黄金時代
【広島カープ】レジェンドコーチに感銘。正田選手と内田コーチの良い話
卓越した打撃理論を持ち、選手を指導する上での引き出しが多いことは言うまでもありません。それらにも増して内田さんがすごいのは、選手に注ぐ情熱です。僕がマンツーマンで指導を受け始めた1985年オフもそう。暮れは12月30日まで付きっきりで、年明けは1月3日から練習に付き合っていただきました。
【広島カープ】捕手・山崎武司を廃業させた伝説の盗塁
前日の時点でセ・リーグの盗塁王争いはヤクルトの笘篠賢治が32個でトップ。僕が28個で2位、大洋(現DeNA)の高木豊さんが1差の3位で追う展開でした。残り試合はヤクルトが1試合でカープ3試合、大洋5試合。僕はタイトルを強くは意識していませんでしたが、その日はベンチも「行けるなら、どんどん行け」というムードになっていました。

【広島カープ】正田もタジタジ!大下軍曹の語り継がれる逸話
この年は山本浩二監督の1年目。例年以上に張り切らなきゃいけない年でもありましたが、本当の意味で僕の闘志に火をつけたのは東スポの専属評論家としてもおなじみの大下剛史さんでした。
宮崎・日南での春季キャンプ中でのことです。右ヒザを痛めていた僕が別メニューで調整していると「2年連続首位打者で、その気になっとるんか!」という声が飛んできました。声の主は大下さん。せめてチームの役に立つことをしろと、外野での球拾いなどを命じられました。
もちろん首脳陣の命令は絶対です。打撃練習時にはカーブマシンの横に立ち、打席内の若手に見えるようにボールを持った右手を高く掲げ「次、いきまーす」と声を出したりしていました。しかし、はっきり言って屈辱です。2年連続で首位打者にもなり、二塁手のレギュラーとして定着した僕が、なんでこんなことまでしなければならないのか…。「絶対に見返したる!」。右ヒザの状態が回復すると、その一念でバットを振り続けました。
【広島カープ】正田が語る、指を骨折しても練習続けたご褒美とは
結果から言うと、僕は翌9日の同カードから前半最終戦となった17日の巨人戦まで5試合を欠場しました。骨折を知らなかったことにして、試合に出続けるよう背中を押してくれた球団の種田博人トレーナーが、打撃コーチの内田順三さんにだけは本当のことを言っていたそうです。それでひとまず、球宴休みも含めて治療を優先させようということになったのでしょう。
それでも練習だけは続けていました。そもそもカープは鉄人と言われた衣笠祥雄さんに限らず、山本浩二さんや高橋慶彦さんにしても、少しぐらいどこか痛くても試合に出続けるのが当たり前のチームでした。
【広島カープ】正田が語る、鉄人「衣笠」の忘れられない言葉
【正田耕三「野球の構造」(23)】ひとくくりに「プロ」といっても、それぞれの世界で序列があります。落語なら前座→二つ目→真打ち、大相撲だと序ノ口→序二段→三段目→幕下→十両→幕内。やることは違えど、トップのカテゴリーに入ってこそ一人前と認められるという点は共通していると思います。
プロ野球も同じです。オフの契約更改では毎年のように高額年俸が話題になったりしますが、それを手にできるのは一軍で活躍した選手だけ。プロを目指して高校や大学で頑張ってきたのに、プロの世界に入ったことだけで満足して、志半ばでユニホームを脱いでいった選手を何人も見てきました。
【広島カープ】黄金時代のカープ、入って驚いたレベルの高さ
最初に驚かされたのは1月上旬に沖縄で行われた合同自主トレです。当時は契約期間外の12月~1月末のいわゆるポストシーズンがなく、球団の指示で行ったのですが、どの選手を見渡してもスイングスピードが自分とは違いました。
同学年ながら高校からすぐにプロへ進んでいた山中潔は打球の飛距離がすごかったし、1学年下の原伸次にしてもいい打撃をしている。法政大を経て僕より1年先にプロ入りしていた小早川毅彦に至っては「ビュッ」というバットが空を切る音さえ威圧的に聞こえたものです。
2月1日に春季キャンプが始まってからも、圧倒されっぱなしでした。周りにいるのは山本浩二さんや衣笠祥雄さん、高橋慶彦さんといったテレビで見ていたスター選手ばかり。しかも打撃練習ではポンポンと柵越えを連発しているわけです。それに引き換え当時の僕は、木製バットを使うのが初めてということもあって、まるで打球が飛ばない。内野手の頭を越えるのがやっとで、達川光男さんには「ほんまに全日本で1番を打ちよったんか?」とまで言われる始末でした。
そうなると、さすがに焦ります。首脳陣から打撃フォームにメスを入れられることはありませんでしたが「何とかプロのスピードについていけるようにしなきゃ」との思いが強くて、あれこれ考えてしまう。自分で打撃フォームを修正しているうちにワケが分からなくなってしまいました。
守備にしてもそう。当たり前のことですが、ノックを見ていてもみんなうまい。実戦になればなおのことです。それまでの社会人野球では、全日本の一員として臨んだ国際試合も含めて金属バットだったので速い打球には慣れているつもりでした。でも、肌で感じるプロの打球速度は金属のそれよりも速く、待って捕るような場合でも差し込まれてしまうし、追いつけると思った打球が外野に抜けて行ってしまうんです。
何とか1次キャンプの沖縄から宮崎・日南での2次キャンプまで一軍に置いてもらいましたが、都城の中日戦と宮崎での巨人戦のオープン戦2試合が終わると二軍落ち。担当の木庭教スカウトから「アイルランドをクビにしたから二塁は空いている」と言われ、自分にもチャンスはあると思って臨んだプロの世界ですが、キャンプでは古葉竹識監督の意向で本来は一塁手の小早川が二塁に挑戦していたし、いきなりプロの洗礼を浴びる格好となってしまいました。
☆しょうだ・こうぞう 1962年1月2日生まれ。和歌山県和歌山市出身。市立和歌山商業(現市立和歌山)から社会人の新日鉄広畑(現日本製鉄広畑)に進み、84年ロサンゼルス五輪で金メダル獲得。同年のドラフト2位で広島入団。85年秋から両打ちに転向する。86年に二塁のレギュラーに定着し、リーグVに貢献。87、88年に2年連続で首位打者、89年は盗塁王に輝く。87年から5年連続でゴールデン・グラブ賞を受賞。98年に引退後は広島、近鉄、阪神、オリックスほか韓国プロ野球でもコーチを務めた。現役時代の通算成績は1565試合で1546安打、146盗塁、打率2割8分7厘。

