広島カープブログ

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    黄金時代

     【江尻良文の快説・怪説】

     緒方孝市監督(48)率いる広島は4、5日の巨人戦(マツダ)で2年ぶりの2試合連続零封負けを喫したが、2位阪神に8ゲーム差(7日現在)の“1強”状態に揺るぎはない。このまま37年ぶりのリーグ連覇と日本一奪回を果たせば、リーグ優勝4回&日本一3回の古葉竹識監督が率いた常勝赤ヘル軍団に一歩近づく。そして古葉広島が乗り越えられなかった“壁”に挑むことになる。

     常勝イコール人気沸騰とはかぎらない。リーグ優勝4回、日本一1回の中日・落合博満監督は観客動員減で解任されている。広島市民球場を本拠地にしていた古葉広島も、常勝軍団といわれるようになってからは観客動員で悪戦苦闘した。

     球団創設25年目の1975年、就任1年目の古葉監督が球団史上初のリーグ優勝を達成。この年は前年の64万9500人から120万人と倍増近くの最高観客動員を記録している。

     そして5年ぶりのリーグ優勝、初の日本一を果たした79年には145万4000人の球団新記録。ところが初のリーグ連覇と2年連続日本一の翌80年は131万4000人にダウンした。

     以後81年2位、82年4位、83年2位と優勝から遠ざかり、104万7000人、103万7500人、そして100万人台割れの91万6000人。4年ぶりのリーグ優勝、3度目の日本一になった84年も110万3000人と伸び悩んだ。

     その間、広島の営業サイドはあの手この手の観客動員アップ作戦を展開。近県からもファンを動員しようと船会社、JRとタイアップし割安運賃&入場券、晩酌付き入場券etc…。

     しかし、観客動員増には結びつかず、球団関係者は嘆きながらこう結論づけた。「弱小球団が優勝したから初めは市民も熱狂してくれたが、勝つことが当たり前になると刺激がなくなり、球場から足が遠のいた。ファン心理は複雑です」

     あれから30年以上たち、25年ぶりにリーグ優勝した昨季のホームゲーム観客動員は球団新記録の215万7331人(1試合平均2万9963人)。今季も昨年比増(1試合平均3万67人)の状態が続いている。

     メジャーリーグ風と評判の本拠地マツダスタジアム、カープ女子という言葉に象徴される女性ファンの存在を切り札に、常勝赤ヘル軍団を超える新たな歴史を作れるか。(江尻良文)


    引用元 http://www.zakzak.co.jp/spo/news/170707/spo1707070017-n1.html?ownedref=not%20set_main_newsListSpo

     今季は37年ぶりのリーグ連覇を狙う広島。開幕戦に敗れた直後から引き分けを挟んで10連勝するなど好調を維持し、セ・リーグ首位に立っている。スタートダッシュの勢いもそのまま、昨シーズンに続きリーグ優勝を果たすのか

     かつて広島で5度のリーグ優勝、3度の日本一を経験し、黄金期を牽引した高橋慶彦氏も、古巣の躍進に期待を寄せる1人だ。現在は福島・郡山に本社を置く住宅販売・設計施工会社「ウェルズホーム」で広報部長を務める高橋氏は、俊足を武器に盗塁王を3度獲得。プロ入り後にスイッチヒッターに転向し、1979年には33試合連続安打の日本記録を樹立した。

     昨季、圧倒的な強さでリーグ優勝した広島は、盗塁やエンドランなど機動力を生かした攻撃をチームカラーとした。1979年、80年、85年と3度盗塁王に輝いた高橋氏は、盗塁成功のカギについて「失敗を恐れず、走れる時はどんどん走ればいい」と話す。

    「僕は盗塁死の数も多いです。失敗を恐れず、走れる時はどんどん走ればいい。選手はアウトになるのが怖いです。『ここでアウトになったらチームに迷惑をかけてしまう』と考えてしまいますから。自分が走塁コーチを務めていた時には選手にもよく言いましたが、失敗を気にすることはないと思います」

