広島カープブログ

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     「プロ野球ドラフト会議」(25日、グランドプリンスホテル新高輪)

     広島の苑田スカウト統括部長は「僕からしたら100点。野手が編成上、足りないところがあった。カープ向きの足の速い選手が多かったので良かった」と満足そうに今回のドラフトを振り返った。


     ドラフト2位で指名した島内(九州共立大)については「即戦力投手が1枚ほしいということだった。評価も高かった」と説明した。

     鈴木球団本部長も「野手中心で。名前が挙がっている選手は全員取れた。最初が当たればスムーズに行くね」と納得顔だった。

    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20181025-00000127-dal-base

    <ニッカンスポーツ・コム/プロ野球番記者コラム:CATCH!!>

    <SMBC日本シリーズ2018:ソフトバンク9-8広島>◇第3戦◇30日◇ヤフオクドーム



    何色の糸で結ばれているか分からないが、ホークスと広島は昭和の時代からリーグは違っても、つながりの深い球団だった。日本シリーズ初の顔合わせ。ホークスが福岡に移転して30シーズン目。ようやく大舞台で出会った。

    世界の王が博多にやってきてからホークスは着実に「常勝」の道を歩み始める。1994年(平6)10月12日、ダイエー王監督が誕生。古巣巨人を離れ、九州の地で背番号「89」のユニホームに袖を通した。「打撃を中心にした打ち勝つ野球」を掲げつつ、巨人時代からその「強さ」に一目置いていた広島の「機動性」「守備力」を生かしたスキのない野球を目指した。約1カ月後に発表された王第1次内閣は広島OBの寺岡(ヘッドコーチ)達川(バッテリーコーチ)高橋(打撃兼走塁コーチ)の3人のコーチが就任した。当時のフロントも王監督の意外な人選に驚いた。広島出身コーチの招へいに向け球団幹部は広島まで足を運び、松田耕平オーナー(故人)に面会。組閣入りの内諾を得た。その後も水谷(打撃コーチ)らも加わり「総合力」の高いチーム作りを目指した。

    昭和の時代までさかのぼれば広島を球団創設初のAクラス入りさせ「赤ヘル軍団」の礎(いしずえ)を築いたとされる根本監督(故人)がいる。のちにダイエー監督となりGM的立場で王監督を招へい。こちらもホークスの常勝の礎を築いた。

    ホークスは「逆転の広島」に強烈に追い上げられたが、何とか本拠地ヤフオクドームで星を拾った。これで1勝1敗1分けの五分。因縁深い両チームはさらに激戦を展開しそうだ。【ソフトバンク担当 佐竹英治】


    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20181031-00378119-nksports-base

    広島は12日、マツダスタジアム内の球団事務所でスカウト会議を開いた。

    広島での最後のスカウト会議では、ドラフト指名候補選手をリストアップした。1位候補には大阪桐蔭の藤原恭大選手と報徳学園・小園海斗選手(ともに3年)、東洋大・甲斐野央投手(4年)らを挙げた。苑田スカウト統括部長は「今日、まだ誰を行くと決定していませんので、ドラフトの前日に決めようということで」と明言を避けた。10月25日に行われるドラフト会議前日(24日)に最終候補を絞り込むことになる。




    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20181012-00359825-nksports-base

     ビールで全身をぬらした男が、マイクを手に力強く叫んだ。

     「最高のチームメート…、いえ、家族とともにクライマックスシリーズを突破して、日本一のチャンピオンフラッグを広島に持って帰りましょう!!」



     中心にはいつも、今季限りの引退を表明した新井貴浩内野手(41)がいた。球団史上初のリーグ3連覇。個々の力、技術だけで成し得た偉業ではないだろう。逆転のカープ。広島の軌跡を辿れば、鮮やかなアジサイの花が浮かんでくる。花言葉は「固い絆」。白色に青、紫、ピンク。個性豊かだが、色とりどりに奇麗な花を咲かす。

     始まりは2016年。25年ぶりのリーグ優勝だった。25年-。文字にすれば簡単だが、流れた時の長さはいかばかりか。多くの人に見せることのできなかった約束のドラマ。地域球団の悲願達成を目前に、鈴木(清明)球団本部長がつぶやいた言葉を思い出す。

