広島カープブログ

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    カープOB

    広島・堂林翔太内野手が開幕から好調をキープしている。圧巻は、8日・DeNA戦で1点を追う八回1死満塁から逆転の3号満塁本塁打を放った。デイリースポーツウェブ評論家の北別府学氏が、投手目線から見た堂林の成長と今後の課題を語った。


    堂林が放った満塁本塁打は本拠地初勝利、連敗を4で止める値千金の一発だった。カウント1-1から真ん中やや外寄りの直球をバックスクリーンに放り込んだが、北別府氏は「あれは失投だろう。投手は怖い打者ほど失投が増える。その失投を確実に打てるようになっている」と、投手目線から成長を見つけた。  昨年までは「期待の星と見られていたが、打席で消極的だったり、打ちにいけば曲がるボール球を振って空振り。ボールとストライクの見極めができていなかった。投手はあそこに投げておけば空振りするという気持ちがあった」と、今とは逆に相手投手に手玉にとられていた。

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    引用元 https://news.yahoo.co.jp/articles/c83f0c6a146118d42c9ded92d7c7c5e489a776de

    広島OBの北別府学さん(デイリースポーツウェブ評論家)が29日、「初勝利」と題してブログを更新した。  28日の中日戦(ナゴヤドームでプロ初勝利を挙げた広島・ドラフト1位に「森下投手 初勝利良かったな 私まで嬉しくなりました。やっと気分も上向いてテレビを見ています」と、祝福のメッセージを送った。


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    引用元 https://news.yahoo.co.jp/articles/025cf97149511a4b796ff5116195cbb311a80577

    広島のエースとして通算213勝を挙げ、1月に公表した成人T細胞白血病治療のため5月19日に骨髄移植を受けた北別府学さん(62)が22日、自身のブログを37日ぶりに本人が更新。現状を報告した。  移植3日前だった5月16日に一般病棟から無菌室に引っ越したことをつづって以来となる北別府さん本人による投稿。これまでは妻・広美さんによって症状などが伝えられてきた。


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    引用元 https://news.yahoo.co.jp/articles/b52984d7ddbd15d97b6c8c81ac4b36c478b0ec76


    ◇セ・リーグ 広島1―2DeNA(2020年6月21日 横浜)  元広島監督で野球解説者の達川光男氏(64)が21日、NHK「サンデースポーツ2020」(日曜後9・50)に出演。開幕第3戦となった同日のDeNA戦(横浜)で7回零封の好投を披露しながらチームのサヨナラ負けで初勝利新人一番乗りを逃した広島のドラフト1位ルーキー、森下暢仁投手(22=明大)を絶賛した。


     この日がプロ初登板初先発だった森下は7回8奪三振の4安打無失点と好投。だが、1―0で迎えた9回裏に登板した新守護神・スコットが先頭から4連打されてチームは1―2で悪夢のサヨナラ負けを喫し、森下は両リーグ新人一番乗りとなる初勝利を逃した。  この結果を受け、達川氏は「自信持ったと思いますよ。なぜかというと、立ち上がりすごく悪かったんですよ」と2回には2安打1四球で2死満塁のピンチも招いた森下の投球に触れてから「途中から、5回、6回のピッチングあたりはね、もう非の打ちどころがないです。素晴らしい」とキッパリ。

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    引用元 https://news.yahoo.co.jp/articles/2735b833020f602e50ae742c1baa795b1d0699c8

    「DeNA2-1広島」(21日、横浜スタジアム)  広島のドラフト1位ルーキー森下がプロデビュー戦で7回4安打無失点と力強い投球を見せた。しかし、守護神のスコットが九回に打たれ、プロ初勝利は手にできなかった。

