広島カープブログ

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    内田順三

    【名伯楽「作る・育てる・生かす」】#22

    「絶対に2000本を打たせたい」

     2002年のオフ、巨人から広島の一軍打撃コーチに復帰した私に、山本浩二監督が言った。

     チームリーダーの野村謙二郎のことだった。その時点で通算1763安打。2000安打まで残り237本としていたものの、36歳のベテランになって肉体的にも技術的にも難しい時期に差し掛かっていた。長いシーズン、一年を通じてレギュラーで出るのはもう難しい。要所で活躍できるような状態をキープさせることが、打撃コーチである私の仕事だった。

     山本監督は続けて、「2年で達成させたい」と言った。結局、03年は打率・274で85安打、04年は同・270で97安打。目標の2年間では達成できず、残り55本で05年シーズンを迎えた。

     先発出場の機会も減っていたが、山本監督は「シーズン前半だけはスタメンを多くしよう」との方針を打ち出した。野村は生え抜きの幹部候補生で、95年にトリプルスリーをマークするなどカープの功労者。その功績に報いてやりたいという監督の親心だった。

     そうして始まった、05年のある日の試合後のこと。帰宅して夕食を取っていると、インターホンが鳴った。出ると、野村が玄関先に立っている。何事かと思ったら、やおらバットを差し出し、「プレゼントします」。その日の試合で2000安打へマジック1とするヒットを放った際の“記念のバット”。そこには「1999本」「みんなに感謝」と記してあった。

     記録を達成すると記念品を作る。しかし、そういう人に配るためのバットではない。1999安打を放った実物を持ってきてくれた。粋なことをすると感激した。すでに最多安打と盗塁王を3度ずつ獲得している選手。駒大の後輩ではあるが、少しは後押しできたのかなとうれしく感じた。まさにバッティングコーチ冥利に尽きることだった。

    ■「左投手には牽制させろ」

     監督時代の野村は緻密な野球にこだわった。例えば左投手に牽制球を投げさせると、打者へ投げる際も開きが早くなる傾向がある。甘い球がきやすくなるのだから、一塁走者は意識してリードを取ること。牽制された際、何歩のリードなら戻れるのか。ヘッドスライディングでギリギリ戻れる場所はどこか。球界では「走塁が一番難しい」といわれるが、そういうことを選手に求めた。

     野球は点取りゲーム。走者が一、二塁止まりか。一、三塁にするのか。足が速い、遅いは関係ない。一つでも前の塁へ進塁する。少しでも点を取りやすい状況に持っていく。たとえ足が遅い新井貴浩でも、1本の安打で一塁から三塁へ進塁する意識を持っている。これがカープ野球の原点だ。野村監督の功績は他にもある。

    (内田順三/前巨人巡回打撃コーチ)



    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200208-00000007-nkgendai-base

    【名伯楽「作る・育てる・生かす」】#21

     1990年、ロッテへ移籍した高橋慶彦に代わり、入団2年目の野村謙二郎がショートのレギュラーに定着した。

     足は速いし、小力がある。入団当初は外野を守っていて守備力も高かった。しかし、1年目のキャンプで膝を痛めた。ドラフト1位指名を受けた後、オフの間に体重が増え、それが膝に負担をかけた。今のように新人は徐々に慣らしていくという時代ではない。同じ駒大出身の大下剛史ヘッドコーチは、野村をどう育てるか、どう使うか、構想を練っていた。次のショートをつくろうと思っていた矢先、すぐに故障してしまったのだ。

     大下ヘッドは当然、凄いけんまくで野村を怒った。

    「貴様なんか荷物をまとめて広島へ帰れ!」

     ドラ1の有望株。チームの期待も高かった。でも、野村はのんびり構えているようなところがあって、“鬼軍曹”のカミナリが落ちたのだ。

     すると、不思議な現象が起きた。「全治1カ月」という診断だったはずが、なんと膝の痛みが消えたというのだ。我慢していた可能性もある。今のようにMRI検査もない。当時の医師も驚いた現象で、野村は2、3日で戦列に復帰した。

    ■初球から振っていく積極果敢な1番

     大下ヘッドが怒ったのは、駒大の後輩でもある野村の1位指名を球団に進言したからでもあった。プロとしての自覚を持て、というのはもちろん、自分の置かれている立場をよく考えろ、ということだったようだ。

