広島カープブログ

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    衣笠祥雄

     エースとして広島ひと筋に通算213勝をマークしたプロ野球解説者の北別府学さん(61)が10日、自身のブログを更新。打撃不振が続く中、同日のDeNA戦(マツダ)で20打席ぶりとなる安打を今季1号2ランで飾った広島・田中広輔内野手(29)にかつてのチームメートで昨年4月に亡くなった衣笠祥雄さん(享年71)の姿を重ねた。

     衣笠さんは2215試合連続出場の日本プロ野球記録、678試合フルイニング出場の球団記録を持つ言わずと知れた“鉄人”。田中広は2015年4月1日のDeNA戦(横浜)から現在604試合連続フルイニング出場を続けており、今季中の“鉄人超え”が視野に入っている。

     打撃不振の田中広へ8日のブログで「昨年までどれ程この男に助けてもらってきたか」「これを乗り越えた田中広輔を見たい」と熱いエールを送っていた北別府さん。

     田中広の今季1号が飛び出すと、すぐにブログをしたため「今日、こんな宝物が出てきました」とタンスの中から愛妻が見つけたという「2131試合連続出場記念 1987年6月13日」との文字が刻まれた記念盾の写真をアップした。

     衣笠さんがルー・ゲーリックの持つ2130試合連続出場を超えた記念で作った、その盾の真ん中には「2131」の文字の下に合わせるように「M.KITABEPPU」の文字も。「記念の品に後輩の名前入り。ファンの方や後輩にまで気配りのあった衣笠先輩 先輩と同じフルイニング出場の記録を目指す後輩が苦しんでいる中 衣さんが ファンの皆さんが 見守っている中の先ほどのホームランだと思えました」と思いをつづった。


    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190510-00000220-spnannex-base

    <広島3-2中日>◇23日◇マツダスタジアム

    広島が主砲不在の危機をチーム一丸で乗り越えた。

    4番鈴木誠也外野手(24)がコンディション不良のため、今季初欠場。打線の軸を欠いたが、9回に小窪哲也内野手(34)がサヨナラ打。昨年4月23日に死去したOB衣笠祥雄氏(享年71)の一周忌に5連勝を飾り、チームはDeNAと並び4位に浮上した。

       ◇   ◇   ◇

    白球は水しぶきを上げながら、ぬれた芝生をはねた。2-2の9回。2死満塁から8番で先発出場の小窪は1ボールから高め真っすぐをたたいた。打球は二塁手堂上の後方に上がると、広島ナインの思いも乗って堂上が伸ばしたグラブの上を越えた。今季2度目のサヨナラ勝ち。二塁ベース付近でチームの精神的支柱の1人は、後輩たちからもみくちゃにされた。

    鉄人と呼ばれた広島レジェンドの涙雨が降り続ける中での一戦だった。昨年4月23日に死去した衣笠氏の一周忌。昨年、広島ナインが訃報を知ったのは亡くなってから一夜明けた24日だった。あの日も雨が降っていた。運命のいたずらのように、当時1軍に昇格した平安の後輩高橋大がこの日はスタメンに名を連ねた。

    偶然はそれだけではない。あの日はケガからスタメン復帰した鈴木が、この日はスタメンから外れた。試合前の全体練習でウオーミングアップには姿を見せるも、フリー打撃や守備練習などに姿はなかった。緒方監督が「コンディション不良」と説明。今季初めて4番を欠く緊急事態。FA移籍の丸や頭部死球で離脱中の松山を含めれば、昨年のクリーンアップを欠く打線だった。

    それでも広島は粘り強く戦った。大先輩の教えでもある。プロ初先発の20歳アドゥワが1回に先制弾を浴びながら7回2失点の粘投。先制された直後に長野の本拠地初打点となる犠飛で追い付き、2回には今季初スタメンマスクの磯村の左翼への1発で勝ち越した。勝負を決めた小窪は「(衣笠氏には)会えば頑張れよと声をかけてもらっていた」と懐かしんだ。

