広島カープブログ

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    黄金時代

    【正田耕三「野球の構造」(21)】1985年、カープ入団1年目の率直な感想は「とんでもない世界にきてしまった」というものでした。中学、高校、社会人と、それなりに厳しいチームで野球をしてきましたが、プロの世界は何もかもがそれまでと違っていました。

     最初に驚かされたのは1月上旬に沖縄で行われた合同自主トレです。当時は契約期間外の12月~1月末のいわゆるポストシーズンがなく、球団の指示で行ったのですが、どの選手を見渡してもスイングスピードが自分とは違いました。

     同学年ながら高校からすぐにプロへ進んでいた山中潔は打球の飛距離がすごかったし、1学年下の原伸次にしてもいい打撃をしている。法政大を経て僕より1年先にプロ入りしていた小早川毅彦に至っては「ビュッ」というバットが空を切る音さえ威圧的に聞こえたものです。

     2月1日に春季キャンプが始まってからも、圧倒されっぱなしでした。周りにいるのは山本浩二さんや衣笠祥雄さん、高橋慶彦さんといったテレビで見ていたスター選手ばかり。しかも打撃練習ではポンポンと柵越えを連発しているわけです。それに引き換え当時の僕は、木製バットを使うのが初めてということもあって、まるで打球が飛ばない。内野手の頭を越えるのがやっとで、達川光男さんには「ほんまに全日本で1番を打ちよったんか?」とまで言われる始末でした。

     そうなると、さすがに焦ります。首脳陣から打撃フォームにメスを入れられることはありませんでしたが「何とかプロのスピードについていけるようにしなきゃ」との思いが強くて、あれこれ考えてしまう。自分で打撃フォームを修正しているうちにワケが分からなくなってしまいました。

     守備にしてもそう。当たり前のことですが、ノックを見ていてもみんなうまい。実戦になればなおのことです。それまでの社会人野球では、全日本の一員として臨んだ国際試合も含めて金属バットだったので速い打球には慣れているつもりでした。でも、肌で感じるプロの打球速度は金属のそれよりも速く、待って捕るような場合でも差し込まれてしまうし、追いつけると思った打球が外野に抜けて行ってしまうんです。

     何とか1次キャンプの沖縄から宮崎・日南での2次キャンプまで一軍に置いてもらいましたが、都城の中日戦と宮崎での巨人戦のオープン戦2試合が終わると二軍落ち。担当の木庭教スカウトから「アイルランドをクビにしたから二塁は空いている」と言われ、自分にもチャンスはあると思って臨んだプロの世界ですが、キャンプでは古葉竹識監督の意向で本来は一塁手の小早川が二塁に挑戦していたし、いきなりプロの洗礼を浴びる格好となってしまいました。

     ☆しょうだ・こうぞう 1962年1月2日生まれ。和歌山県和歌山市出身。市立和歌山商業(現市立和歌山)から社会人の新日鉄広畑(現日本製鉄広畑)に進み、84年ロサンゼルス五輪で金メダル獲得。同年のドラフト2位で広島入団。85年秋から両打ちに転向する。86年に二塁のレギュラーに定着し、リーグVに貢献。87、88年に2年連続で首位打者、89年は盗塁王に輝く。87年から5年連続でゴールデン・グラブ賞を受賞。98年に引退後は広島、近鉄、阪神、オリックスほか韓国プロ野球でもコーチを務めた。現役時代の通算成績は1565試合で1546安打、146盗塁、打率2割8分7厘。



    引用元 https://news.yahoo.co.jp/articles/c8e621456396630789da416a49a7eb578a3192b4

     スポーツ報知は新聞休刊日の5月7日付け紙面でプロ野球12球団と近鉄、日本人メジャーの計14チームのベストオーダーを選出した。広島からの選出は、画像の通りとなった。

     1950年にセ・リーグに参入。地元ファンに愛され続けて70年。しかし、初期のメンバーで入るのは通算197勝の長谷川良平くらいだろう。“赤ヘル”のニックネームがついて強力となった1975年初優勝以降の選手がズラリ並ぶ。

     このオーダー表、通算2000安打越えの前田智徳、山本浩二、衣笠祥雄は、掲載された数字以上の存在感もあって外せない。

     だが、他のメンバーを個人的に変えてみる。「1番・遊撃」、1995年にトリプルスリー達成の野村謙二郎も捨てがたいが、33試合連続安打の高橋慶彦を推す。広島での通算打率でも野村を上まわり、461盗塁(野村は250)はダントツだ。ロッカーで裸になった時の筋肉も素晴らしかった(笑い)。ポカもあったが、あの颯爽としたプレーは忘れられない。