     打順は主に1番。当時はまだ、「1番打者はボールをよく見ていけ」という時代。初球から打つなんて常識外れだった。

     しかし、野村は四球を選んで塁に出ようとはしない。第1ストライクから振りにいくタイプで、超積極的な1番だった。

     今は軸足に体重を残し、球を呼び込んで打つのが主流だが、当時の野村は打ちにいきながら、間合いを取り、体の前でさばくスタイル。どんどん振りながらタイミングを合わせていた。ポイントを前にして打った方が打球は飛ぶが、落ちる変化球など、ボール球を振りやすい。案の定、ワンバウンドに手を出すなど、粗っぽさが目立ったが、山本浩二監督、大下ヘッドら首脳陣は、野村のスタイルを尊重。「なぜボール球を振るんだ」と責めることなく、我慢しながら見守っていた。今となっては「好球必打」という打撃の基本を、当時から貫いていた。

     そんな野村が、「感謝の意を込めて」と私にバットを持ってきたのは、1999本目を打ったその日のことだった。

    (内田順三/前巨人巡回打撃コーチ)



    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200206-00000007-nkgendai-base

    【名伯楽「作る・育てる・生かす」】#19

     同い年の緒方孝市にライバル心を燃やしていた金本知憲も思い出深い。

     東北福祉大から1991年のドラフト4位で入団。1、2年目は二軍暮らしが続いた。広島は二軍の遠征費用を抑えるため、野手4、5人を残留させていた。金本は遠征メンバーに入れず、留守番となったことがある。当時、ウエスタン・リーグの日程は、大阪で阪神、近鉄と戦い、1週間ほどで帰広することが多かった。二軍打撃コーチだった私は、実際にやるかどうか半信半疑で、こう言い残し、遠征に向かった。

    「残留組は1日1000スイングがノルマだぞ」

     金本はそれを忠実に実行し、毎日1000回振っていたそうだ。残留組の練習に付き添った川端順二軍投手コーチから後になって聞いた話だ。金本個人に言ったわけではない。残留組の全選手に向けた言葉だったが、守ったのは金本だけだったという。

     大卒なのに……という反骨精神に火がついたのだろう。1年目から一軍で49試合に出場、専大からドラフト1位入団で同期の町田公二郎にもライバル心を燃やしていた。

    ■「モグラ殺し」

     二軍でくすぶっていた金本は非力だったため、「転がして足を生かせ」と言うコーチもいた。外野守備では送球を地面に叩きつけてしまうことが多く、「モグラ殺し」という、うれしくない異名も頂戴した。それでも、走力はあり、身体能力も高かった。打撃は内角への対応はまだまだだったが、逆方向の左中間へ鋭い打球が飛ばせた。化ける要素はあった。

     当初は内角球を打つ際、右肘や右肩が上がってしまっていたため、グリップを意識的に膝元に落とすことで、脇を締めようとしたのだ。

     悔しさをバネにした。自分の体力的な弱点を克服するため、シーズン中もオフも、広島市内にあるジム「アスリート」に通い、ウエートトレーニングに力を入れた。筋力を蓄えることで、車でいうエンジンの排気量が上がっていった。パワーがつき、打球に力強さが加わった。金本のトレーニング法が後輩の新井貴浩や鈴木誠也らに引き継がれ、カープの伝統になった。先駆者として金本が残した功績といえる。

     94年に三村敏之監督(享年61)が就任すると、レギュラーに定着した。金本の体の強さや試合を休まない根性を買っていた。三村監督には「ケース・バイ・ケース」というカープのチームに貢献するための打撃を叩き込まれた。阪神にFA移籍し、星野仙一監督に「阪神の4番なんだから自由に打て」と言われても、根底には「チーム打撃」という考えが染みついているように見えた。金本は三村監督がつくり上げたといっても過言ではない。

     その金本と師弟関係だったのが新井である。

    (内田順三/前巨人巡回打撃コーチ)



    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200204-00000008-nkgendai-base

    【名伯楽「作る・育てる・生かす」】#18

     私が広島の二軍打撃コーチを務めていた1990年ごろのこと。広島市民球場近くに新築した自宅が「練習場」に変わった。

     秋季キャンプを終えた後、12月から翌年1月まではどの球団も全体練習ができない。しかし、この間、若手を遊ばせてしまっては、レギュラーとの差は縮まらない。球団は自主練習を望む選手のために、私の自宅の駐車場にネットを張り、若手が打撃練習できる環境を整えたらどうか? と打診してきた。

