広島カープブログ

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    カープOB

     1993年に脳腫瘍のため32歳の若さで亡くなった元広島の津田恒美投手=登録名・恒実=の記念館が広島市内に作られる。津田さんの長男・大毅さんが6月19日からクラウドファンディングで賛同者からの資金集めをはじめたが、1日で目標金額の400万円に達し、現在も1000人以上の支援者が名乗りを上げ、たくさんの支援金が集まっている。

     大毅さんが「津田恒美記念館」設立に向け動こうとしている話を聞いたのは昨年だった。ちょうど広島のリーグ優勝目前に津田さんの妻・晃代を取材した時に「実家を記念館にしたいと言っているんです。これまでは(津田さんの)いろんな行事に行くのも“なんでおれが行くの”と、いやがっていたんです。それが180度違うからもうビックリです」と聞いた。

     25年ぶりのリーグ優勝をきっかけにファンが今でも津田さんのことを思っていることを知った大毅さんが、ファンや父に恩返しと考え、記念館設立を思い立った。大毅さんは現在、自転車で日本一周をして父の記念館設立をPRしている。「来年の命日までには」と開館に向け全力投球している。

     7月20日は、津田さんの命日だ。亡くなって24年がたとうとしているが、いまだにカープファンにとって忘れられない存在である。

     「命日の前後に1年に1回、津田さんを思い出していただこうと思っています」

     山田雅人さんは、7月17日・広島県民文化ホールでかたりの世界「津田恒美物語」の舞台公演を行う。広島での公演は今年で8回目。毎年、満員の大盛況で今年も前売り券は完売だそうだ。公演には津田さんのチームメートだったカープOBがゲストとして駆けつける。

     山田さんは「今年はダブルストッパーが実現するんですよ」と声を弾ませた。公演は二部構成。一つは「津田恒美物語」。もう一つはカープにちなんだ物語を披露するが、今年は「大野豊物語」を予定している。

     昨年は「津田恒美物語」が広島で披露されるきっかけとなった池谷公二郎氏の物語が披露された。これまで山本浩二氏や山崎隆造氏、津田さんの親友だった森脇浩司氏(現中日コーチ)も会場に駆けつけている。

     脳腫瘍が発覚した1991年の優勝は、まさに津田さんがチームを結束させた。それは、元気だった津田さんがみんなから愛されていたからだ。86年の優勝時には胴上げ投手にもなった。先発の北別府学投手が胴上げ投手を譲ったことが、津田さんがどれだけ愛されていたかを証明していると思う。

     当時の投手コーチでデイリースポーツの評論家でもある安仁屋宗八氏は「北別府はマウンドに交代を告げに行っても後ろを向いて代わろうとしないピッチャーだった。自分より力のないピッチャーだったら代わろうとしない」と語ったことがあった。そんな北別府氏が唯一、納得して交代したのが津田さんだったという。胴上げ投手を譲ったときも「北別府が了承しなければ代えてないだろう」と安仁屋氏はいう。

     マウンドで闘志むき出しに打者に向かっていく映像はよく目にする。そんな表情とは裏腹にひょうきんで気遣いを忘れなかった津田さんの人間性にほれこんだ仲間は多い。

     クラウドファンディングの返礼品に現在のユニホームのレプリカ津田バージョンがある。大毅さんは球団に許可をもらうため何度も広島に通ったという。「日本一周が終わったころに返礼品を発送したい」という大毅さん。父の残した功績の大きさを実感しながら、ペダルをこいでいる。(デイリースポーツ・岩本 隆)


    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170629-00000041-dal-base

     「都市対抗中国第1代表決定戦、三菱重工広島3-2シティライト岡山」(8日、東広島運動公園)


     プロ野球広島、阪神で活躍した町田公二郎監督が指揮を執る三菱重工広島(広島市)が3-2でシティライト岡山(岡山市)に逆転勝ちし、2年ぶり16度目の本大会出場を決めた。

     町田監督は選手から3度胴上げされ、目を潤ませた。「昨年は悔し涙で、今年はうれし涙。選手が強い心で、しっかりと代表の座をつかみ取ってくれた」と感激に浸った。

     監督就任1年目の15年は本大会でチームを19年ぶりとなる4強へ導いた町田監督だったが、昨年の中国予選では悪夢を味わった。第1代表決定戦まで進みながら、そこから悪夢の連敗を喫して代表の座を逃した。あれから1年。同じ過ちを繰り返すわけにはいかなかった。

     シティライト岡山と力のこもった試合となった。しかし、六回に1点を勝ち越され、嫌な空気がベンチに漂い始める。そんな中で飛び出したのが5番・松原の起死回生の一発だった。七回、一塁に左前打で出塁した国本を置いて右翼ポールを巻き込むように逆転2ランを放った。

     「これまで大事な試合で打てず、ずっとチームに迷惑をかけていたが、やっと勝利に貢献するバッティングができました」。この日は妻と2歳になる娘がスタンドに観戦に訪れていた。家族の前で頼もしいパパの姿を見せられた松原は満面に笑みを浮かべた。