     デイリースポーツ評論家の安仁屋宗八氏は、150キロ超を連発した森下の投球を「8三振奪ったが、すべてが空振り三振だったことを見ても球のキレや球威は抜群だった。カーブやカットボールなどの変化球もうまく織り込んだ会沢のリードも素晴らしかった」と絶賛。「それだけに勝ち星を付けてあげたかった」と森下の胸中をおもんぱかった。  七回を終えての交代は果たしてどうだったのか。安仁屋氏は「球数は100球を越えていた(104球)が、七回も150キロを超える球を投げて2三振を奪うなど、まだまだ余力は残っていた。点を取られていたのならまだしも無失点だし、三回以降は1安打に抑えてピンチらしいピンチもほとんどなかったことを考えれば、八回以降も投げさせても良かったんじゃないか」と交代に疑問を呈した。

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    引用元 https://news.yahoo.co.jp/articles/0b29dc960bd5583a9102c8ad1d6c59b93e86df31

    【球界名場面番外編】
     新型コロナウイルスの感染拡大を受けて開幕延期中のプロ野球は6月19日に開幕することが決まった。2日から練習試合が再開されたが、7月4日(日本時間5日)の独立記念日前後の開幕を目指す大リーグはまだ先行きが見えてこない。開幕のこんな時こそ過去の名場面を振り返り、少しばかり気を晴らしてみてはいかがだろう。ここでは番外編として、日本以外の名場面を紹介する。これを見て、少しでもファンの方々が心を癒していただければ幸いだ。



     怒りのベース投げを見せたのは、米大学リーグのカラマズー・グラウラーズの最年少“投手コーチ”、ドレイク・リビングストン君だった。当時6歳。19年8月の試合で、球審へ手振り手振りの猛抗議。足でホームベースに砂を覆いかぶせると、退場処分を科された。しかし、ドレイクコーチの暴走はここからだった。

     一塁へ駆け出すと、豪快な一塁ベース投げを披露。その後も二塁ベース、三塁ベースを投げ捨て、最後は本塁へ足からスライディングした。元広島、楽天監督のマーティー・ブラウン氏を彷彿とさせる大暴走。球場は拍手喝采の大盛りあがりで、ドレイクコーチは帽子を取ってダグアウトに戻っていった。

     ファンからは「超ウケる! 爆笑もんだ!」「彼はことあるごとに罰金を科せられてるけど、給料でちゃんと全部払えてるのかな?」「面白い!」「この少年はいつかチームの監督になるだろうね」「MLBはドレイクコーチが必要だ……」「この少年は退場させられることなどお構いなし(笑)。面白過ぎる」などとコメントされた。この動画を投稿したカラマズー公式YouTubeサイトの再生回数は42万7000回を超える大人気の投稿となっている。



    引用元 https://news.yahoo.co.jp/articles/c45c312a4778a208d33ec6f168f36f1b1d38719c

    【正田耕三「野球の構造」(21)】1985年、カープ入団1年目の率直な感想は「とんでもない世界にきてしまった」というものでした。中学、高校、社会人と、それなりに厳しいチームで野球をしてきましたが、プロの世界は何もかもがそれまでと違っていました。

     最初に驚かされたのは1月上旬に沖縄で行われた合同自主トレです。当時は契約期間外の12月~1月末のいわゆるポストシーズンがなく、球団の指示で行ったのですが、どの選手を見渡してもスイングスピードが自分とは違いました。

     同学年ながら高校からすぐにプロへ進んでいた山中潔は打球の飛距離がすごかったし、1学年下の原伸次にしてもいい打撃をしている。法政大を経て僕より1年先にプロ入りしていた小早川毅彦に至っては「ビュッ」というバットが空を切る音さえ威圧的に聞こえたものです。

     2月1日に春季キャンプが始まってからも、圧倒されっぱなしでした。周りにいるのは山本浩二さんや衣笠祥雄さん、高橋慶彦さんといったテレビで見ていたスター選手ばかり。しかも打撃練習ではポンポンと柵越えを連発しているわけです。それに引き換え当時の僕は、木製バットを使うのが初めてということもあって、まるで打球が飛ばない。内野手の頭を越えるのがやっとで、達川光男さんには「ほんまに全日本で1番を打ちよったんか?」とまで言われる始末でした。