     せっかく家を建てたのだ。最初は拒んだが、折れない球団は、30万円ほどで2階まで届く大きなネットを購入した。業者が来てボールが飛び散らないよう、カーテン式に設置。やるしかない環境が整った。

     ただ、早朝から住宅街にカンカンとボールを打つ音が響いてしまう。近所迷惑になるため、妻が菓子折り持参で頭を下げて回った。

     93年オフ、私は翌シーズンから巨人のコーチになることが決まっていた。巨人の寮に住み込む直前まで、熱心に通ってきたのが、2016年からリーグ3連覇を果たし、昨季まで5年間監督を務めた緒方孝市だ。

     当時は24歳。まだ一、二軍を行ったり来たりの代走、守備要員だった。朝の9時から昼までティー打撃。その後は風呂場でシャワーを浴びて、我が家で昼食を取る。午後は筋力トレーニングに励むのが日課だった。

     緒方は当時から無口。私の妻は「あんな口数が少なくて線の細い子がプロでやっていけるのかしら」と本気で心配していた。しかし、その後すぐに一軍のレギュラーに定着。95年から3年連続で盗塁王になった。

     現役引退後、10年は一軍野手総合コーチ、11、12年が守備走塁コーチ、13年は一軍打撃コーチ、14年はヘッド格の一軍野手総合ベンチコーチを歴任した。さまざまなコーチを経験してから監督に就任したのが、16年からの球団初のリーグ3連覇につながったと思う。

    ■まっすぐでも意思も性格もまるで石

     元スカウト部長の村上孝雄さん(享年79)に発掘された。主に九州地区担当で他のスカウトも一目置く人物だった。指名に携わった選手は、他にも北別府学、津田恒美、前田智徳など名選手が多い。義理堅い緒方は、村上さんを「恩人」と慕っていた。

     現役の頃から人と群れるのを好まなかった。まっすぐで意志も性格も石のように固い。その後、中心選手になり、「あんなに努力したから今があるんだよ」と、かつて菓子折りを配った近所の人たちは喜んでいた。昨季まで現役から合わせて33年間ユニホームを着続けた。しばし休息を取って欲しい。

     同い年の緒方をライバル視していたのが金本知憲である。

    (内田順三/前巨人巡回打撃コーチ)



    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200201-00000006-nkgendai-base

    【内田順三「作る・育てる・生かす」】#15

     広島で21年間、指導者を務めた話をしよう。

     私の想像を超える選手になってきたのが、広島、侍ジャパンでも4番を張る鈴木誠也である。

     私が広島の二軍監督だった2013年、ドラフト2位で入ってきた。まず感じたのは素材の素晴らしさ。遠くに飛ばすというより、強い打球が打てる。高卒の野手では前田智徳の新人の時に似ていた。

     しかし、入団当初は高校時代に使用していた金属バットの影響が残っていた。右手の力が強く、スイングの軌道が「アウトサイドイン」になっていた。木製バットの「しなり」をうまく使えるようにするため、誠也には体に正対させるようにネットを立てて、その間にスタンドティーを置いて打たせた。アウトサイドインの軌道では、バットがネットに当たってしまう。ネットに当たらないよう、インサイドアウトで振るには、体をこするように右肘を畳まなければならない。最初はバットのヘッドが寝ない高い位置にボールを置き、それを徐々に低い位置に下げていく。これをしつこくやった。

    ■巨人・坂本と似ている部分

     若い頃の巨人・坂本勇人と重なる部分が多かった。打つ際の「コンタクト力」と守備の際の「肩の強さ」だ。足の速さは誠也が上だが、打つ際の腕回りの柔らかさは坂本の方が上だった。最近の2人はスイングの際、10の力を11、12にしようと背中を叩くくらい大きなフォロースルーで振り切るという共通点もある。

     練習熱心でウエートトレーニングにも力を入れた。当初、坂本はあまりやらなかったが、誠也は人よりやって、どんどん体が強くなった。エンジンも大きくなり、それに比例するように打球の飛距離も伸びていった。車でいえば2000㏄の日本車から5000㏄のベンツに排気量が上がった。土台である下半身がしっかりすると、スイングも変わっていった。