     「たくさんの人に『死ぬ前にもう一度、優勝が見たい』と言われてね。かなえられなかった思いもある」

     優勝から遠ざかった四半世紀の中で転換期は3つある。最も大きな波は2004年の「球界再編問題」だ。近鉄球団の消滅、合併。広島も球団消滅、合併、買収の噂が流れた。収入源だった放映権は半分以下に減った。実際は1リーグ構想の中でも存続が決まっていたが、同本部長は「カープはどうなるんだ…と。新球場を作らなければ、という流れになったのは事実」と振り返る。おらが街の球団をなくすな-と市民、経財界が新球場設立の機運を高めていた。

     広島で募金と言えば「樽」が付く。球団設立2年目の財政難が始まりだが、新球場設立にも樽募金で1億を超える市民のお金が集まった。「募金を行政のお金に入れて、一緒にモノを作れるのは広島くらいだろう。小さな子どもや、みんなのお金でできている。だから自分たちの球場だと思ってくれる」と野平眞広報室長。原爆で壊滅した街の復興を旗印に、広島と共に歩んできた。街に根付いた「地域球団」として誇りがある。

     新球場ができる10年以上前には、最初の転換期が訪れていた。1993年に「逆指名制度」導入。有望選手は人気球団に流れた。松田元オーナーは言った。「覆すだけの形や手段を見つけて、優勝ができると信じていた。一矢報いたかったが、結果的に甘かったんだ」。カープアカデミーの設立や、緻密なドラフト戦略。必死になって対抗する手立てを探したが、なかなか実を結ぶことはなかった。

     同年にはFA制度も導入された。優勝を狙えるチーム力や、資金力で有力選手の移籍が進む中、現在でも広島は6球団で唯一FA制度での補強がない。そればかりか川口和久、江藤智、金本知憲、新井貴浩…。主力選手は次々と流出した。1994年は3位。翌95年は、アカデミー出身のロビンソン・チェコが15勝を挙げるなど大活躍したが、2位に終わった。96年は「メークドラマ」として、球史に残る大逆転を喫した。

     「下位に沈んでしまうと、抜け出すのは本当に難しかった」。オーナーが明かすように、チームは負のスパイラルにはまった。以降は15年連続、Bクラスの低迷期に突入。だが、制度の不利に辛酸をなめたが抵抗、対抗し続けたの歴史は誇りでもある。裏金問題で2007年に希望枠撤廃が議論されたが巨人、ソフトバンク、そして広島の3球団が反対した。そこにプロ球団としての矜恃があった。鈴木本部長が明かす。

     「なくなれば球団にとってはプラス。ただ、日本球界にとって選手の希望を全く聞かなくなれば、メジャーに志向を変えてしまう懸念があった。例えば、自分の子がそういう状況になったら、どうなのか。12球団のことを考えないといけない」

     そんな中、2004年に「球界再編問題」が起こり、前述の新球場設立に向けた機運が高まる。2007年に新球場が完成した。ハード面にグッズ販売など、ソフト面も充実させながら来場者数は上昇の一途。2015年には球団設立後、初めて200万人を突破した。「球界再編がなければ、もう少し完成は遅れていたかもしれない。時間はかかったが、誰が見てもいい球場になった。胸を張って提供できた、という思いがある」とは鈴木球団本部長。25年、時間はかかった。苦難、困難にも泣きながら、乗り越えてきた25年。下に、下にと根を下ろした歴史は、3連覇という球団史上初の偉業を生んだ。新井の言うように広島の街全体で、「家族」で手にした勲章だ。(デイリースポーツ・田中政行)


    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180929-00000043-dal-base

     広島は28日、広島市中区の球団事務所でスカウト会議を開き、大学・社会人の指名候補48選手を映像で確認した。投手では、東洋大・甲斐野央、上茶屋大河、梅津晃大、日体大・松本航、野手では立命大・辰巳涼介の5選手をドラフト1位候補となるAランクにリストアップ。さらに、高校生で最上位評価する大阪桐蔭・藤原恭大、根尾昂、報徳学園・小園海斗らを含めて、10月中旬に開く会議で絞り込みを行う。

     会議に出席した苑田聡彦スカウト統括部長は、「即戦力ばっかりを獲ればその1年はいいかもしれないが、育てるのがカープの伝統としてある。左投手で言えば、床田や高橋(昂也、樹也)の成長の芽を摘むことは避けたい」とコメント。この日も、上位候補だけでなく、将来性のある有望株も映像でチェックした。

     社会人に関しては、「“ハッキリとこれが1位”というのはいなかった」と見通しを明かし、金足農・吉田輝星について「プロ志望届を出していないので保留です」と議論を先送り。「さすがカープという1位を指名したい」と10月25日のドラフト会議を見据えた。