     この1点のリードを、先発・鮫島から新人左腕・伊藤の好継投で守り抜いた。勝利が決まると、選手全員がマウンド付近に駆け寄り、抱き合って喜びを分かち合った。駒大から加入した伊藤は最優秀選手賞も獲得し「自信になります。社会人野球は大学よりもレベルも高く、今大会ではいい経験を積むことができた」と喜びをかみしめた。2年ぶりの本大会出場に鮫島は「やっとスタートラインに立つことができた。この2年間で得たものを東京ドームで発揮できれば」と意気込んだ。

     町田監督は「昨年の敗戦から、わずか1年でしっかりと結果を残してくれた。選手の成長を感じる」と目を細めた。本大会へ向けては「選手それぞれが自分の役割を果たしてほしい。野手なら打つべきボールをしっかり打つ、投手なら打者を抑えるボールをしっかりと投げる。そういう戦いをしていくことが大事。やる以上は一番上を目指す」と、1979年から遠ざかっている優勝を見据えた。


    引用元 https://www.daily.co.jp/baseball/2017/06/08/0010266365.shtml

    【異業種で輝く元プロ野球選手】今からおよそ10年前、プロ野球界から初となる“お笑い芸人”に転身した元選手がいた。巨人、広島、さらには「欽ちゃん球団」として有名な茨城ゴールデンゴールズでプレーした福井敬治さん(41)である。

    「お笑いのほうは、もう辞めましたけどね。でも、あの世界を経験できたことは今でも本当に良かったと思っていますよ」

     懐かしそうに当時を振り返る福井さん。笑顔やしぐさは今も現役時代と変わらない。

     1994年のドラフト3位で智弁学園高から巨人入り。2000年に一軍初出場後は、持ち前の明るさと勝負強い打撃で活躍した。原辰徳氏(現野球評論家)の監督就任1年目だった02年にはチームの日本一に貢献。05年に移籍した広島でも73試合に出場し、打率2割8分7厘と好成績を挙げた。そんな選手が球界とかけ離れた世界に飛び込んだのは、偶然の産物だった。

    「たまたま知人に欽ちゃんの知り合いがいまして。引退後に『一度会ってみれば』と言われ、07年1月に欽ちゃん球団の試合が福岡であると聞き、会いに行きました。そしたら、その日に即入団が決まりましてね(笑い)。もともと巨人時代から明るい性格が取りえでしたし、福岡からの帰りの飛行機では欽ちゃんの隣の席になり、その場でいろいろなお話も聞くことができましたから。野球が続けられるわけですし『一度やってみよう』と思ったわけです」

     地元企業とのタイアップもあり、芸名「シーケル福井」としての新たな船出。実際に仕事を始めてみると、人を笑顔にさせる「楽しさ」を感じる半面、野球とお笑いの両立は想像以上に難しいことを痛感したという。

    「芸人さんと違って僕は元野球選手ですから野球ネタが鉄板。自分が経験したことを舞台などで面白おかしく話すのは本当に楽しかった。でも、お笑い界は、やはり厳しい世界。長くは続けられないなとすぐに感じました。それに所属したゴールデンゴールズは茨城のチーム。僕は自宅が東京なので通勤が大変で。休日の月曜以外は、毎日片道2時間以上かけて車で練習に通う日々。腰に持病を抱えていたこともあり、10年シーズンを最後に新たな道に進もうと決意しました」

     お笑い界を離れて「自分に何ができるのか」と模索を続けた12年1月。新たに始めたのが野球塾「KIDS ベースボールスクール」の設立だった。事業経営、営業活動などの経験は皆無。球場探しからチラシ配りなどの部員勧誘、ホームページ作成などを一人でこなすゼロからのスタートだった。「お笑いの道に飛び込んだ時と一緒で、とにかくまずは挑戦してみようと。大好きな野球に携われるわけですから」

     神奈川・川崎で産声を上げたスクールの部員は当初わずか8人だった。それが今では地道な努力のかいもあり厚木、品川、春日部など関東5か所で指導するまでに拡大。並行して巨人時代の同僚だった小野剛氏が代表を務める強豪クラブ「狭山西武ボーイズ」の監督としてチームの指揮を執る。平日の週2日は、横浜市で不動産業を営む「株式会社カムエンタープライズ」の営業マンとして奔走する顔も持ち合わせる。1か月の休みはほぼ「ゼロ」だが、表情には充実感が漂う。

    「小学4年の娘、小学1年の息子ら家族を犠牲にしながらの活動なので、その辺は申し訳ない気持ちです。ただ、将来的に高校野球の監督をやりたいし、自分が携わる野球塾やチームから出た子供たちが活躍してくれるのはうれしい。これからも、そのやりがいを胸に頑張っていきたい。もちろん、声がかかればプロの指導者もやってみたい。古巣の巨人は今年、元気がないので、僕みたいな明るい性格の人間が入ればチームが変わると思いますしね」