    「新人はいじくるな」という鉄則があるが、大学、社会人出身の即戦力はともかく、高卒選手はある程度、こちらが強制してやらせないといけない。高校生は金属バットの後遺症がある。癖があるまま固まらないよう、いい習慣をつけさせることが大切になる。

     最初の頃は真ん中からインサイドを強引に引っ張る意識が強かった。特に走者がいると、引っ張ってゴロで併殺というケースが目立った。私は誠也にこんな話をした。

    「それより逆方向に打てば走者を進められる。ボールを長く見ることができる。ボールとの時間や距離感も取れるようになる。利点が多いんだ。いい打者かどうかの分かれ道は、レギュラーになってから、いかに広角に打てるかなんだ」

     逆方向への意識が持てるようになり、バットがインサイドアウトに出せるようになった。比例して打率も上がってきた。

    (内田順三/前巨人巡回打撃コーチ)



    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200128-00000008-nkgendai-base

    【内田順三「作る・育てる・生かす」】#9

     私が広島の打撃統括コーチ(2008~10年)を務めていた頃、試合前に不振で悩んでいた4番の栗原を連れて中日の監督だったオチ(落合博満)に相談したことがある。

    「相手から見て(栗原は)どんなふうに感じる?」

     すると、オチはこう言った。

    「4番だからって(走者を)全部かえそうとしているよ。内田さんねえ、打者ってそんなに打てないから、四球は四球で選べばいいんですよ。次の5番につなぐ、チャンスを回せばいいのに、全部の球を追っ掛けて打とうとしている」

     打撃フォームのことは言わなかった。「ボール球は打たない。失投を打つ。いかにワンスイングで仕留めるか」ということだった。全部打たなくていい。そう考えれば、余裕も出る。栗原は「気が楽になった」と感謝していた。

     オチが巨人にいた頃から、こちらが三冠王3度の技術を学ばせてもらった。そんなオチが「天才」と評した「内角球さばき」ができるのが、昨季セ・リーグMVPに輝いた坂本勇人である。

    ■「ショート打ちの名人」と重なる坂本の内角打ち

     スピード、ミート力、肩――。走攻守のバランスが取れた遊撃手だが、新人だった07年の頃はマッチ棒のようにヒョロヒョロだった。

     柔らかさが武器。ウエートトレーニングよりスイングをしながら力をつけた。内野、特に遊撃手は動き回る。スピード感が必要だから、ウエートで硬い筋肉をつけることは避けていた。 

     打撃では、入った頃から左肘の抜き方、内角打ちは抜群にうまかった。野球以外は左利きで左腕の操作性が高いことが理由かもしれない。「シュート打ちの名人」と言われた山内一弘さん(中日、ロッテの監督などを歴任=享年76)の打ち方にそっくりで、ダブって見えた。

     坂本に「トップから45度の角度(で振り下ろす)を意識して振ってみたら?」と話したことがある。悪くなると、スイングする際に後ろの部分が大きくなる傾向があった。「45度」を意識させることで、レベルスイングに近づけるのが狙いだった。これは感覚の問題で、一本足打法の王さんを指導した荒川博さん(巨人、ヤクルトで打撃コーチ=享年86)は「55度で振るとレベルに近いスイングになる。いい角度になる」と話していた。

     下半身リードで振ると、ヘッドが出てくる。打つ際、ボールが当たる面を長く見られるようになると、センターから右中間へ飛ぶようになる。

     阿部同様、いいと思ったことは何でもチャレンジする。以前はもろさがあったが、最近は「変化」ができるようになった。

     投手によってスタンスを広くしたり、始動を変えたり、小さい動きにしたり……。「俺はこのスタイルなんだ」ではなく、多くの引き出しを持つ順応性こそが大きな武器。しかし、坂本も伸び悩んでいる時期があった。

    (内田順三/前巨人巡回打撃コーチ)



    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200118-00000011-nkgendai-base

     プロ野球界では出場機会の少ない選手を対象にした「現役ドラフト」の導入が検討されている。大リーグでは「ルール5ドラフト」として定着し、移籍によって成功した選手も少なくない。日本球界では継続して議論が行われているが、ファームでの指導歴が長かった内田順三氏に同制度への期待、ファームでの注目選手などについて聞いた。