    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180928-00000101-spnannex-base

     広島が26日、球団史上初のリーグ3連覇を達成した。いよいよ黄金時代に突入した広島の強さの秘密は「チーム編成」にある。過去に一度もFA補強をせず、ドラフトで指名した生え抜きの選手たちが躍動する。2008年から17年まで編成グループ長として選手獲得に尽力した川端順氏(58)がドラフトによる補強の裏側を語った。

    ■「エースで4番」を探す理由

     チームづくりとは「5年先」にどうなっているかを常に考えること。その選手の5年先、チームの5年先という意味もあります。ドラフト1位指名は投手中心。2、3位からセンターラインの選手を中心に、という基本方針があります。センターラインの投手、遊撃手、二塁手などは、センスのある選手が多く、プロ入り後に転向もできます。

     高校時代(二松学舎大付)、エースで4番だった(鈴木)誠也は、ショートに挑戦してから外野へ転向しましたが、逆の「外野手を内野手にするのはやめよう」という方針はありました。広島は松田オーナーから鈴木常務、我々と指示系統が一本化されている。他球団のように二重、三重に道がないところが強みです。

     まずはカープの厳しい練習に耐えられる体力や根性があるか。主に投手で4番を探します。要するに肩と足。この2つは鍛えても劇的には変わらない。

     今のカープの主力では、丸(千葉経大付)や誠也らが高校時代に投手をやっていて足も速かった。菊池も大学(中京学院大)の途中まで投手をやっていましたから。

     野手ではドラフト1位ではない選手が主力になることが多いのも特徴。丸は(07年)高校生ドラフト3位、菊池は(11年)2位、田中は(13年)3位。誠也は当初(12年)4位で指名する予定だったのですが、巨人などもリストに入れていて4位じゃ危ないと。当日に急きょ2位まで指名順位を繰り上げたんです。

    ■オーナーがスカウトを信頼

     誠也の12年は、大谷(花巻東=日本ハム1位)、藤浪(大阪桐蔭=阪神1位)、北條(光星学院=阪神2位)ら粒揃いの世代。誠也は投手として最速148キロ、打者として高校通算43本塁打の「二刀流」でしたが、3年夏は東東京大会準決勝で敗退。3年間で一度も甲子園出場経験がない。中央球界では無名ともいえる高校生を2位指名するのは、冒険といえます。

     ただ、どの練習試合で計っても一塁到達のスピードが4秒を切っていました。4秒切りは当時のカープの右打者では赤松だけ。鉄砲肩と足は突出していました。バネのある走り方がいいなと。当時はショートを探していて、最後は北條との一騎打ちになったが、担当の尾形スカウトが熱心で、「足なら誠也です」と。オーナーと当時の野村監督からの「ピッチャーだけど肩と足があるならショートは守れるのか?」「鍛えれば何とかなるのか?」という質問にも「大丈夫です」と即答。映像を何度も見せ、誠也獲得にGOサインを出してもらいました。オーナーが担当スカウトの話を重視してくれるのも他球団にはないところでしょう。

     12年のドラフト1位は投手の森(東福岡高=楽天)、増田(NTT西日本=西武)と抽選を2度外し、高橋大(龍谷大平安高)を外れ外れ1位で指名。これが逆に幸いしたかもしれません。誠也を4位から繰り上げやすい状況が生まれました。

     編成とスカウトが情報を密にしているのもカープならではです。苑田さん(73=スカウト統括部長)とはよく酒を飲みながら未来のカープについて語り合いました。とにかく意見を聞いてくれて、ドラフト直前の9月になって「このポジションが足りない」と言っても徹底的に探してくれる。編成は二軍も見ます。捕手を頼んだのに、「二軍であの選手が育ってきている」と感じたら、「やっぱり捕手はやめましょう」と言うこともあります。普通は怒るでしょう。それでも苑田さんは文句ひとつ言いません。

     カープはなるべく有望選手のポジションが重ならないチーム編成を心がけています。選手の年齢、在籍年数、FA権取得はいつなのか。今は主力でも5年先はいないかもしれない。オーナーは「常に最悪の状況を考えろ」「5年先を考えろ」と指示されています。

     最終的な決め手は性格です。高校生などアマチュア選手の練習を見る時に参考にするのは「ベースランニング」。プロのスカウトが見ていれば誰だって真面目に練習します。だから遠目からこっそり見る。監督がいない時にチンタラ手を抜いて走っていたらアウト。そういう選手は恐らくプロで伸びません。