    あの日と同じように、総力戦で白星をもぎ取った。あの日は5連勝のきっかけをつくり、この日は5連勝とした。緒方監督は「開幕からいいスタートを切れなかったので、また1戦1戦戦う。カープの野球をやるだけです」と、継承する広島野球を貫いてリーグ4連覇を目指していく決意を固くした。【前原淳】

    ◆衣笠氏の弔い勝利 広島OB衣笠祥雄氏の死去が伝えられた後の初の試合となった、18年4月24日DeNA戦(横浜)の試合前、広島ナインは宿舎出発時に訃報を知った。試合は打線が序盤から効果的に得点を重ね、7-2で快勝。緒方監督は「シーズン終了後には優勝と日本一の報告ができるように、我々も精いっぱい戦っていくだけです」と悲しみをこらえた。


    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190423-04231000-nksports-base

     2018年、平成最後の年末を迎えた。プロ野球は広島が3年連続でセ・リーグを制覇。パは西武が10年ぶりの栄冠に輝き、日本シリーズではソフトバンクが底力を見せた。一方でプロ、アマ球界を支えてきた関係者の訃報も届いた。国民栄誉賞を受賞した元広島の衣笠祥雄さんは4月23日、上行結腸(じょうこうけっちょう)がんで71歳で死去。また、相撲界など他のスポーツ界からも訃報が届いた。

     4月19日。亡くなるわずか4日前、衣笠さんは横浜スタジアムの放送ブースにいた。一人では歩けず、親族に付き添われて球場入り。BS―TBSが中継したDeNA―巨人戦の解説を務めたが、体は痩せ細り、声もかすれていた。実況を務めた戸崎貴広アナウンサー(56)は「普通の人なら球場に来ることもできなかったでしょう。涙が出そうでした」と振り返る。

     話すこともつらそうな状態に、戸崎アナはコメントを求めるのをためらった瞬間が何度もあったという。すると、衣笠さんは自ら手を挙げて話したいとの意思を示し、巨人・坂本勇の打撃などについて熱く語った。現役時代、前人未到の2215試合連続出場の偉業を達成した「鉄人」は、己の人生の最後まで「鉄人」だった。

     憧れは同じ三塁手の長嶋茂雄。巨人戦で本塁打を打つと、三塁ベースを回る時にミスターが「ナイスバッティング。うまく打ったな」と声を掛けてくれる。それが何よりうれしかった。87年に現役引退。以後、指導者としてユニホームを着る機会には恵まれなかった。実は、長嶋監督から巨人のコーチにと誘われたことがあった。しかし「広島にお世話になったので」と断ったとの逸話がある。

     今季、その広島はリーグ3連覇。赤ヘルの黄金期を支えた衣笠さんは優勝を5度経験も、最高は2年連続だった。チーム初の快挙を、きっと天国で喜んでいたに違いない。(鈴木 勝巳)


    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20181229-00000063-spnannex-base

     2018年も残すところあとわずか。今年も多くの方々が、その生涯に終止符を打ちました。元広島内野手・衣笠祥雄さんは4月23日、上行結腸がんで亡くなりました。享年71歳。スポーツ報知では、知られざるエピソードとともに、故人をしのびます。



      *  *  *

     記録にも記憶にも残るスーパースターだった。衣笠氏は1979年に巨人・西本聖の死球で肩甲骨を骨折したが、翌日に代打でフルスイングの3球三振。「1球目はファンのため、2球目は自分のため、3球目は西本君のために振りました」と話した。同年の日本シリーズ第7戦で伝説の「江夏の21球」。マウンド上で孤独を感じる左腕に歩み寄り「オレもお前と同じ気持ちだ」と、一緒にユニホームを脱ぐ覚悟を伝えた。名場面での言葉に男気、人間味があふれ出る。

     だからこその思いが、広島ファンならずともある。「衣笠監督」はなぜ実現しなかったのか―。鉄人の無二の親友だった江夏豊氏がこの問いに丁寧に答えた。「これは謎。いろんな説があるけど…。先代のオーナー(故・松田耕平氏)室には衣笠のものばかり飾られていた。なぜ、あれだけの功労者なのにカープの指導者になれなかったのだろうか。オレには分からない」と思案を巡らせ、さらにこう続けた。

