広島カープブログ

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    コーチ

    【名伯楽・内田順三「作る・育てる・生かす」】#39

     私が「名伯楽」などと言ってもらえるのも、携わった選手がうまく育ってくれたおかげ。しかし、全員が思い描いたような結果が残せたわけでは、もちろんない。

     名球会に入るような超一流選手にも劣らない才能があったと思う男がいる。

     パワーヒッターでありながら、逆方向にも長打が打てる柔軟性も併せ持っていた。だが、大成しなかった。残念でならないのが、昨季限りで現役を引退した広島の岩本貴裕である。

     広島商では高校通算52本塁打。亜大でも東都大学リーグ歴代4位の通算16本塁打を放った。2008年のドラフト1位で広島に入団。1991年の町田公二郎以来となる大卒野手の1位で、金本知憲の背番号10を引き継いだ。

     地元出身の左の和製大砲への期待の大きさは、新球場のフェンスの高さにも表れた。ちょうど入団1年目の09年に開場予定だったマツダスタジアムの左翼ポール際のフェンスは当初、7メートルの「グリーンモンスター」にする計画だったと聞く。それが、左打ちでも左翼方向への長打が持ち味だった岩本を獲得することが決まり、右翼と同じ3・6メートルに急きょ変更した経緯があるそうだ。

     打撃統括コーチだった私は、松田元オーナーから直接「岩本を見てやってくれ」と頼まれていた。1年目から二軍のほぼ全試合に4番で起用。最終的に二軍ではリーグ2位となる14本塁打を放った。これは二軍にいる選手ではない――。そう感じた。何とか一軍に行かせようと、私も周囲も躍起になった。しかし、インコースが苦手という弱点が、はっきりしていた。

     10年からは一軍で出場機会がもらえるようになり、ノーステップ打法で14本塁打。大器の片鱗を見せ始めたが、11年に膝を故障し、レギュラー定着の機会を失った。苦手なインコースを意識するあまり、どうしてもかかと体重になってしまう。開きが早く、ボールの見切りも早いから変化球に対応ができない。ボール球に手を出すという悪循環だった。さらにアウトコースを逆方向に飛ばすという長所にも影響が出始めた。

     1打席限定の代打向きではなかっただけに、レギュラーをつかめない選手は出番を失う。緒方孝市監督が就任した15年からは出場機会が激減した。

    ■足りなかった「再現性」

     間違いなく才能はあった。しかし、それとは別にプロで活躍するための「再現性」が欠如していた。好調を維持する持続力がなかったのだ。

     チャンスをもらった時、重圧をはねのけ、自分の持てる力を発揮できるか。首脳陣からの期待に応えられるか。考え込んでしまうマジメな性格も災いした。紙一重、あと一歩だった。育て切れず、申し訳なかった。

     今年から広島のスコアラーとして第二の人生を踏み出している。野球を勉強して球団に恩返しして欲しい。

     次回は自分のことを振り返りたい。

    (内田順三/前巨人巡回打撃コーチ)


    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200324-00000007-nkgendai-base

     昨季限りで現役を退き、今季から指導者に転身した広島・赤松真人2軍外野守備走塁コーチ(37)。2016年オフに胃がんを発見、切除手術と半年に及ぶ抗がん剤治療を受け、再びグラウンドに戻った。第2の人生を歩み始めた男は今、何を思うのか。

     コーチとして臨んだ初めての春季キャンプは、悪戦苦闘の毎日だった。

     「まだ土俵にも立てていない。『ノックも打てない、教えることもできないだろうな』。そういうイメージの通りでしたね。自分のバットをボールに当てるだけなのにそれが難しいんです」

     だがプロで13年間、メシを食った経験は伝えられる。「まず『何のためにプロに入ったの?』と問いかけます。プロ野球選手として活躍したい、お金を稼ぎたい。いろいろあるが、じゃあ、そこに向かってやろうよと。その基本が薄れてしまう。僕、今年で(クビが)危ない選手には『ラストイヤーじゃないのか? ここでがむしゃらに一度、あがいてやってみたら?』とずっと言っています。それがもしかしたら、いい思い出になるかもしれないし」。