     例えば誠也はどんな時でも一塁まで全力で走っていた。投手は投球に影響が出ると思い、なかなかできないものなんです。走塁も一生懸命過ぎてケガするぞ、と逆にヒヤヒヤしたくらい。そういう闘志や体の強さなども、思い切って2位に上げた理由です。 (談)

    ◆川端順(かわばた・じゅん) 1960年3月19日、徳島県出身の58歳。鳴門高から法大、東芝を経て83年ドラフト1位で広島入り。3回のリーグ優勝に貢献。93~05年に投手コーチ。その後フロント入りし、08~17年には編成グループ長。今年4月から出身地の徳島で岡田企画(株)が運営するOKスポーツクラブのコーチを務める。徳島県の中学、高校野球の技術指導員。大学、企業への講演活動も行っている。


    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180927-00000016-nkgendai-base

     広島は、優勝パレードを日本一を達成した場合にのみ開催することが分かり、ナインは34年ぶりの日本一へ結束を新たにした。今度こそ真の頂点に立つために、球団は決断を下した。

     「日本一にならないとしない。中途半端ではなくて、日本一になってパレードをする。そういう強い気持ちを持ってやってほしい」

     過去2年は広島市中心部の平和大通りでオープンバスに選手、監督らが分乗して、約3キロの優勝パレードを行った。25年ぶりのリーグ優勝だった16年は、41年ぶり2度目のパレードに31万3000人のファンが詰めかけた。リーグ連覇した昨季はクライマックス・シリーズでDeNAに敗れながら、約30万3000人が集まり、喜びを分かち合った。しかし、3年連続で日本一を逃すとなれば、同じように祝ってもらうわけにはいかない。悲壮な決意のもとに、短期決戦に乗り込むことになる。

     ナインにとっても感謝を伝える貴重な場。この日、マツダスタジアムでの投手指名練習に参加した野村は、「2年連続でたくさんの方が集まってくださって、ああいう形でファンに接することもできない。日本一が最大の目標だし、しっかりと勝っていくだけ」と意欲を示し、九里も「昨年もその前も悔しい思いをしている。僕もチームの勝利に貢献できるようにしたい」と決意を新たにした。

     11日の全体練習後には、ナインが一同に介しての決起集会が行われた。選手会長の会沢は「まずはCSを突破しないと日本一になれない。チーム一丸になって戦っていきましょう」と気合を注入したという。34年ぶりの日本一へ、結束も申し分ない。“祝祭”を開催してコイ党に喜んでもらう――。頂点に立たなければならない理由が、また一つ増えた。



    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20181013-00000076-spnannex-base

     別れを惜しまれながら、静かにユニホームを脱ぐ。プロ20年目の決断。新井貴浩内野手の歩んだ軌跡に、そっと寄り添い続けた男がいる。広島・鈴木清明球団本部長。獲得に踏み切った入団の経緯から、涙、涙の会見となった阪神移籍。そして球団では過去に例のない、FA移籍した選手の復帰。全ての節目に携わってきた。

     「結局、最後は人間性なんよな」。新井という男を振り返ると、遠い目をして静かに笑う。思い出すのは20年以上も前の話。だが、記憶は鮮明だ。当時、主力だった野村謙二郎氏(元監督)が部屋に来た。母校・駒大の後輩でもある新井を、ドラフトで獲ってほしいという。

     「『チームをまとめていく上で、しかられ役として必要になる選手。獲ってほしい』と言われたんよ。守備は良くなかったし、打てるかどうかもわからなかった。でも広島出身の選手。体も大きかったから、もしかしたら…というくらいだったな」

     松田元オーナーらとも相談の上、ドラフト6位で獲得を決めた。「もう無理だ」と感じたプロ1年目。だが、運命は新井に味方した。FAで江藤(智=現巨人3軍監督)が巨人に移籍したことで「4番・三塁」が空白に。育成急務のチーム事情が新井を育てた。光の数だけ影があるように、努力の数だけ流した汗がある。涙がある。2003年。阪神に移籍した金本に代わる形で、山本浩二監督(当時)から4番に任命された。

     焦り、力み、重圧で大失速。だが、4番は不動だった。同年7月10日の阪神戦(広島)。たまったフラストレーションが一気に爆発した。観客の心ないヤジに生涯初めて応戦した。同本部長が述懐する。