     中堅は絶対、山本浩二。右翼は緒方孝市は長いキャリアを誇るものの、ここは強肩強打のライトル、2年連続MVPの丸佳浩、そして、まだ652試合の出場で実績が少ないが、通算打率3割1分4厘を誇る現役の鈴木誠也の3人が候補。期待値を込め鈴木が入ると超豪華打線となる。

     金本知憲は在籍年数は多いが、試合数は阪神の方が多いためそちらに回し、DHにはしぶとい打撃を見せていた水谷実雄を入れる。捕手もベストナイン3度の達川光男(石原は1度)がいいのでは。なぜか80年代の黄金期のメンバーが多くなってしまうのも仕方ないのではと思う。二塁は、2度の首位打者もあって正田耕三で決まりか。

     広島投手陣は何と5人も野球殿堂入りしている。前記した長谷川以外にも北別府学、大野豊、外木場義郎、津田恒実(最後の2人の殿堂入りには私は異論があるが)。これに2年後には黒田博樹が殿堂に入るはず。誰が先発でもおかしくないが、津田と大野がブルペンに回れば盤石だ。(蛭間 豊章=ベースボール・アナリスト)

     【選出ルール】野手はポジションごとに当該球団の通算出場数、投手は勝利数を優先。複数球団に所属した選手は、出場数試合数が最も多い球団とした。画像のオーダー選出に筆者は関わっていない。


    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200516-05120140-sph-base

     5日は例年なら全国の球場に少年少女の野球ファンが詰めかける「こどもの日」。スポーツ報知は12球団の主力選手に「子どものころ憧れた選手」についてアンケートを行った。

     楽天・則本昂大投手(29)は元広島の津田恒実さんを挙げた。1993年に32歳でこの世を去った「炎のストッパー」に「現役時代は見ていないのですが、テレビでやっていた津田さんのドラマを見て『この人すごいな』と思ったからです」と目を奪われた。

     その姿が心に残るからこそ、楽天のエースとなった現在も尊敬の念を抱く。「今でもグラブには津田さんの言葉『弱気は最大の敵』を刺しゅうで入れています」。150キロ超の剛球で押し、背番号も同じ「14」の気迫あふれる投球には「津田魂」が継承されている。



    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200505-05040206-sph-base

    【プロ野球 私が見た凄いヤツ】ジム・ライトル

     巧打の外野手として広島の日本一に貢献。阪神、中日などでコーチを歴任した長嶋清幸氏(元広島・外野手)に印象に残る強肩選手を聞くと、かつての同僚のジム・ライトルを挙げた。

    「右翼手の彼は外野フェンス前にあるアンツーカーギリギリの芝が定位置なんです。三塁走者がいても、そんな深いところから内野手がカットできるぐらいの高さで返球し、タッチアップの走者を刺す。サヨナラ負けのピンチでほとんどの外野手はかなり前を守りますが、それでもライトルは普通の選手の定位置ぐらいでした」

     長嶋氏は彼に面白い話を聞いたことがあるという。

    「米3A時代に一塁を駆け抜けるとき、一塁手と接触して転倒。右肩を脱臼骨折し、手術で数本のボルトが埋め込まれた。以後、強い球を投げられなくなり、打撃一本で行くと決めた。ところが、DHで試合に出ていたら、また一塁手とぶつかって肩から転んだ。その拍子に肩の中のボルトが1本ズレた。実際に右肩を見せてもらったら、ボルトの部分が盛り上がっている。それから強肩に戻ったという、嘘みたいな体験をしたそうです」

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    【名伯楽・内田順三「作る・育てる・生かす」】#27

     私のコーチ人生の「原点」といえる話だ。

     広島でコーチになって3年目。一軍打撃コーチ時代に初めて「私がつくった」といえる選手に出会った。1984年のドラフト2位で入団した正田耕三には、私の方が指導者として勉強させてもらった。

     この頃のカープは強かった。内野には高橋慶彦、山崎隆造、外野には山本浩二さん。ほぼ不動のメンバーで戦っていた。二塁のレギュラーを狙う正田から「どうしたらスタメンで試合に出られるようになりますか?」と聞かれた。入団当初は守備固め、代走要員という形が多く、先発出場は少なかった。右打席での打撃を見ると、逆方向には打てるがパワー不足。特徴もなかった。「足を生かすためにもスイッチヒッターになったら?」と挑戦を勧めた。