     「ある時、サチに聞いたことがある。『指導者というものに魅力はないんか』と。『ある。やってみたい』と、はっきり言った。でも、監督というのは、自分がやりたいからやれるものでない。サチも何があったのか言わない。他球団のユニホームを着るチャンスは、あるにはあったらしい。即座にお断りしたと。『オレは広島の衣笠だ』ということ。それが、どこのチームなのか聞きもしていないけど」

     87年の引退後、指導者として球界に復帰することはついになかった。縁やタイミング、強すぎた広島愛、理由は一つではないだろう。野球人生もまた、小細工なしのフルスイングだった。(島尾 浩一郎)


    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20181226-00000129-sph-base

     2215試合連続出場のプロ野球記録を樹立して国民栄誉賞を受賞、今年4月に71歳で死去した元広島の衣笠祥雄さんの追悼法要が10日、母校の龍谷大平安高校(京都市下京区)であった。

     年1回の同校同窓会総会に合わせて開催され、読経の流れる中、硬式野球部OBら多くの学校関係者らが次々と焼香し、「偉大な同窓生」をしのんだ。

     同校の関目六左衛門校長は「衣笠氏の不断の努力、不屈の精神は硬式野球部の後輩に受け継がれ、今夏の甲子園100勝、今秋の近畿大会優勝などの結果を残している」と参列者にあいさつ。在りし日の衣笠さんの活躍をまとめたビデオ映像も流された。

     衣笠さんは京都市東山区生まれ。1962年に当時の平安高校に入学し、64年春夏の甲子園に捕手として出場し、いずれも準々決勝に進出した。【矢倉健次】

    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20181110-00000050-mai-base

     今年4月23日に急逝した元広島の衣笠祥雄さん(享年71)のお別れの会が28日、広島市内のホテルで開催された。午前中には広島の監督、コーチ、選手らが献花に参列。緒方孝市監督(49)は「4月23日に亡くなられて、この2カ月あっという間だった。今年のキャンプにたくさん野球の話ができると思っていたができなくて、シーズン中もできなくて、本当に残念で、悲しい気持ちです」と声を絞り出した。



     衣笠さんと「カープの日本人の4番バッターを育てたい」という話をしていたそうで、「鈴木誠也が日々成長してくれて、喜んでくれていると思う」と語った。衣笠さんの遺影の前では「チーム一丸となって、秋には日本一の報告ができるように頑張ります」と誓ったことを明かし、決意を新たにしていた。

    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180628-00000052-dal-base

     23日夜に上行結腸がんのため71歳で死去した元広島の衣笠祥雄(きぬがさ・さちお)さん。プロ野球記録の2215試合連続出場を達成し、国民栄誉賞を受賞して昭和の野球ブームを牽引した。鋼の体と精神力を穏やかな人柄で包み、ファンから愛されたが、知る人ぞ知る、「鉄人」と呼ばれた男ならではの豪快過ぎる伝説の持ち主だ。

     ■真っ赤な外車を駆り

     衣笠さんは1965年に京都・平安高(現龍谷大平安高)から広島に捕手として入団し、間もなく内野手に転向した。

     衣笠さんと親交があり、かつてニッポン放送でプロ野球実況の名アナウンサーとして鳴らした深澤弘氏(82)によると、3年目までは練習に身が入らず、まだ実績もない若造にも関わらず、真っ赤な外車を乗り“スピード狂”と呼ばれていたという。

     そんな3年目のオフ、プロ入り当時の担当スカウトだった木庭教(きにわ・さとし)氏に「サチ、ちょっと話がある」と呼び出される。

     ■まさかの“引退勧告”

     「ひょっとすると、トレードに出されるのかな」と考えていた衣笠さんだが、開口一番「次の仕事を考えよう」と“引退勧告”され腰を抜かした。「おまえの取り組み方では見込みがない」とキツくお灸を据えられたという。

     「血の気が引いた。これは死んだ気になって練習しないと、と心を入れ替えた」という衣笠さんは、さっそく翌68年に一塁手として1軍のレギュラーの座を獲得。21本塁打、打率・276をマークした。