     好例が中村恭平投手(30)。昨季は中継ぎでキャリアハイの43試合に登板した。「彼、去年でほぼクビだったと思います。それで一昨年オフからガンガンウェイトトレーニングをして鍛えまくった。そうしたら球速が155キロぐらいまで出た。そういうこともあるワケで。一度すべてをぶち壊すくらいの練習量を課せたからこそ。そこで何が起こるか分からないくらい、あがいてクビだったら、納得して辞められると思います」。

     そこまで自分を追い込まないまま戦力外通告を受け、12球団トライアウトでも拾ってもらえず、社会人や独立リーグで野球を続ける選手もいる。

     「『なんでプロ野球選手の間にもっと死に物狂いでやらなかったの?』と思ってしまう。僕が見た限りでいえば、そこまで練習していない人がその道をたどっていることが多い。まず『野球が好きでレギュラーになって稼ぐ』という基本を忘れちゃダメ。忘れてくると『何のために頑張ってるの?』となってくる。それを冷静に客観視して伝える。僕は今、それしかできませんから」

     ■「自分が後悔しない人生を歩まないと」

     自身は04年ドラフト6巡目で阪神に入団。新井貴浩のFA補償で08年から広島に移籍後、堅守が輝いた。翌年は球宴に外野手部門でファン投票選出。10年にはDeNA・村田の打球をフェンスによじ登り好補したプレーが、米野球界でも脚光を浴びた。すべては健康な体があってこそだった。

     「若手に『明日から病気になったら嫌だろ?』と聞いたところで、それは想像でしかないですからね。当たり前のように野球していたのが、当たり前にできなくなる。若い選手はたらふくご飯を食べられるけど、それができないしんどさがあります。摂取カロリーが消費カロリーに追いつかない。その分、オーバーヒートしますが、病気をしないと気づかない」

     “がんサバイバー”は現場に復帰し、今春キャンプでは若手とともに朝から夜まで汗をかいた。体力面は大丈夫なのか。

     「どうですかね、倒れるかもしれませんけど。それくらいの気持ちでやっています。自分が後悔しない人生を歩まないといけない。ただ、何もせずには倒れたくないんです。悔いが残りますから。若手をサポートしてから倒れたいし、できるようになりたい。これだけ野球をやれて注目を浴びたわけですから、その恩を返さないと。プロのコーチになれるなんてひと握り。やれるときにやっておかないと、という気持ちは強いですね」(山戸英州)



    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200321-00000000-ykf-spo

    【名伯楽・内田順三「作る・育てる・生かす」】#28

     1985年シーズン終盤、私とマンツーマンで密かにスイッチヒッターの特訓を積んできた正田耕三が、ついに実戦で「左打席」をお披露目することになった。

     以前、言ったことをすっかり忘れていた古葉竹識監督は「な、なんで左?」と驚いていたが、腕試しとして中日の剛速球投手・小松辰雄と対戦させた。

     正田は粘った末、レフトライナーを放った。古葉監督は「これは面白い。いけるんじゃないか」と太鼓判を押してくれたことで、秋季練習から晴れてグラウンドでスイッチヒッターの練習ができるようになった。割合は左8、右2。翌86年のシーズンからはある程度スタメンで出られるようになり、90試合に出場した。

     その年、リーグ優勝を果たし、V旅行先のハワイで驚いた。ゴルフコンペに参加した正田が、ゴルフバッグにバットを2本忍ばせてきたのだ。スイッチヒッターに挑戦する際、「バットを抱いて寝るぐらいじゃないと成功しないぞ」とは言った。それでも普通、ゴルフ場にバットは持ち込まない。ましてやハワイに、である。「空いた時間に素振りがしたかった」と正田。スイッチヒッターとして成功したいという執念を感じた。