     ◇ ◇

     非常にいい制度だと思うよね。メジャーでもやっているけど、チームが変わって選手が生き返るケースはあるから。

     日本ハムへ移籍して成功した大田もそうだったけど、選手の使い方というのは大事。巨人から近鉄に移籍して活躍した吉岡なんかもいい例で、梨田(当時の近鉄監督)はその能力を評価して『10試合、目をつぶってやるから結果を出せ』とハッパをかけたらしい。これなら選手からすれば、1試合ダメでも『次、また次』となるよね。精神的に余裕があれば、数字が伸びてくるケースもある。

     力を発揮できない要因はさまざまだけど、ひとつの球団にいると先入観念を持たれている選手がいる。少し使われてダメだと、すぐに「やっぱりあいつは…」となってしまう。自分がカープで指導した選手では10年目に首位打者を取った嶋がそうだった。腰が悪いという先入観念を持たれ、長続きしない。9年目のオフには戦力外も検討されていたけど、自分がコーチに戻って「まだ勝負できる」と球団に残すよう頼んだ。

     素材は素晴らしいと思う選手はファームにたくさんいる。例えばDeNAの関根は14年のフレッシュオールスターで見た時、素晴らしい選手だと思った。足も速く、ミート力もあって、西武からレッズに移籍した秋山のようになれると。当時、西武の山川やロッテの井上も一緒のチームにいたけど、関根はその中でもものすごく目立っていた。

     巨人では捕手の岸田。入団3年目になるけど、広角に打てるようになって打力が上がっている。1軍には炭谷、小林、大城といるけど、岸田も力は付けてきている。外野では松原もポカが多いけど、あの足は魅力。一芸がある選手は、チームによってはまる可能性を秘めている。

     球団それぞれの方針もあるからね。ロッテ・安田のように、1軍で出られる成績も残しているけど、下でじっくり育てている。カープのように5年後を考えて選手を獲得している球団もある。坂倉なんかもいい振りをしているよ。そうなると、対象選手について、入団後の年数や時期をどうするかが難しいだろう。

     出身高校や大学、社会人チームとの信頼関係もあるからね。選手を生かすためのシステムにできるか。クビになりそうな人材が動くのではなく、相手側から評価されていくケースが増えれば日本球界の活性化につながるんじゃないか。

     ◆内田 順三(うちだ・じゅんぞう)1947年9月10日生まれ、72歳。静岡県出身。現役時代は左投げ左打ちの外野手。東海第一から駒大を経て、69年度ドラフト8位でアトムズ(現ヤクルト)入団。75年日本ハム移籍。77年ヤクルト移籍後、82年限りで現役引退。通算成績は950試合485安打25本塁打182打点、打率・252。83年以降は2019年まで広島、巨人で1軍打撃コーチ、2軍打撃コーチ、2軍監督などを歴任した。20年からはJR東日本の外部コーチを務める。


    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200115-00000057-dal-base 

     昨季限りで現役引退し、今季から広島の2軍外野守備・走塁コーチに就任した赤松真人コーチ(37)が10日、東京・銀座のひろしまブランドショップ「TAU」で行われたトークショーにゲスト出演した。

     京都府出身の赤松コーチは、平安高、立命館大を経て2005年にドラフト6巡目で阪神に入団。その後、08年にFA移籍した新井貴浩(現スポニチ本紙評論家)の人的補償として広島に移籍した。持ち前の俊足と強肩で外野手として活躍した赤松コーチを一躍有名にしたのが、10年8月4日にマツダスタジアムでの横浜戦で、村田修一が放った本塁打性の飛球をフェンスによじ登っての好捕。米国でも衝撃プレーとして取り上げられるなど、世界に名をとどろかせた。

     しかし、25年ぶりのセ・リーグ優勝した16年オフに胃がんを公表し、翌17年1月5日に胃の半分を切除する手術を行い、その後は抗がん剤投与など治療やリハビリをこなし、18年春季キャンプに参加、1軍復帰に向けトレーニングを重ねてきたが、昨季限りで現役を引退した。

     来場者から花束を受け取った赤松コーチは昨年9月27日に行った引退セレモニーに関して「実は僕が球団に(セレモニーを)やらなくていいですと言ったんです。実際に凄い成績を残した選手でもなかったし。でも、病気になってから声援してくれた全国のファンの人たちに最後の姿を見せるためにはいい場所だと思ったんです。やってみて凄く良かったですね」と話した。

