏豊という男の基礎をつくった。そして失策で甲子園を逃した桜塚との試合も忘れることはない思い出だ。

     江夏 高校野球、プロ野球、それにメジャーリーグとそれぞれ技術の次元は違うだろう。でもな、1つのボールを追いかける思い、情熱はみんな同じなんだ。だから高校野球はいいんだ。

     今年も夏の大会がやってくる。江夏は自宅のテレビの前で、痛む膝をかばい、少しだけ申し訳ない気持ちになりながら球児たちの行進を見守る。(敬称略=おわり)【高原寿夫】


    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180727-00278365-nksports-base.view-000

     甲子園に出場しなくても「伝説」は生まれる。阪神のエースから優勝請負人と呼ばれ、球界の伝説(レジェンド)とも言うべき存在である江夏豊(70)は高校時代、あこがれの甲子園大会への出場はかなわなかった。大阪府大会6試合で計81三振を奪った「あの年」を江夏が振り返る。


       ◇    ◇    ◇   

     毎年8月の甲子園大会、その開会式を江夏は自宅テレビの前で正座をして見守るという。阪神のエースから日本ハム、広島で不敵な面構えからの投球術で相手打者を翻弄(ほんろう)した江夏が、だ。

     江夏 70にもなってな。恥ずかしいんだけど。最近は膝が痛いので正座はなかなかできないんだ。それでも背筋を伸ばして真剣な気持ちで見ているのは本当だよ。そりゃあ、そうだろ。甲子園はあこがれだったし、夢だったし。出ることが最終目標だったよ。あれが、やっぱりオレの原点なんだな。

     プロ野球選手として、江夏はいくつも伝説をつくった。阪神のエースから南海、「江夏の21球」を生んだ広島、そして日本ハム時代。さらに西武を最後に日本球界を去った後、85年には当時では考えられなかったブルワーズの春季キャンプに参加してのメジャー挑戦で世間を驚かせた。そんな男が高校野球になると少年のように目を輝かせる。

     高校は当時、有名ではなかった大院大高。その頃の話になると、江夏は「オレたちは『私学6強』と言ってたな」と述懐する。PL学園、明星、興国、大鉄(現阪南大高)、北陽(現関大北陽)、そして浪商(現大体大浪商)…。大阪で甲子園に出るのはこの学校のうちのどこかに決まっていた、と強調する。

     そんな有名どころには行かず「のんびり野球をやっていそうや」という理由で選んだのが大院大高だった。甲子園にもっとも近くまで迫ったのは1966年(昭41)3年夏の大会。江夏の活躍で準決勝まで進んだ大院大高を始め、北陽、大鉄、そして公立の桜塚が残っていた。大阪・豊中市にある桜塚は、下手投げのエース奥田敏輝を中心に勝ち上がってきていた。

     江夏 どこと当たるんかなと思ってたな。抽選で桜塚に決まったとき、みんな、いや~な気分になったもんだ。PL、北陽、大鉄なら練習試合もしていたし、どんなチームか知っていたから。自信もあった。でも桜塚か。元々は女学校だったらしいぞ。勉強はできるらしい。いろいろな話をした。勉強では負けるけど野球では負けんぞ。そう思っていたけど、みんな、いやな感じは受けていた。奥田はそこまでオール完封。相手が桜塚に決まったとき、みんな、下を向いてたわ。

     江夏は66年のドラフトで阪神入りしたが、この奥田もその年にドラフトで指名されて阪神入り。同期生になっている。プロでの成績は大きく差がついたが2人は親友と呼べる仲になった。故人となった奥田の話をするとき、江夏は柔和な顔になる。だが、このときは甲子園を目指しての真剣勝負だった。

     大阪・日生球場。その3回だ。大院大高は遊撃の失策で走者を出してしまう。江夏は一塁にけん制球を投げ、走者を誘い出すことに成功したが一塁手が二塁に悪送球。次打者は送りバント。三塁手がさばき、三塁カバーに入った江夏に送球したが、これも悪送球になった。これで走者は生還。決勝点になり、0-1で江夏の夢は散った…。(敬称略=つづく)【高原寿夫】

     ◆大阪の夏甲子園 通算166勝87敗。優勝12回、準V5回。最多出場=PL学園17回。


    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180726-00277573-nksports-base

    このページのトップヘ