     87年はつなぎの2番打者として29犠打をマーク。最終戦の最終打席で、武器にしていたセーフティーバントを決め、打率・333で巨人の篠塚利夫(現・和典)と首位打者のタイトルを分け合った。本塁打ゼロの首位打者は2リーグ制となって初、そしてスイッチヒッターの首位打者はプロ野球で初めての快挙だった。

     1番を務めた翌88年には打率・340。2年連続で今度は単独で首位打者に輝いた。続く89年は首位打者こそ逃したものの、最終戦でプロ野球タイ記録の1試合6盗塁を決めて自己最多の34盗塁で初の盗塁王。守っても87年から二塁手で5年連続ゴールデングラブ賞を取るなど、走攻守でチームを支え続けた。

     当初、私は正田に打撃センスを感じなかった。これを自覚していた正田は、「何とか成功したい」との一心で食らいついてきた。

    ■この成功体験のおかげで後に巨人から声

     不器用だった男が一流になっていく姿は、指導者として駆け出しだった私にとっても成功体験となり、大きな自信になった。正田が成功したおかげで私の指導者人生もつながっていく。その後、何の縁もない巨人に声をかけてもらい、広島と行ったり来たりしながら、ユニホームを脱ぐことなく、37年間もコーチを続けることができた。今でも「高橋由伸や阿部慎之助を育てた」などと言ってもらえるが、コーチの名を上げるのは選手。コーチは選手に生かされるものなのだ。

     一度は戦力外になったところから復活を果たした嶋重宣も、思い出深い選手である。

    (内田順三/前巨人巡回打撃コーチ)



    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200303-00000015-nkgendai-base

    【名伯楽・内田順三「作る・育てる・生かす」】#33

     私が広島の一軍打撃コーチになったばかりの1984年。当時、巨人のユニホームを脱ぎ、浪人時代だった長嶋茂雄さんが、一日コーチとしてカープの日南キャンプへやってきた。広島の古葉竹識監督との関係で実現したものだった。

     カシミヤのセーターを着こなした長嶋さんは、1番に定着していた高橋慶彦や外野のレギュラーを確保したばかりの長嶋清幸に直接指導。まずは慶彦のフリー打撃を数分間見て、こうアドバイスした。

    「高橋君ね、腰を『グッ』『グッ』『グッ』と切るんだ」

     きょとんとしていた慶彦が打撃練習を再開すると、目が覚めるような強い打球に変わっていた。

    「そうそうそう、それグーよー」

     今度は長嶋清にこう言った。

    「長嶋君ね、インパクトは『パーン』じゃなくて『パン』『パン』『パーン』よ」

     あの独特の言い回しで身ぶり手ぶりの指導。私は傍らで長嶋さんの言葉をメモした。長嶋清の打球も明らかに速くなった。

     長嶋さんが帰った後、慶彦は私にこう確認しにきた。

    「腰をグッグッグッていうのはどういう意味なんですか?」

    「おまえ、打球が変わっただろ? 腰に力が入っただろ? 腰を素早くスピーディーに回しなさいということだ。それが『グッグッ』なんだよ」

    「そうなんですか」

     長嶋清も首をひねりながら、こう漏らした。

    「パンパンパンってなんなんですかね?」

    「おまえはインパクトがパンで終わっているから、パンパンパンっていうのは、一度打ったら、もう一つ、もう一つ振り切りなさいってことを言っているんだ」

    「分かりました」

     これが有名なミスター流か。こういう教え方があるのかと驚いた。同時に自分にはできないと感じた。実績のある長嶋さんの言葉の重み、オーラがあればこそ成立するもので、実績のない私には到底無理である。指導者として何ができるのかを考えた時、選手と一緒に汗を流し、選手の成長を手助けする指導をしつこく続けるしかない。そう心に決めたのがこの時だった。

     長嶋さんの指導をメモしたキャンプから10年後。広島で二軍打撃コーチを務めていた私に、第2次政権が始まった長嶋監督率いる巨人からオファーが届いた。「ファームで若い選手を育てて1人でも2人でも上に押し上げて欲しい」と言われ、縁もゆかりもない私が巨人のコーチになった。以後、巨人では計16年間ユニホームを着させてもらった。長嶋監督は恩人である。