     そうなると、さすがに焦ります。首脳陣から打撃フォームにメスを入れられることはありませんでしたが「何とかプロのスピードについていけるようにしなきゃ」との思いが強くて、あれこれ考えてしまう。自分で打撃フォームを修正しているうちにワケが分からなくなってしまいました。

     守備にしてもそう。当たり前のことですが、ノックを見ていてもみんなうまい。実戦になればなおのことです。それまでの社会人野球では、全日本の一員として臨んだ国際試合も含めて金属バットだったので速い打球には慣れているつもりでした。でも、肌で感じるプロの打球速度は金属のそれよりも速く、待って捕るような場合でも差し込まれてしまうし、追いつけると思った打球が外野に抜けて行ってしまうんです。

     何とか1次キャンプの沖縄から宮崎・日南での2次キャンプまで一軍に置いてもらいましたが、都城の中日戦と宮崎での巨人戦のオープン戦2試合が終わると二軍落ち。担当の木庭教スカウトから「アイルランドをクビにしたから二塁は空いている」と言われ、自分にもチャンスはあると思って臨んだプロの世界ですが、キャンプでは古葉竹識監督の意向で本来は一塁手の小早川が二塁に挑戦していたし、いきなりプロの洗礼を浴びる格好となってしまいました。

     ☆しょうだ・こうぞう 1962年1月2日生まれ。和歌山県和歌山市出身。市立和歌山商業(現市立和歌山)から社会人の新日鉄広畑(現日本製鉄広畑)に進み、84年ロサンゼルス五輪で金メダル獲得。同年のドラフト2位で広島入団。85年秋から両打ちに転向する。86年に二塁のレギュラーに定着し、リーグVに貢献。87、88年に2年連続で首位打者、89年は盗塁王に輝く。87年から5年連続でゴールデン・グラブ賞を受賞。98年に引退後は広島、近鉄、阪神、オリックスほか韓国プロ野球でもコーチを務めた。現役時代の通算成績は1565試合で1546安打、146盗塁、打率2割8分7厘。



    引用元 https://news.yahoo.co.jp/articles/c8e621456396630789da416a49a7eb578a3192b4

    【正田耕三「野球の構造」(20)】野球においてドラマが起こるのは、何もグラウンド内に限ったことではありません。社会人野球の新日鉄広畑(現日本製鉄広畑)時代のことです。

     都市対抗の予選や地方大会では、選手たちはスタンドで弁当を食べたりします。そのため熱心に観戦しに来てくれるファンの顔を覚えたりもするのですが、その中の一人に、どこの球場でも見かける物静かなおっちゃんがいました。

    「よく来ていますよね」「ええ」「野球、お好きなんですね」「ええ。どうですか調子は?」「ぼちぼちですね」

     謎のおっちゃんとは、顔を合わせると、そんな会話をしていました。こちらから立ち入った話はしないし、おっちゃんも踏み込んだことは聞いてこない。その60歳手前ぐらいの謎のおっちゃんと再会するのは、ロサンゼルス五輪が行われた1984年の11月。そう、その人こそ「スカウトの神様」とまで言われた、広島の木庭教スカウトだったのです。

     ここでプロ入りの経緯についても触れておきましょう。ロサンゼルス五輪で金メダルを獲得した僕ら全日本メンバーは20人中16人がプロに進みました。84年のドラフトだけでもヤクルトに入団した明大の広沢克己、法大の秦真司をはじめ、社会人から巨人に宮本和知、阪神には嶋田宗彦と計9選手がプロ入りしたのですが、広島から2位指名を受けた僕はお断りするつもりでいました。

     広島以外にも巨人など複数球団が興味を持ってくれていたようです。それでも会社からは「残ってほしい」と言われていたし、もともと僕はプロ野球選手になりたかったわけではありません。社会人時代の個人的な目標は、ベストナインに選ばれること。当時の二塁はアクロバティックな守備をする東芝の宮崎剛さんが常連で、何とか自分が…との思いだけでした。