     厳しさの中にも明るさを忘れない福井さんの挑戦は続く。


    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170625-00000002-tospoweb-base

     プロ野球・広島で「炎のストッパー」と呼ばれた津田恒実さんの長男大毅さん(28)が20日朝、日本一周の自転車旅行に出発した。恒実さんの記念館を広島市内につくる計画を進めており、「自分の思いを現地で会った人に直接伝えながら、どんな記念館にしていくか考えていきたい」との思いを抱いている。


     「もう一度投げたかった」と悔やみながら、恒実さんが32歳で亡くなってから約24年。当時4歳だった大毅さんが、父の記念館設立に向けて自転車の旅に出発した。ウェアなどを支援する工具専門店「ファクトリーギア」(東京都)のさいたま市内の店舗前で準備を整え、「不安はない」と笑顔でペダルを踏み出した。

     父と同じように野球で投手を務めた大毅さんは、父に重ねる周囲の重圧からいつも逃げることを考えていた。だが、昨年のカープ躍進をきっかけに「マウンドから逃げない父はすごかった」と向き合えるようになり、「これまで父のことを語り継いでくれた関係者やファンの方々に恩返しを」と記念館設立を思い立った。


    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170620-00000083-asahi-soci

     広島などで通算110試合に登板し、シドニー五輪代表としても活躍した河野昌人(かわの・まさと)さんが16日、虚血性心疾患のため39歳の若さで急死した。15日にホークスジュニアアカデミー佐賀校の講師を務め、その夜、居酒屋で食事した後、帰宅したが、佐賀市内の自宅前のガードレール横に仰向けで死亡しているのが、翌朝発見された。

     河野さんは04年の現役引退後、地元の佐賀に戻り、病院勤務のかたわら、クラブチーム「佐賀魂」でコーチを務めたり、最近ではジュニアアカデミー4校で少年野球の指導に携わっていた。

     14日にはヤフオクドームで行われた草野球イベントに、ホークスOBチームの一員として参加。河野さんは投手としてマウンドにも立ち、打席では軟式球で本塁打性のファウルを豪快に飛ばしていたという。球団関係者は「全然、元気にプレーしていたのに…。突然のことで驚いています」と話した。

     河野氏は佐賀・龍谷高から96年ドラフト3位で広島に入団。00年には46試合登板で、4勝5敗9セーブと抑え投手として活躍した。同年には松坂、杉内らとシドニー五輪日本代表にも選出され、3試合に登板した。04年にダイエーに移籍したが、同年限りで現役引退。通算成績は7勝16敗10セーブ、防御率5・82だった。


    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170616-00000154-spnannex-base

     ドジャースの前田健太投手は9日(日本時間10日)、本拠地レッズ戦で6回から2番手で登板した。救援登板はプロ入り2度目、広島2年目の2008年5月16日・巨人戦以来、実に3311日ぶりとなったが、4回3安打1失点6奪三振の快投で日米通じてプロ初セーブをマーク。ドジャースは7-2で快勝した。前田の配置転換を決断したデイブ・ロバーツ監督が、この投球を絶賛したとドジャースの球団公式ブログ「ドジャース・インサイダー」が伝えている。

     前田は5点リードの6回から登板。先頭ボットは遊ゴロ、スアレスはスライダーで空振り三振、シェブラーは92マイル(約148キロ)の速球で空振り三振と3者凡退に仕留める。7回も2三振を奪う快投。その裏の打席では大飛球も左飛に倒れたが、8回も続投するとまたも3者凡退。3イニングをパーフェクトに抑える快投を見せた。

     9回、前田は先頭ボットに初ヒットとなるソロ本塁打を浴びると、2死後に2安打を許すも、最後はバーンハートを左飛に仕留めて試合終了。日米通じて初のセーブをマークした。

     今季は開幕10試合で4勝3敗、防御率5.16と苦戦していた前田。「ドジャース・インサイダー」によると、前田を初めて救援で起用したロバーツ監督は試合後、「ケンタは今季これまでと同様にいい投球をした。球速は94マイル(約151キロ)に達していたし、スライダーはまたもキレていた。彼は速いカウントで変化球でストライクを取れていた」と評価したという。

     また、地元メディア「ドジャーブルー」によると、指揮官は「ほとんどの状況でストライクゾーンを(積極的に)攻める意図が見えた。彼には競争心がある。(この日は)一晩中、攻撃的だった」とも絶賛。この日の前田の投球に確かな手応えも感じた様子で「我々のスターターに予期しないことが起こらない限り、彼はこの役割をこなすことになるだろう」と話している。一方で、前田自身が通訳を介して「僕は野球人生を通じてずっと先発だったので、ブルペン行きを告げられた時は残念でした。いい結果を残して、ローテーションに戻りたいと思っています」と話したことも伝えている。

     先発ローテに戻るためには、この日のようにいい投球を続けて、結果を残し続けるしかない。その第一歩を最高の形で踏み出したことは確かだ。


    引用元 https://full-count.jp/2017/06/10/post72052/

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