     NPB歴代5位となる通算477盗塁を誇る高橋氏だが、同時に通算盗塁刺も206と多く、通算1065盗塁の日本記録を持つ福本豊氏の299盗塁刺に次ぐ歴代2位となっている。盗塁を決めた数は大事だし、成功率は高い方がいい。だが、何より大切なのは「どれだけホームに戻ってきているか」だと話す。


    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170425-00010004-fullcount-base

     25年ぶりにリーグ優勝を果たした広島カープ。この優勝を75年の初優勝に重ねる向きも多い。41年前、不動のリードオフマンとしてチームを牽引したのが大下剛史氏は“暴れん坊軍団”と呼ばれた東映では切り込み隊長として活躍した選手だ。

     彼はどのようにして広島を変えたのか。当時を洗いざらい語ってもらった。(その1はこちら http://gendai.ismedia.jp/articles/-/50787)


    流れを変えた、捨てゲーム

     二宮 1975年の初優勝でカギになった試合は? 
     大下 6月19日のヤクルト戦じゃろうね。この試合までカープは5連敗しとった。もう投げさせるピッチャーがおらん。それで監督の古葉(竹識)さんがワシと(山本)浩二とサチ(衣笠祥雄)を呼んで「明日は、若い永本(裕章)を投げさせようと思うんだ」と言ったんだ。

     二宮 永本は4年前に地元の盈進高からドラフト2位で入団したピッチャーで、ボールは速いがノーコンで通っていました。

     大下 そうそう。それで古葉さんは、こう続けた。「もう、これ(永本)しかおらんから負けてもいい。なんならオマエらは休んでもええぞ」と。

     二宮 いわゆる“捨てゲーム”だったわけですね。

     大下 その試合にカープは3対1で勝ったわけよ(永本は六回三分の一を投げ勝利投手に)。それでカープは勢いに乗った。優勝する時というのは、こういう不思議な勝ち方があるんじゃろうねぇ……。

     二宮 予期せぬ戦力と言えば、アンダースローの金城基泰がそうでした。前年の74年には20勝(15敗)をあげ、最多勝に輝きました。ところがその年のオフ、交通事故に遭い、失明の危機に見舞われました。

     その後、薬の副作用と戦いながら8月に復帰を果たし、貴重なリリーフとして活躍しました。10月15日、優勝を決めた後楽園球場の最後のマウンドに立っていたのが金城でした。

     大下 まさか金城が戻ってくるとはねぇ……。古葉さんも、失明の危機に見舞われたピッチャーを、胴上げ投手に使うんじゃから、采配自体が神がかっていたね。ワシら守っていても鳥肌が立ったからね。

     優勝を決めた試合は八回途中から出てきた。ワシの顔を見るなり金城は笑いながら、こう言うたよ。「大下さん、ワシは打球が見えんのじゃけん、ピッチャーゴロでも安心しなさんなよ。バックアップにきなさいよ」ってね。



    引用元 http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20170212-00050790-gendaibiz-bus_all

     広島カープOB会の総会と懇親パーティーが3日、広島市内のホテルで行われた。今季限りで現役を引退した広瀬純氏をはじめ約40人のOBと2、3軍首脳陣、球団職員OBら約140人が出席し、25年ぶりリーグ優勝の話題や昔話に花を咲かせた。

     安仁屋宗八OB会長(72)=デイリースポーツ評論家=は「今年はカープに始まりカープに終わった年。カープOBとして自慢できる。来年は今年できなかった日本一を勝ち取ってもらいたい」とあいさつ。優勝旅行中の緒方監督からのメッセージも読み上げられた。また、野村祐輔投手をOB会として優秀選手に選んだ。


    引用元 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161203-00000080-dal-base