     ドラフト当日の11月20日もそう。自分には関係のないことだと思っていたので何も考えずに外出していました。スマートフォンもない時代で、広島に2位指名されたことを知ったのは会社に帰ってから。「さっさとスーツを着て会議室に来い」と言われ、慌てて記者会見に臨んだほどです。

     プロ入りは会社だけでなく、僕をそば店の後継ぎにしたがっていた父の弘も「プロなんて聞いてないぞ」と猛反対。それでも広島への入団に傾いたのは担当の木庭スカウトに、こう聞かされたからです。

    「アイルランドをクビにしたから二塁は空いている」

     アイルランドとは83年から広島に2シーズン在籍した二塁手。84年には4年ぶりのリーグ制覇にも貢献した助っ人がいないなら「俺にもチャンスはあるかな」。そう思ったのと、念願だったベストナインに選ばれたこともありプロ入りを決断しました。というわけで、次回からはプロ野球編です。


     しょうだ・こうぞう 1962年1月2日生まれ。和歌山県和歌山市出身。市立和歌山商業(現市立和歌山)から社会人の新日鉄広畑(現日本製鉄広畑)に進み、84年ロサンゼルス五輪で金メダル獲得。同年のドラフト2位で広島入団。85年秋から両打ちに転向する。86年に二塁のレギュラーに定着し、リーグVに貢献。87、88年に2年連続で首位打者、89年は盗塁王に輝く。87年から5年連続でゴールデン・グラブ賞を受賞。98年に引退後は広島、近鉄、阪神、オリックスほか韓国プロ野球でもコーチを務めた。現役時代の通算成績は1565試合で1546安打、146盗塁、打率2割8分7厘。




    引用元 https://news.yahoo.co.jp/articles/0a54260be6c454386174241e0511207928be0408

    【正田耕三「野球の構造」(19)】和歌山生まれの和歌山育ち。高校卒業後に進んだ社会人野球の新日鉄広畑(現日本製鉄広畑)も含めて長く関西圏で過ごした僕は、根っからの阪神ファンでした。和歌山ではサンテレビ制作の阪神戦中継を見ることができたので、練習漬けだった中学生や高校生の一時期を除いて、熱心に見ていたものです。

     子供のころに好きだったのは中心打者の遠井吾郎さんや、同じ和歌山県出身で先発投手陣の柱だった上田次朗さん。新日鉄広畑時代に甲子園球場のライトスタンドで観戦するようになってからは掛布雅之さんを応援していました。僕にとってプロ野球は、小学生のころから「目指す場所」ではなく、ただ単にファンだったのです。

     僕は物に執着がなく、プロも含めて現役時代にいただいたトロフィーやユニホームの類いを一切持っていません。1987年に初受賞したゴールデン・グラブ賞のトロフィーぐらいは実家にあるかもしれませんが、あったとしてもその程度。それこそ1984年ロサンゼルス五輪で勝ち取った金メダルも僕の手元にはありません。

     メダルもタイトルも目標ではありました。しかし、目標達成に伴って授与されるトロフィーなどに対して、僕は価値を感じません。だから、お世話になった方にそれらをプレゼントしていたのです。僕のトロフィーをメルカリで見つけたときはショックでしたけどね。

     そんな僕が今でも大事にしているユニホームが1着だけあります。大好きだった掛布さんが着用していたタテジマ。引退する88年にいただいたものでサインとともに「正田くんへ」と書かれています。掛布さんはテレビの解説などで選手のことを“君付け”で呼びますよね。「『正田さん』じゃなくて『正田くん』だよ」と妙なところで興奮したものです。

     脱線ついでに阪神ファンとの触れ合いについても触れておきましょう。同僚とライトスタンドでメガホンを手に大声で選手の応援歌や六甲おろしを歌っていた僕は私設応援団の方々とも仲良く話したりしていました。だから覚えてくれていたのでしょう。