     「開幕から絶不調。浩二さんに「もう代えた方が…」と進言したこともある。でも『4番というのは、状態がいいから、悪いからで代えたらダメなんだ』と。ずっと我慢して使ったというのもある。あの時に、4番の重さというのを初めて感じた。チームとして、我慢して作り上げた打者。ある意味、しごかれても、必死になって練習についてきたよな」

     2000年代前半。いわゆるカープの“暗黒時代”である。4番は新井、エースは黒田博樹氏。広島市民球場に来る観客が、1万人を割ることも珍しくなかった時代だ。同部長は2人と顔を合わす度、チーム再建の方法を話し合った。

     「一番、チーム状態が悪い時にいろんな話をした。よく言われる“暗黒時代”でチームの中心。新井と黒田は年俸も、一番(成績が)いい時に一番悪い方(の条件)をのんでくれた。チームの話もたくさんした。優勝を目指そうと言っていたけど、当時の球団の財力、戦力では到底無理。それでもどうやったら勝てるか、話をした」

     だが、2007年オフ。兄のように慕っていた金本知憲(現阪神監督)の後を追い、阪神にFA移籍を決めた。数回の交渉の末、電話で決断を聞いた。他球団に移籍する選手の会見は、通例として球団ではなく近隣のホテルで行われる。「ワシは行かんぞ」。受話器を切る前に、そう伝えた。新井本人もそう認識している。だが、翌日。気付けば会見場に足が向いていた。

     「出て行った経緯にしても、恨みは一切なかったんよ。いかんぞと言ったけど、実は会見ものぞきに行った。そしたら涙を流していたな。それから、ずっと気になっていたな」

     いまだから明かせる真実がある。大粒の涙が流れた移籍会見。「つらいです。カープが好きだから」。泣き崩れる新井の姿を見たあの日、あの時、広島復帰の道筋は出来上がっていたのかもしれない。2014年オフ。阪神を自由契約になった後、すぐに電話を入れた。

     「帰ってこい」

     「どの面下げて帰ればいいんですか」

     「ええから、帰ってこい。大丈夫じゃ」

     2人の会話はこれだけで十分だった。

     「新井が気にしていたのは反発。緒方(監督)のもあった。指揮官として一度、出て行った選手を戻すことに葛藤はあったはずよ。でも最後は『もし、もう一度、同じユニホームを着るのであれば仲間。僕らが守ってやりますよ』と。緒方の言葉も伝えた。新井も喜んでいたよ。キャンプは初日から、こっちが大丈夫かと思うくらい練習していた。そういう彼の人間性、彼の姿に心をとらわれていった。反発がありながらも戻って、結果が出せる。誰もが同じじゃない。新井だからこそ、できたものだと思う」

     プロ生活20年。ドラフト6位以下の大卒選手で史上初めて、2000安打を成し遂げた。だが、輝かしい実績以上に、感謝している姿があるという。

     「衣笠(祥雄)さんも、カネも骨折してもグラウンドに立った。新井もそう。右手を大きく腫らしても打席に立った。常にプロとして、ポジションを取られてたまるか、という危機感があるんだと思う。琢朗(石井=現ヤクルト打撃コーチ)にしても、豊田(清=現巨人投手コーチ)にしても、晩年の選手になにを求めるかというと、最後は人間性。それが一番。チームにいかにいい影響を与えてくれるか。それが大きいよな」

     いよいよ3連覇を目前としているチームに、その背中で示した功績は計り知れない。(デイリースポーツ・田中政行)


    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180910-00000048-dal-base

    広島の鈴木清明球団本部長(64)が5日、新井の引退会見後に取材に応じ、現段階で引退試合を行う予定はないとの見解を示した。その一方で「ビジターはナゴヤドーム、神宮、東京ドームで試合がある。ファンの人には最後だと思って、プレーを見てもらいたい。真剣勝負の場が、彼の引退試合」と話した。

     15年の広島復帰後、新井はここまで2度のリーグ優勝に貢献。今季も精神的支柱だ。「ボロボロになるまでやるといっていたけど、そういう姿は見たくなかった。今なら良い形で送り出せる」。本人の意思を尊重し、引退を了承した。

     鈴木球団本部長にとって、背番号「25」は特別な存在だ。07年のFA権行使、その後の復帰、選手会会長を務めたときにも話し合った。「良くも悪くも野球人生に関わってきた。さみしい」。最後の言葉が本音だ。


    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180906-00000044-dal-base

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