     長嶋監督は4番打者として育成すると決めた松井秀喜には厳しかった。松井が「あること」をすると、座っている松井の背中越しにベンチをガンガン蹴っていたのだ。

    (内田順三/前巨人巡回打撃コーチ)




    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200311-00000009-nkgendai-base

    【名伯楽・内田順三「作る・育てる・生かす」】#29

     一度は戦力外が決まっていたところから、這い上がった男がいる。現在は西武の二軍打撃コーチを務める嶋重宣である。

     1994年のドラフト2位で投手として広島に入団。99年から野手に転向し、2002年にウエスタン・リーグの最高出塁率のタイトルを取ったものの、03年までの5年間、レギュラーに定着できなかった。致命的だったのは、内角を苦手にしていたこと。腰痛も抱えており、すぐに離脱する選手というレッテルを貼られ、他のコーチ陣から「もう厳しい」と、みられていた。

     私は02年まで巨人の打撃コーチだったため、それまで嶋との接点はなかった。初めて指導したのは、広島の一軍打撃コーチに復帰した03年の秋季練習だった。嶋はその年、一軍で2打席に立っただけで9年目を終えていて、球団は戦力外を通告しようとしていた。とはいえ、打撃練習を見ていると、ボールに対していいコンタクトをしている。秋季練習で27歳の嶋と成長が期待される若手を比べた時、まだ力の差があった。嶋はまだやれると感じた。

    ■「先入観を持たないでフラットな目で見る」

     球団は戦力外の前にトレードを考えていたという。それでも「2、3年前ならトレードできたんだけど、今年は欲しいという球団が出てこない。嶋を解雇しようと思うんだが……」と聞かされた。

     意見を求められた私は「あと1年でいいので、なんとか嶋を置いてもらえませんか? その代わり、打撃については全部任せてください」とお願いし、了承された。一度は決まったクビが覆ったことになる。面白くない首脳陣もいたはずだ。実際、あるコーチに「お手並み拝見」と言われ、闘志に火がついた。嶋にはこう告げた。

    「オレはおまえを知らないから、先入観を持たないでフラットな目で見る。一度クビになったようなもんだ。失うものは何もないだろ。来年1年だけだぞ。オレはおまえの体調なんか気にしない。もし腰が壊れたら、そこで終わるぐらいの気持ちで死に物狂いでやってみろ。壊れてもいいつもりで、どんどんバットを振らせるからな」

     二軍では3割打てても、一軍では通用しない。原因はいくつもあったが、内角を意識するあまり、開きが早く、かかと重心になっていたことが気になった。まず、重心を爪先側にかけられる練習を考えた。ティー打撃の際、通常の斜め前方からではなく、真横からトスを投げたり、内角に緩いカーブを投げて、それをファウルにしないよう、腰を速く回しながら打たせた。打撃コーチの仕事は、いかに選手にいいクセをつけさせるか、だと思う。

     秋季練習から翌年の春のキャンプでも好調をキープしたが、オープン戦終盤の2試合で無安打。内容が悪く、控えに回ることになった。この世界は一度レギュラーから外されると、出場機会を取り戻すのは難しい。そんな嶋が再びチャンスを得る「追い風」が吹くことになる。

    (内田順三/前巨人巡回打撃コーチ)



    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200304-00000006-nkgendai-base

    ◆ 第4回:再建を託された人格者

     広島の新監督に佐々岡真司が就任した。投手出身の監督はチームにとって1967年の長谷川良平氏以来、実に53年ぶりのことだという。古葉竹織、山本浩二、野村謙二郎、そして前任者の緒方孝市氏といった攻撃型指揮官が続いた赤ヘル軍団を、元エースが昨年の屈辱からどう立て直していくのか? 注目してみたい。



     V9巨人以来のリーグ3連覇を果たした緒方監督からのバトンタッチ。輝かしい栄光からわずか1年でチームはBクラスに転落した。要因はいくつもある。中でも衝撃的だったのは、緒方監督が某選手の怠慢プレーに腹を立てて殴打した事件と、主軸に成長していたX.バティスタ選手のドーピング問題。チーム内に波風が立ち崩壊していった。