     古葉竹識監督に正田のスイッチ転向プランを伝えた。チーム内ではすでに高橋、山崎の2人が成功していることもあり、「バッティングを向上させるには、スイッチもいいんじゃないか。やらせてみたらいい」と了承された。本人には「バットを抱いて寝るぐらいじゃないと成功しないぞ」とハッパをかけ、左打ちの特訓が始まった。

     カープの寮と当時の私の自宅が近かったこともあり、毎朝9時に開始。マウンドから距離を半分にした所に立たせ、打撃マシンの“超速球”を打たせた。バットが遠回りすれば、まず当たらない。当てるには、どう構え、どう肘を使い、どの角度でバットを入れるのか。バットの軌道を考え、最短距離で出すことが目的だ。

     10日間くらいはバットにかすりもしない。それがチップをするようになった。目が慣れてくると、少しずつ前に飛ぶようになり、ついには芯に当たるようになった。朝の室内練習場で500~600球。こうして1シーズンのうちのほとんど毎日、顔を合わせて指導した。朝と夜、1日合計で1000球は打たせたと思う。

    ■常に二人三脚で練習

     その時点では、まだ誰にも見せていない。正田と私、2人だけの練習だった。遠征先の夜間練習で素振りをする際やグラウンドで練習する時は右打席のみ。モノになるか分からない左打者の練習は、“時間外”に量を振るということで、シーズンの初めから続けてきた。

     最も幸運だったのは、常に二人三脚でできたこと。普通、若手は何打席か打たなければすぐに二軍に落とされてしまう。しかし、正田には守備力と走力があった。レギュラーでなくても、守備、代走要員として一軍に居場所があった。一軍コーチだった私のマンツーマン指導が可能だったのだ。

     85年は2位でV逸。シーズン終盤、古葉監督は私に言った。

    「誰か若手を打席に立たせていいぞ」

    「正田に打たせます」

    「分かった」

     中日の速球派・小松辰雄との対戦が絶好の腕試しになると思った。さらに古葉監督に「正田を左で打たせてみます」と申告すると、驚いた表情でこう言った。

    「な、なんで左?」

     古葉監督は以前に言ったことをすっかり忘れていた。

    (内田順三/前巨人巡回打撃コーチ)



    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200229-00000013-nkgendai-base

    1980年代、産声を上げたばかりの韓国のプロ野球のチームに、日本で活躍した在日コリアンの選手たちが入団し、韓国野球のレベル向上に貢献した。

    その中の一人、故・福士敬章投手(韓国名・張明夫)の生涯を、武蔵野美術大学の韓国人留学生、李泳坤(イ・ヨンゴン)さん(26)が、卒業制作のドキュメンタリー映画「玄界灘の落ち葉」にまとめた。

    弱小チームで30勝を挙げたが、4年で燃え尽き、薬物事件で韓国を追われた幻のヒーロー。「福士選手の話だけじゃない、その背景に潜んでいる日韓関係の問題や、その中で苦しむ在日という存在についても、多くの人に見て、考えてもらいたい」と話す。

    巨人から韓国に渡り、3年間で計54勝をあげて日本球界に復帰した新浦壽夫投手(韓国名・金日融)や、日韓両国で監督を務めた白仁天氏らの活躍を覚えているのも、韓国ではもはや40代後半以上。20代の李さんはなぜ、福士投手に光を当てようと思ったのだろうか。


    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200225-00010003-huffpost-int

    【ネット裏 越智正典】広島34年ぶりの日本一はならなかったが、CSが始まろうとしていた10月11日、最終ステージで待ち構えていた広島の松田元オーナーが「優勝パレードは日本一になったときだけ」と言明したのは見事な選手激励だった。

     1974年、セで優勝した中日が名古屋まつりとぶつかった地元の熱望を断れず、チームを二分し、分隊を長嶋茂雄現役引退の巨人戦の後楽園球場へ。本隊はパレード。監督与那嶺要は泣いた。「みんなでパレードをやりたかった」。ドラは日本シリーズでロッテに負けた。

     カープの勝利の歴史は63年松田恒次オーナー(日本野球機構への正式届けは2月26日)の決断で初の県外キャンプに始まる。それまで、呉二河球場。雨の日はからだを動かさなかったからと、晩ごはんが焼きそば一皿の日もあった。

     キャンプ地を探せ! マネジャー竹内鉄男(法政大)が九州へ。どこもいっぱい。日南に球場があるらしいと聞き、宮崎の宮田旅館に一泊。翌朝バスでガタガタ道を3時間。青空、防風、町の人々の人情。あったあー。

     キャンプイン当日、一行は空路広島から鹿児島。着陸したとき機内の拍手はやまなかった。日南天福球場には歓迎の鯉のぼりが泳いでいた。横溝桂はいいボールが用意されていたのに感激。もう、変形したボールを金槌で叩いて直さなくてよい。