     しかし、一流選手になってもなお、昭和の野球人らしく車と酒を愛していた。

     根本陸夫監督時代の70年。当時の広島は、後に大洋、ヤクルトで監督となる関根潤三氏がヘッドコーチ、後にヤクルトや西武を監督として日本一に導く広岡達朗氏が守備コーチを務め、厳しさに定評があった。

     同年夏。深澤氏は広島から東京へ帰る寝台特急が台風の影響で運休となり、単身赴任で球団寮に住み込んでいた関根コーチの部屋に泊めてもらうことになった。夜10時。関根コーチの指導の下、大広間で山本浩二、水谷実雄、三村敏之、水沼四郎ら、5年後の75年に球団史上初優勝を果たし“赤ヘルブーム”を巻き起こすことになる主力たちが、1時間にわたり素振りで汗を流す姿に圧倒されたという。

     「1人、いなかったな」。終了後に関根コーチがつぶやいた。その1人が衣笠さんだった。

     午前2時。寮の玄関前にタクシーの止まる音がする。泥酔し千鳥足で玄関のドアを開けた衣笠さんに、暗闇から関根コーチが突然「サチ、(素振りを)やろう」と声をかけた。

     仰天した衣笠さん。怒鳴られることも、門限破りをとがめられることもなかったが、上半身裸、パンツ一丁で汗だくになりながら1時間バットを振ることになった。関根コーチは「最後の5スイングは、いい振りだったな」とうなずいた。

     後に衣笠さんは「泥酔していようが何だろうが、バットだけは振る。ああいう積み重ねが、今の自分につながっている」と深澤氏に述懐したという。

     そんな衣笠さんは現役引退後、長年TBSの野球解説者として人気を博した。最後の出演はBS-TBSとTBSチャンネル2で放送された、今月19日のDeNA-巨人戦(横浜)。

     この日、衣笠さんはひどく声がかすれていて、ネット上を騒がせた。広島時代の同僚で親友の江夏豊氏(69)もこの中継を見ていて、本人に電話で「声が出とらんぞ。無理するな」と連絡を入れたほど。衣笠さんは「分かった。分かった」と返したという。

     ■4日前までテレビ解説

     それでも、最後まで解説者として中継をやりきった。実況を担当した戸崎貴広アナウンサーによると、試合前の打ち合わせの段階から「声が出にくそうだった」というが、「試合開始と同時に声がワントーン高くなり、仕事に対する意志の強さを垣間見ました。『鉄人』という言葉に強いこだわりをお持ちの方だったので、最後までご自分の美学を貫かれていたという思いです」。

     TBS系地上波で放送予定の5月3日・広島-巨人戦(マツダスタジアム)の解説も予定されており、心配するスタッフをよそに意欲を見せていたとか。最後までファイティングポーズを取り続けた。

     残念だったのは、87年の現役引退後、監督としてもコーチとしてもユニホームを着る機会に恵まれなかったこと。

     球界関係者は「とにかく曲がったことが大嫌いで一本気。現役時代からこうと思ったら、オーナーや監督のいうことにも耳を貸さずテコでも動かなかった。上司からみると扱いづらいところがあったのが、監督に指名されなかった理由かな」と指摘する。人間として一本筋の通った好漢だったのである。

    引用元 https://www.zakzak.co.jp/spo/news/180426/spo1804260006-n1.html

     お笑いコンビ、とんねるずの石橋貴明(56)とタレント、ミッツ・マングローブ(43)が司会を務めるフジテレビ系「石橋貴明のたいむとんねる」(月曜後11・0)に、元プロ野球投手の江夏豊氏(70)がゲスト出演することが21日、分かった。

     同番組は1970年代以降の昭和に流行したアイドルや歌謡曲、スポーツなどをテーマにトークを繰り広げる内容。江夏氏がフジ系バラエティーで石橋と共演するのは、96年の「とんねるずのハンマープライス」以来、22年ぶりとなる。