     あれはプロ1年目でした。甲子園球場で阪神―広島の“親子ゲーム”があって、二軍だった僕は勉強のためにナイターで行われる一軍の試合を見るように言われました。普通ならマネジャーからチケットをもらって内野席で見るところですが、僕は一人でライトスタンドに行って阪神の応援をしていたんです。そうしたら顔見知りの応援団の人と出くわして「最近、姿を見んけど忙しいんか? ちゃんと応援せなあかんでえ」と…。カープの選手になったことを知られていなかったのは不幸中の幸いですが、さすがに肝を冷やしました。

     ☆しょうだ・こうぞう 1962年1月2日生まれ。和歌山県和歌山市出身。市立和歌山商業(現市立和歌山)から社会人の新日鉄広畑(現日本製鉄広畑)に進み、84年ロサンゼルス五輪で金メダル獲得。同年のドラフト2位で広島入団。85年秋から両打ちに転向する。86年に二塁のレギュラーに定着し、リーグVに貢献。87、88年に2年連続で首位打者、89年は盗塁王に輝く。87年から5年連続でゴールデン・グラブ賞を受賞。98年に引退後は広島、近鉄、阪神、オリックスほか韓国プロ野球でもコーチを務めた。現役時代の通算成績は1565試合で1546安打、146盗塁、打率2割8分7厘。



    引用元 https://news.yahoo.co.jp/articles/3627bdf7d9b2ba881f71e190ef704cd8e8d60987

    【コロナ危機を乗り越える プロ野球界にまつわる飲食店の現状】プロ野球OBのパティシエも苦悩する日々に直面している。東京・代官山でカフェ「2―3 Cafe」を経営する小林敦司氏だ。

     広島でセットアッパーを務めた元右腕は、2011年4月からファッショナブルなブティックや飲食店が立ち並ぶ若者中心のエリアでカフェをオープン。たちまち自家製チーズケーキが売りの人気店に成長させた。だが新型コロナウイルスの感染拡大に伴って緊急事態宣言が発令されて以降、先月8日から現在も営業自粛中。飲食店は20時までならば営業も容認されているが、もろもろの状況を考慮した末に今のところ看板メニューのケーキ類のみテークアウトでの予約注文を受け付けているという。

    「この街はオフィスもそれほど多いエリアではないので、周りの衣料品店が通常通りにオープンしていないと人通りがどうしても減ってしまいますよね。そうなるとお店を開けていても1人か2人ぐらいしか来てもらえないですし、逆にテナント料や光熱費、材料費だけで出費が増えてしまう」

     今月6日の緊急事態宣言解除を期待していたものの延長となり、都は今も自粛ムードが続く。代官山にも活気が戻ってくることを願いつつ、都に感染拡大防止協力金を申請するなど経営維持に奔走し、本格的な再開に向けて準備を進めている。しかし、先々の見通しはどうしても不透明だ。

    「店の中もお客さん同士の距離が近い。だから1つ、2つでも席を外しながら営業していくことを考えなければいけないと思います。これからは休みの日を増やすなど、新しいスタイルも模索していこうと考えています」

     01年の現役引退後、飛び込みでケーキ店のアルバイトから修業を始め、イタリアンレストランやカフェでも経験を積んだ。苦労を重ねてオープンにこぎ着けた自らの店ではダイニングも一人で切り盛りし、パスタや特製トマト鍋も自慢のメニューとなっている。

     現役時代に頭部死球をぶつけて激高された清原和博氏(当時巨人)が13年、民放番組の企画で同店をサプライズ訪問したこともあった。手作りケーキのあまりのおいしさに感動し、小林氏と“和解”を果たしたシーンを記憶している人も多いだろう。

    「開幕が遅れているプロ野球の選手たちもモチベーション維持は大変。ウチの店も夜は野球が始まらないと(スポーツバースタイルでの)テレビ観戦ができないですから」

     最後にOBとしてプロ野球界の現状も心配そうに語った。小林氏はコロナショックからの復興を強く願っている。




    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200524-01865658-tospoweb-base

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