     カープは70年(4位)秋、アリゾナ州フェニックスのアストロズの教育リーグに三村、山本一義、山本浩二、衣笠ら6選手を送った。71年(4位)秋には同、ブルワーズに3選手。引率のコーチ、終戦直後の阪神の速投げ人気投手野崎泰一は、出会ったインディアンスの“火の玉投手”ボブ・フェラーと意気投合した。

     その71年秋、代表西野襄は恒次オーナーの意を汲んで72年の予算に「練習費」なんと、5000万円を組み込んだ。そして春、アリゾナ州ツーソンのインディアンスのキャンプへ。ナインはあの猛烈ジョー・ルーツに出会う(2月25日~3月17日)。当時快打選手、現スカウト、チーム編成の異彩、苑田聡彦ら36人。秋はパイレーツの教育基地、フロリダ州ブラデントンへ(10月31日~11月24日)。OB金山次郎、長谷川良平に臨時コーチを委嘱。43人。大デモンストレーションである。山本浩二、衣笠祥雄は結局、アメリカで計3度腕を磨く。

     赤へル軍団誕生前夜、北米を旅行中の私はパイレーツのGMジョー・ブラウンに自宅に招いて頂いた。「ヒロシマの選手はラブリーだ。みんな礼状をくれた。きっと黄金時代を作る」。氏はヤンキースを倒すのに選手の躾を貫いてワールドチャンピオンになった。

     75年10月15日、広島は初優勝。結団以来、風雪26年。銀座に行かなかった苑田らは、ビールかけの両国の宿舎から隅田川の土堤を歩いて、粋な向島へ。料亭で賑やかな三味線に合わせて太鼓を叩いて勝利のよろこびに浸った。夜が明けた…。 =敬称略=
     (スポーツジャーナリスト)


    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20181117-00000001-tospoweb-base

    【日本シリーズ】鯉と鷹の物語(3)

     阪神でエースとして君臨していた江夏豊投手が、江本孟紀投手らとの交換で南海(現ソフトバンク)へトレードされたのは1976年。本人は「今でも阪神の江夏と思っている」と不満を口にしたが、ホークスで捕手を兼任する野村克也監督との出会いが、野球人生の大きな転機となった。

     肩と肘の不調に苦しむ左腕は翌77年の開幕後、「投手の革命を起こしてみろ」という指揮官の殺し文句で先発から救援へ転向。22セーブポイントを挙げて最優秀救援投手に輝いたが、シーズン終盤に野村監督が解任されたため、他球団への移籍を希望し、広島へ金銭トレードとなった。

     広島では79年の近鉄との日本シリーズ第7戦の九回に無死満塁の大ピンチから1点リードを守りきりチームへ初の日本一をもたらした“江夏の21球”はあまりに有名だ。同年のセ・リーグ最優秀選手に輝き、「MVPはリリーフでも獲れると立証された」と喜んだ。

     南海、広島での江夏氏の活躍が、日本のプロ野球に抑え投手の仕事を確立したといっても過言ではない。(浦)

    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20181031-00000521-san-base

    【日本シリーズ】鯉と鷹の物語(1)

     1975年、広島を悲願のリーグ初優勝へと導いたのが古葉竹識監督。広島の選手時代は走攻守三拍子そろった内野手として活躍したが、70年から現役最後の2年間は南海(現ソフトバンク)でプレーし、引退後は捕手を兼任する野村克也監督のもと、まずは2軍でコーチ修行に励んだ。

     当時の南海はデータや基本重視の“シンキング・ベースボール”を旗印とし、「いろいろ勉強させてもらった」と古葉氏。1軍コーチとなった73年にはパ・リーグ優勝も経験し、「われわれチームだけでなく、南海ファンの喜ぶ姿が印象的だった」と振り返る。

     翌74年も野村監督に留任を求められたが、広島の新監督に就任した専大の先輩、森永勝也氏に請われて古巣へコーチとして復帰。75年シーズン途中の5月に39歳で監督へ昇格し、大胆かつ細心の采配でペナントレースを制した。

     「僕が引っ張ったのではなく、選手が僕を引っ張ってくれた」が優勝当日のコメント。その後3度の日本一に輝いた古葉野球の源流は南海にあったといえそうだ。(浦)

        ◇

     広島-ソフトバンクという初の顔合わせとなった今年の日本シリーズ。実は両チームは昔から人的交流が盛んで双方にゆかりがあり、球界に足跡を残した人物も少なくない。その歴史をひもといてみた。



    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20181027-00000546-san-base

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