     広島時代に左腕のリリーフエースとして活躍した大投手は、4月に死去した盟友・衣笠祥雄氏との秘話などを披露。帝京高野球部出身の石橋について「野球を正面から語ってくれるので、こちらも素直に話すことができました」と感謝した。28日の放送回に登場する。

    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180522-00000031-sanspo-ent

     【江尻良文の快説・怪説】

     広島球団は28日からの対阪神3連戦(マツダスタジアム)で、故・衣笠祥雄氏(享年71)に哀悼の意を表し、緒方孝市監督、コーチ陣、選手、スタッフが喪章を付けて試合に臨む。

     “ミスター赤ヘル”こと山本浩二氏とのコンビで、常勝赤ヘル軍団を築き上げ、2131試合連続出場の世界新記録(当時)を達成して国民栄誉賞を受賞した“鉄人”だけに当然の措置だろう。

     それにしても、山本氏は2度にわたり合計10年も広島監督を務めたのに、衣笠氏は監督どころかコーチ経験さえなしに終わったのはなぜか、球界七不思議が改めてクローズアップされる。

     ある広島OBがこう謎解きする。「現役引退後、広島にも家を残したまま、東京との二重生活をした山本浩二と、生活拠点を完全に東京に移した衣笠。その差だろう。当時の松田耕平オーナー(故人)が衣笠の東京行きに激怒したというのは、広島では公然の秘密になっている」

     市民球団として旗揚げされた広島カープは一時期、東洋工業(現マツダ)が親会社だった時代もある。だが、通称“松田個人商店”といわれるように、松田ファミリーが人事権を持っている。広島OBの解説には説得力がある。

     とはいえ、現役引退後TBSの解説者をしていた衣笠氏には、他球団の監督になるチャンスはあったはずだ。実際、かつてTBSが親会社だった横浜ベイスターズ(現横浜DeNAベイスターズ)の監督就任情報が流れたことがある。

     だが、結局衣笠氏は評論家活動一筋を貫いた。前出の広島OBはこう見ている。「他球団のユニホームには袖を通さず、終生広島カープの鉄人・衣笠祥雄でいたかったのではないか」。その通りならば、いかにも一本気な衣笠氏らしい野球人生を全うしたといえるだろう。(江尻良文)

    引用元 https://www.zakzak.co.jp/spo/news/180428/spo1804280003-n1.html


    “側近”から見た鉄人とは――。23日に上行結腸がんのため71歳で死去した衣笠祥雄氏を現役時代に支えていた広島の福永富雄球団トレーナー部アドバイザー(75)が、故人の我慢強さと医者をも驚かせたエピソードを明かした。

     筋肉の柔らかさは一級品だったという衣笠氏が一塁でレギュラーに定着したのは入団4年目の1968年のこと。福永氏によれば「実は太ももの肉離れを発症していた」そうだが、せっかく巡ってきたチャンスを逃すわけにはいかない。当時の根本陸夫監督に「試合に出るつもりなら盗塁のサインだって出す。当たり前だが、走ってもらいたい場面では走ってもらうぞ」と言われた衣笠氏は「もちろんです。できます」と二つ返事で試合に出続けたという。

     世界2位の2215試合連続出場を達成する間に左肩甲骨骨折の重傷を負ったのは有名だが、福永氏は「公にはなりませんでしたが、右手親指や手首、肋骨にひびが入りながらプレーを続けたこともあります。そのことは本人、首脳陣、トレーナーくらいしか知らなかったと思います。今では考えられないことですが…」と振り返る。

     体の丈夫さだけではない。衣笠氏が採血を行った際にはスポーツドクターが「こんなに良い血の色を見たことがない」と驚いていたという。「私もトレーナーをやっていて多くの選手を見てきましたが、そういうことを言われた選手は衣笠以外に一人もいません。なので非常に印象に残っています」(福永氏)

     最後に顔を合わせたのは今年1月で体調が良くないことは知っていた。亡くなる6日前の17日にも電話で言葉を交わしたという福永氏は「時代も違うし、あのような選手はもう出てこないんじゃないか」と言って故人をしのんだ。


    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180428-00000033-tospoweb-base

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