     25年ぶりにセ・リーグを制し、32年ぶりの日本一を目指す広島カープ。引退を表明した黒田博樹の魂のピッチングや、高卒4年目の22歳、「神ってる」鈴木誠也の大ブレイクなど、選手たちの躍動が、地元ファンの熱狂的な応援とともに、全国的な話題を呼んでいる。


    引用元 http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20161026-00012612-davinci-spo

     25年ぶり、7度目のリーグ優勝を果たした広島カープ。正式には広島東洋カープだが、その名称に変わったのは1968年のこと。57年間にわたるカープ史上、球団のみならずチームにとっても、大きな変革のときを迎えた年である。


     2リーグ分立の50年、広島県民・市民の球団として発足し、経営母体を持たなかったカープは、慢性的な財政難が問題だった。地元財界各社による相乗り経営で好転を図るも、負債は膨らむばかりで、球団経営を資金力のある東洋工業(現・マツダ)に一本化。同社社長の松田恒次をオーナー、息子の松田耕平をオーナー代理とし、広島東洋カープが誕生したのだった。

     この68年、万年Bクラスの広島を3位に引き上げ、球団初のAクラス入りを実現した監督が根本陸夫である。

     根本はのちに西武、ダイエー(現・ソフトバンク)でも監督を務め、両球団でフロント入り。実質的なGM(ゼネラルマネージャー)として、長く低迷していた両チームの強化を果たした功績で知られる。強化のためには裏技も駆使する辣腕ぶりから“球界の寝業師”とも呼ばれたが、その原点は広島にあり、75年の初優勝の礎を築いた男と言われている。

     とはいえ、現役時代の根本は近鉄の控え捕手で、出身は茨城。実績も乏しく、広島に縁もゆかりもない監督の就任は球団史上初だったが、なぜ、前例は覆されたのか。

     近鉄では引退後にスカウト、マネージャー、コーチを務めた根本。66年限りで退団したあと、学生時代以来の恩師でプロ野球・近鉄の監督も務めた藤田省三から広島のコーチ就任の話が来た。

     藤田はオーナーの松田恒次と接点があり、「選手を育てられるコーチ」を求められて根本を推薦。その人となりを松田が知っていたことで、67年、長谷川良平監督のもと、根本はヘッドコーチに就任した。

     しかし同年の広島は最下位に沈み、長谷川監督は解任。根本も辞任を申し出たが、逆に監督に推されて昇格。オーナーの松田は「全試合、負けてもいいんだ。将来につながる強いチームを作ってくれ」と、41歳の新監督に期待を寄せた。マスコミも根本に注目し、いかにも仁侠映画に登場しそうな眼光鋭い風貌もあって“カープの若親分”と名付けた。

     根本はまず補強に動き、阪神からベテラン強打者の山内一弘を獲得。毎日-大毎(現・ロッテ)時代に首位打者1回、本塁打王2回、打点王4回という超大物も阪神では成績が下降気味だったが、前年に通算2000本安打を達成。万年Bクラスの“ぬるま湯”に浸かっていた広島の選手にとって、その野球に対する姿勢が格好の手本になると根本は考えた。実際、選手たちは山内を見てどう感じたのか。当時、入団4年目の若手だった衣笠祥雄はこう回想する。

    「山内さんはキャンプでご自身の練習をやるだけでしたが、我々よりはるかに練習されていました。いいお手本、いい教材を目の前に置いていただいたと、今でも思います。我々からしたら、2000本安打も打っておられて、すべてのタイトルを獲られた大選手が『まだこんなに練習するんだ』というのは本当に驚きでした」


    引用元 https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/baseball/npb/2016/09/25/___split_114/

    【越智正典「ネット裏」】名代表、西野襄の勇退後、東洋工業の経理課長からカープの代表に就任(球団常務)した重松良典は仕事には痛烈であったが情の人でもあった。サッカーの日本リーグ時代の役員を務めていたので勝負がわかる。勿論視野も広かった。就任の連盟手続きがすんだのは1974年1月8日である。