     球団側は一度は緒方を引き留めたが、辞任の意思は固く新たなスタッフで再出発を決断する。早い段階から後任の監督として有力視されていたのが佐々岡だ。

     一部からは松田元オーナーのお気に入りという声も聞かれたが、緒方が野球に関しては人も寄せ付けない「求道者」タイプに対して、佐々岡は誰もが認める「人格者」タイプ、さらに昨季は自慢の投手陣にほころびも見え出している。チーム内の空気を入れ替えて、なおかつ投手陣の再建を託せる人材として佐々岡の出番は必然でもあった。


    ◆ 投手コーチから指揮官へ

     グラウンド外の事件や問題は置くとして、昨年の転落には2つのウィークポイントが指摘されている。ひとつは丸佳浩選手のFAによる巨人移籍である。2年連続リーグMVPの流失はチームの屋台骨喪失を意味した。その穴を埋めるべく野間峻祥、松山竜平選手らを起用するが結果が出ない。

     そして、もうひとつが自慢のリリーフ陣の崩壊だった。3年連続で胴上げ投手を務めた守護神の中崎翔太が前年の32セーブから9セーブに。「勝利の方程式」を形成していた一岡竜司や今村猛といったリリーフ陣も精彩を欠いて一・二軍を往復する始末。いずれもV3からの勤続疲労だった。

     昨年までの投手コーチから指揮官へ。大役を引き受けるにあたり「自分でいいのか?」と戸惑いもあったというが、選手にもマスコミにも対話重視の姿勢は変わらない。実直な人柄がにじみ出る。

     現役時代はカープ一筋。1年目から13勝をあげてエースの座をつかむと、91年には最多勝(17勝)、最優秀防御率(2.44)にリーグMVP、沢村賞、ベストナインと5冠に輝いている。これだけの実績をあげながらチーム事情に応えて抑え役にも転向。2006年には100勝100セーブの快記録を達成、当時は江夏豊氏に次ぐ史上2人目の快挙だった。佐々岡がFAの権利を手にした時には「大好きな球団だから」という理由で残留の道を選んでいる。その昔からチーム愛は人並み外れている。


    ◆ もうひとつの顔

     「選手の時はファンから好かれる選手でありたいと思っていた。みんなから好かれる、そんな監督になっていきたい」。昨年、監督就任時の記者会見で佐々岡はこう語っている。正直な感情だろうが、一方で監督とは嫌われることも厭わず、敵を欺いてでも勝利にこだわるタイプが多い。

     先日亡くなった名将・野村克也氏は選手との個別会食は「個人的な感情が入る」という理由で拒絶していたほど。だから、佐々岡新監督を語る時に「お人好しで大丈夫?」という声があるのも事実である。

     しかし、佐々岡をよく知る人物が別な顔を証言する。同時期のエースで現在カープのOB会副会長も務める大野豊氏だ。「確かに人柄が良すぎて、心配する向きもあるだろうが、ああ見えて以外に頑固で芯の強い一面もある。自分で決めたことは絶対に曲げない意志の強さの持ち主ですよ」。

     投手を中心に守り勝つ野球が広島の伝統。昨オフには会沢翼、野村祐輔といった主力選手のFA移籍も危惧されたが、佐々岡直々の慰留で残留。さらにメジャー流失が確実視されていた菊池涼介選手まで帰ってきた。ドラフトでは新人王候補ナンバーワンと目される森下暢仁投手(明大)を獲得と戦力ダウンの心配はない。

     投手出身の佐々岡だから攻撃面は高信二ヘッドらとコミュニケーションを取りながら采配を振るう。そして懸案の投手陣の再建が実現した時、再び強いカープが戻って来る。その時までは「お人好し」も封印だ。


    文=荒川和夫(あらかわ・かずお)-この項終わり-


    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200228-00220121-baseballk-base