引用元 https://news.yahoo.co.jp/articles/c8e621456396630789da416a49a7eb578a3192b4
【広島カープ】スポーツ報知が考えたカープのベストナインの考査
1950年にセ・リーグに参入。地元ファンに愛され続けて70年。しかし、初期のメンバーで入るのは通算197勝の長谷川良平くらいだろう。“赤ヘル”のニックネームがついて強力となった1975年初優勝以降の選手がズラリ並ぶ。
このオーダー表、通算2000安打越えの前田智徳、山本浩二、衣笠祥雄は、掲載された数字以上の存在感もあって外せない。
だが、他のメンバーを個人的に変えてみる。「1番・遊撃」、1995年にトリプルスリー達成の野村謙二郎も捨てがたいが、33試合連続安打の高橋慶彦を推す。広島での通算打率でも野村を上まわり、461盗塁(野村は250)はダントツだ。ロッカーで裸になった時の筋肉も素晴らしかった(笑い)。ポカもあったが、あの颯爽としたプレーは忘れられない。
中堅は絶対、山本浩二。右翼は緒方孝市は長いキャリアを誇るものの、ここは強肩強打のライトル、2年連続MVPの丸佳浩、そして、まだ652試合の出場で実績が少ないが、通算打率3割1分4厘を誇る現役の鈴木誠也の3人が候補。期待値を込め鈴木が入ると超豪華打線となる。
金本知憲は在籍年数は多いが、試合数は阪神の方が多いためそちらに回し、DHにはしぶとい打撃を見せていた水谷実雄を入れる。捕手もベストナイン3度の達川光男(石原は1度)がいいのでは。なぜか80年代の黄金期のメンバーが多くなってしまうのも仕方ないのではと思う。二塁は、2度の首位打者もあって正田耕三で決まりか。
広島投手陣は何と5人も野球殿堂入りしている。前記した長谷川以外にも北別府学、大野豊、外木場義郎、津田恒実(最後の2人の殿堂入りには私は異論があるが)。これに2年後には黒田博樹が殿堂に入るはず。誰が先発でもおかしくないが、津田と大野がブルペンに回れば盤石だ。(蛭間 豊章=ベースボール・アナリスト)
【選出ルール】野手はポジションごとに当該球団の通算出場数、投手は勝利数を優先。複数球団に所属した選手は、出場数試合数が最も多い球団とした。画像のオーダー選出に筆者は関わっていない。

引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200516-05120140-sph-base
【広島カープ】楽天エースが憧れたカープのレジェンド投手
楽天・則本昂大投手(29)は元広島の津田恒実さんを挙げた。1993年に32歳でこの世を去った「炎のストッパー」に「現役時代は見ていないのですが、テレビでやっていた津田さんのドラマを見て『この人すごいな』と思ったからです」と目を奪われた。
その姿が心に残るからこそ、楽天のエースとなった現在も尊敬の念を抱く。「今でもグラブには津田さんの言葉『弱気は最大の敵』を刺しゅうで入れています」。150キロ超の剛球で押し、背番号も同じ「14」の気迫あふれる投球には「津田魂」が継承されている。

引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200505-05040206-sph-base
【広島カープ】カープ黄金期を支えた最強の助っ人
巧打の外野手として広島の日本一に貢献。阪神、中日などでコーチを歴任した長嶋清幸氏(元広島・外野手)に印象に残る強肩選手を聞くと、かつての同僚のジム・ライトルを挙げた。
「右翼手の彼は外野フェンス前にあるアンツーカーギリギリの芝が定位置なんです。三塁走者がいても、そんな深いところから内野手がカットできるぐらいの高さで返球し、タッチアップの走者を刺す。サヨナラ負けのピンチでほとんどの外野手はかなり前を守りますが、それでもライトルは普通の選手の定位置ぐらいでした」
長嶋氏は彼に面白い話を聞いたことがあるという。
「米3A時代に一塁を駆け抜けるとき、一塁手と接触して転倒。右肩を脱臼骨折し、手術で数本のボルトが埋め込まれた。以後、強い球を投げられなくなり、打撃一本で行くと決めた。ところが、DHで試合に出ていたら、また一塁手とぶつかって肩から転んだ。その拍子に肩の中のボルトが1本ズレた。実際に右肩を見せてもらったら、ボルトの部分が盛り上がっている。それから強肩に戻ったという、嘘みたいな体験をしたそうです」