     続けて、引退を決意した理由を聞かれると「引退って言ったら格好良いんですけど、引退じゃないんです。力及ばずなんです。1軍にはいない、いても試合にほぼ出ないのであれば、身を引くべきだと思います。あと1年できたかもしれませんが、そうなると1人の選手が枠に入れなくなる訳で、自分から引退するって言いに行きました」と説明した。

     今後は2軍外野守備・走塁コーチとして後進の育成に携わることになるが「野球選手にとって、やりがいのある仕事だと思います。コーチ業って皆さんが思っている以上に体力を使うんで、選手あがりの方がやりやすいと思います」と、現在はノックを打つための練習を行っているという。

     最後に来場者に対して赤松コーチは「今後、コーチ業をしますが、たぶんコーチングという(ような)大きなことを言えないと思います。しっかりとサポートをして選手の意見を聞き、やりやすい環境を作ってあげることに重点をおいてきたいと今年は思っています。年ごとに僕もレベルアップしていきたいですし、ファンの方々にもレベルアップしていただき、諦めない心で今後も野球を、そしてカープを応援していただければありがたいですね」と、熱いメッセージを送った。



    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200110-00000209-spnannex-base

    昨季まで巨人で巡回打撃コーチを務めた内田順三氏(72)が、社会人野球のJR東日本で外部コーチを務めることになった。

    6日に指導を開始した。同氏は82年の現役引退後もユニホームを脱ぐことなく、37年間にわたり、広島、巨人でコーチ、2軍監督などを歴任。野村謙二郎、前田智徳、高橋由伸、阿部慎之助ら数多くの好打者を育て上げた。JR東日本は元ヘッドコーチの浜岡武明氏(47)が新監督に就任。内田氏にとって駒大の後輩にあたる。名門のさらなる強化に、名伯楽が協力する。



    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200106-01060218-nksports-base

     プロ野球の選手、指導者として50年間グラウンドに立ち続けた静岡県三島市出身の内田順三さん(72)が10月、巡回打撃コーチを務めた巨人を退団し、1970年のヤクルトアトムズ入団から初めてユニホームを脱いだ。半世紀にわたるプロ生活を「人に恵まれ、一つの区切りを迎えられた」と感謝しつつ、「今後もプロアマ問わず貢献したい」と野球への情熱を抱き続ける。

     65年の高校3年時に4番打者として東海大一高(現東海大翔洋)を初の甲子園出場に導き、進学した駒沢大からドラフト8位でヤクルトへ入団。当時の中西太コーチに基本を徹底して継続する大切さを学び、「今もコーチとしての原点と思っている」という。日本ハム、広島にも所属しながら外野手として計13年プレーし、現役引退と同時に広島の打撃コーチに就任した。

     当時、ルーキーだった正田耕三にスイッチヒッターへの転向を勧め、連日の指導で首位打者を獲得した。広島では小早川毅彦、緒方孝市、金本知憲ら選手育成に携わり、巨人でも高橋由伸や阿部慎之助ら数々の名選手を育てた。「選手がコーチの名を上げてくれた」と振り返る。

     信念は「(練習)量で質を作る」。一時は選手の寮に住み込んで野球に徹底して向き合い、個々の適性に合った練習ドリルを与え続けた。今年10月に巨人を去るとき、多くの選手から「ご苦労さまでした」と声をかけられたという。目標だった“余韻の残るコーチ”に「少しは近づけたかもしれない」と笑う。

     野球から離れて1カ月余り。最近は趣味の絵画や書道も楽しんでいるが、時間があれば近所のジムに通い、日課の散歩も欠かさない。「また声がかかればいつでもやる」と語る内田さんは、「いつか三島や母校も含めて静岡でも野球を教えたい。(元プロの)名前だけでポッと行くのではなく、しっかり指導できるよう体を作っておく」。野球に向けるまなざしは、常に真剣そのものだ。



     <メモ>うちだ・じゅんぞう 1947年、三島市生まれ。左投左打。市立南中で野球を本格的に始め、東海大一高、駒沢大を経てプロ野球入り。現役引退後の83年から広島の一軍、二軍で打撃コーチを歴任し、94年に巨人の打撃コーチに就任。その後も広島と巨人を行き来し、2019年10月に50年途切れることなく着続けたユニホームを脱いだ。



    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20191114-00000032-at_s-l22

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