    【今とは大違い 俺の新人時代】

     広島といえば、猛練習で知られている。かつてのそれは現在の比ではなく、「あの頃のことは思い出したくない」と本気で言う者もいるくらいだ。

    「僕らのときが一番、厳しかった時代じゃないかな」と話す高ヘッドコーチ(52)は、1985年ドラフト2位で入団。悲鳴を上げたのが、キャンプの午前中に行うウオーミングアップだ。

    「最初に柔軟をやって体をほぐす。そのあとはひたすら2時間走りっぱなしです。まず連帯歩調で声を出しながら、グラウンド10周。そのあとも走るメニューばかりで、守備練習を挟んでから昼食。もうアップだけでヘトヘトになりますからね。走り終わった時点で『よっしゃ! 今日の山は越えた!』ですよ。まだ野球の練習は何もしていないのにね(笑い)」

     午後は打撃練習だが、高コーチは「バットは今の選手の方が振っているんじゃないかな。というのも、昔はマシンが少なかった。2台しかないマシンを順番で打っていたから、待ち時間も多かった」と、振り返る。

     ちなみに地獄のようなアップには理由がある。

    「あの当時は迫丸(金次郎)さんという方がトレーニングコーチでした。現役時代に巨人から広島にトレードで来た人。引退後にコーチになったんですが、選手上がりでトレーニングの専門的な知識がない。野球しかしていないんですから、とにかく『走れ! 走れ!』だったんです(笑い)」

     今の時代では考えられない人事だ。



    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200220-00000007-nkgendai-base

     「広島春季キャンプ」(10日、日南)

     3年目の遠藤淳志投手(20)がワインドアップ&2段モーションを“再解禁”することを明かした。10日は宮崎県日南市の天福球場でブルペンに入り、カーブなどの変化球を織り交ぜながら、従来の投球フォームで80球以上熱投した。



     今オフはソフトバンク・千賀らとの合同自主トレに参加し、鷹のエースに指導を受けた。千賀同様にセットポジションから左足を上げてから投げ始める新フォームを試していたが、9日の紅白戦では2回4安打4失点を喫するなど思うような結果が出なかったこともあり、決断した。

     遠藤は「前の方が良かったのではといろんな人から言われた。しっくりとこなかった部分もあったし、紅白戦でも手応えがなかったので、決めることにしました」と理由を説明した。

     昨季は34試合に登板。「結果を出すだけ。焦らずにできることをやっていきたい」とさらなるレベルアップを図っていく。



    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200210-00000067-dal-base

    【名伯楽「作る・育てる・生かす」】#18

     私が広島の二軍打撃コーチを務めていた1990年ごろのこと。広島市民球場近くに新築した自宅が「練習場」に変わった。

     秋季キャンプを終えた後、12月から翌年1月まではどの球団も全体練習ができない。しかし、この間、若手を遊ばせてしまっては、レギュラーとの差は縮まらない。球団は自主練習を望む選手のために、私の自宅の駐車場にネットを張り、若手が打撃練習できる環境を整えたらどうか? と打診してきた。

     せっかく家を建てたのだ。最初は拒んだが、折れない球団は、30万円ほどで2階まで届く大きなネットを購入した。業者が来てボールが飛び散らないよう、カーテン式に設置。やるしかない環境が整った。

     ただ、早朝から住宅街にカンカンとボールを打つ音が響いてしまう。近所迷惑になるため、妻が菓子折り持参で頭を下げて回った。

     93年オフ、私は翌シーズンから巨人のコーチになることが決まっていた。巨人の寮に住み込む直前まで、熱心に通ってきたのが、2016年からリーグ3連覇を果たし、昨季まで5年間監督を務めた緒方孝市だ。

     当時は24歳。まだ一、二軍を行ったり来たりの代走、守備要員だった。朝の9時から昼までティー打撃。その後は風呂場でシャワーを浴びて、我が家で昼食を取る。午後は筋力トレーニングに励むのが日課だった。

     緒方は当時から無口。私の妻は「あんな口数が少なくて線の細い子がプロでやっていけるのかしら」と本気で心配していた。しかし、その後すぐに一軍のレギュラーに定着。95年から3年連続で盗塁王になった。