     日南キャンプが始まると見に来た町の人々は「“やっこ凧”さん、今日もグラウンドに立っていなさる」。ご苦労さまですと、敬愛の念をこめて拝むように言っていた。重松が少し怒り肩なので“やっこ凧”さんと呼んでいた。

     重松は来季から監督含みでジョー・ルーツをコーチに据えた。重松はまた、ひそかにプロ野球の名将三原脩(このとき日本ハム球団社長)に会い、野球を学んだ。職員の給与をよくし、そのかわりハッスル勤務。うぐいす嬢は朝はやく市民球場2階の球団直営食堂に出勤。清掃、開店準備。カープの練習開始時間がくるまでレジで働いた。三篠町の合宿所の賄いさんには「予算のことを考えないで選手においしいものをどんどん食べさせて下さい」。チームを強くするために、彼は自宅を抵当に入れてカネを借りた。当時銀行筋から聞いた。

     こうして75年が来る。ルーツを監督に。ルーツはゲイル・ホプキンスとリッチ・シェインブラム(シェーン)を連れてくる。ホプキンスは医学生だったが、医学部が名門のボルチモアのジョンズ・ホプキンス大学に進む学費を稼ぎたかった。ルーツはその向上心を評価した。来日後、ロッカールームでも医学書を読んでいた。

     シェーンは傷だらけになっても戦う筈だが一塁手が最適。そこで衣笠祥雄を三塁手に。が、ルーツは開幕から15試合目の阪神戦で責任審判竹元勝雄を突き退場。帰国した。後任に古葉竹識。あっという間に前半が終わり、その75年の甲子園球場での球宴第1戦を前に、重松は山本浩二、衣笠に「セのベンチの第1列、ど真ん中に座れ! 座ったら小遣い10万円!」。王貞治、若松勉、藤田平、江夏豊のなかに入っても堂々とせいというのだった。2人は連続2打席ホームラン。小遣い2倍弾。

     こうして75年10月15日、後楽園球場での巨人戦、カープ1対0の9回二死一、二塁。ホプキンスの一打がライトスタンド上空に。勝負あった。広島の宿舎はJR両国駅前ホテル。ビールかけはそう広くないロビーで。始まる前に心配した巨人関係者がそっと訪れた。広島の職員がビールかけの注意事項を訊いた。

    「ビールが直接かかると寒いですよ。いいところで切り上げて風呂に入ったらいいですよ」

     ナインの多くは銀座に繰り出さなかった。隅田川をさかのぼって向島と浅草へ。重松はホテルの自室にいた。水割りをしみじみと味わっていた。ポトリ…。15秒くらいの間隔で涙が落ちた。涙はものいわぬ彼の苦闘へのトロフィーだった。

     =敬称略=

     (スポーツジャーナリスト)


    引用元 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160925-00000006-tospoweb-base

     75年のペナントレースが始まったばかりの4月27日の阪神戦(甲子園)。広島・佐伯和司、阪神・古沢憲司両投手の投げ合いで、ともに無得点のまま迎えた8回裏。2死一、二塁でフルカウントから掛布雅之に投げた外角球をボールと判定され、ジョー・ルーツ監督が激高。松下球審に激しく詰め寄ると、制止しようとした竹元一塁塁審の胸を両手で突き、退場を宣告された。


     納得せずホームベース上で仁王立ちし、放棄試合でも構わないと抗議を続けるルーツ。審判団の要請を受け、重松良典球団代表が試合を続行するよう説得したが応じない。審判とはオープン戦からトラブル続きだったが、当時1軍コーチとして阪神ベンチから見ていた安藤統男は「日本の審判に恨みでもあるのかと思った。ストライク、ボールの判定で本当にしつこい」とあきれていた。


    引用元 http://www.hochi.co.jp/baseball/npb/20160918-OHT1T50121.html

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