     現役引退後、10年は一軍野手総合コーチ、11、12年が守備走塁コーチ、13年は一軍打撃コーチ、14年はヘッド格の一軍野手総合ベンチコーチを歴任した。さまざまなコーチを経験してから監督に就任したのが、16年からの球団初のリーグ3連覇につながったと思う。

    ■まっすぐでも意思も性格もまるで石

     元スカウト部長の村上孝雄さん(享年79)に発掘された。主に九州地区担当で他のスカウトも一目置く人物だった。指名に携わった選手は、他にも北別府学、津田恒美、前田智徳など名選手が多い。義理堅い緒方は、村上さんを「恩人」と慕っていた。

     現役の頃から人と群れるのを好まなかった。まっすぐで意志も性格も石のように固い。その後、中心選手になり、「あんなに努力したから今があるんだよ」と、かつて菓子折りを配った近所の人たちは喜んでいた。昨季まで現役から合わせて33年間ユニホームを着続けた。しばし休息を取って欲しい。

     同い年の緒方をライバル視していたのが金本知憲である。

    (内田順三/前巨人巡回打撃コーチ)



    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200201-00000006-nkgendai-base

    【内田順三「作る・育てる・生かす」】#15

     広島で21年間、指導者を務めた話をしよう。

     私の想像を超える選手になってきたのが、広島、侍ジャパンでも4番を張る鈴木誠也である。

     私が広島の二軍監督だった2013年、ドラフト2位で入ってきた。まず感じたのは素材の素晴らしさ。遠くに飛ばすというより、強い打球が打てる。高卒の野手では前田智徳の新人の時に似ていた。

     しかし、入団当初は高校時代に使用していた金属バットの影響が残っていた。右手の力が強く、スイングの軌道が「アウトサイドイン」になっていた。木製バットの「しなり」をうまく使えるようにするため、誠也には体に正対させるようにネットを立てて、その間にスタンドティーを置いて打たせた。アウトサイドインの軌道では、バットがネットに当たってしまう。ネットに当たらないよう、インサイドアウトで振るには、体をこするように右肘を畳まなければならない。最初はバットのヘッドが寝ない高い位置にボールを置き、それを徐々に低い位置に下げていく。これをしつこくやった。

    ■巨人・坂本と似ている部分

     若い頃の巨人・坂本勇人と重なる部分が多かった。打つ際の「コンタクト力」と守備の際の「肩の強さ」だ。足の速さは誠也が上だが、打つ際の腕回りの柔らかさは坂本の方が上だった。最近の2人はスイングの際、10の力を11、12にしようと背中を叩くくらい大きなフォロースルーで振り切るという共通点もある。

     練習熱心でウエートトレーニングにも力を入れた。当初、坂本はあまりやらなかったが、誠也は人よりやって、どんどん体が強くなった。エンジンも大きくなり、それに比例するように打球の飛距離も伸びていった。車でいえば2000㏄の日本車から5000㏄のベンツに排気量が上がった。土台である下半身がしっかりすると、スイングも変わっていった。

    「新人はいじくるな」という鉄則があるが、大学、社会人出身の即戦力はともかく、高卒選手はある程度、こちらが強制してやらせないといけない。高校生は金属バットの後遺症がある。癖があるまま固まらないよう、いい習慣をつけさせることが大切になる。

     最初の頃は真ん中からインサイドを強引に引っ張る意識が強かった。特に走者がいると、引っ張ってゴロで併殺というケースが目立った。私は誠也にこんな話をした。

    「それより逆方向に打てば走者を進められる。ボールを長く見ることができる。ボールとの時間や距離感も取れるようになる。利点が多いんだ。いい打者かどうかの分かれ道は、レギュラーになってから、いかに広角に打てるかなんだ」

     逆方向への意識が持てるようになり、バットがインサイドアウトに出せるようになった。比例して打率も上がってきた。

    (内田順三/前巨人巡回打撃コーチ)



    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200128-00000008-nkgendai-base

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