広島カープブログ

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    古葉竹識

     「2215」。現在でも衣笠祥雄さんが持つ連続試合出場記録はプロ野球最多として輝く。体に近い内角球を恐れず、フルスイングでファンを魅了した選手だった。死球は歴代3位の161個で、三振は当時最多(現在9位)の1587個を数えた。野球界は星野仙一さんに続き、また一人、1970~80年代を彩ったスターを失った。


     入団2年目まで1軍と2軍を行ったり来たりで、スカウトから「このままだとクビだ」と脅された。しかし、3年目からコーチに就任した根本陸夫さんの助言で長所は長打力だと再認識し、6年目にはコーチの関根潤三さんと深夜にまで及ぶ猛練習でスイングを磨いた。

     選手として23年間のうち、打率が3割を超えたのは1度。それは入団20年目のことだった。現役を引退した後も、晩年は闘病生活をしながら最後まで「鉄人」らしく、野球界に携わった。


    ■骨折しても「絶対出たい」

     1975年から監督として広島の黄金期を築いた古葉竹識さんは「涙が出ました。サチが私より先に逝くとは……」とショックを隠しきれない様子。2月ごろに会った時、体調を心配して声をかけたら衣笠さんは「大丈夫」と答えたという。「私が監督時代、よくがんばってくれました。骨折した時も『絶対出たい』と言ってきて。だから、『大事なところで使う』と伝えて代打で使ったんです」と当時を振り返った。

     広島のOB会長を務める安仁屋宗八さんは「まさかと耳を疑った。入団時はバッテリーを組んだこともあった。三塁転向後はエラーでよく足を引っ張られたが、『安仁屋さん、エラーは目をつぶってください。必ず打って取り返しますから』と言われた。『鉄人』と呼ばれたんだから、いつまでも元気でいてほしかった」と語った。大下剛史さんは「寂しい。二遊間を組んでいた敏之(三村)が逝って、今度はサチ。これで初優勝メンバーの内野手は私とホプキンスだけになってしまった」とコメントした。

     広島の後輩たちは「本当に優しい人だった」と口をそろえた。大野豊さんは「マウンドによく声をかけに来ていただいた。怒られたことは一度もない。いつも優しく元気づけられた」という。北別府学さんは「ピンチの時にも頑張れと背中を押してもらった。あの優しい笑顔は忘れられない」と思い出を語った。

     達川光男・現ソフトバンクコーチは「キヌさんは『痛いとかかゆいとか言うからけがになる。黙っていたらわからん。試合に出るのが当たり前』と言っていた。今まで数多くの野球好きを見てきたけど、キヌさんがナンバーワン。一番野球を愛していた」と語った。小早川毅彦さんは「プロとしての厳しさ、責任感を教わり感謝しきれない。優しい先輩で努力の人。若手のお手本だった」。野村謙二郎さんは「レジェンドの方が亡くなって寂しい。監督になった時は『思い切ってやればいい』と声をかけていただいた」という。

    ■緒方監督に「常勝カープを」

     広島の緒方孝市監督は衣笠さんといっしょにユニホームを着たのは1年だけだったが、「頑張れよと声を掛けていただいたのを覚えている」。2016年に25年ぶりのリーグ優勝を決めた際、「ここから常勝の強いカープを築いてくれ」と言われたという。「優勝、そして日本一の報告をするためにも全員で戦っていきたい」と語った。

     歴代3位の1766試合連続出場記録を持つ阪神の金本知憲監督は「カープの先輩であるキヌさんから、休まないということに関していちばん影響を受けた。中心選手は常にグラウンドに立っていないといけないことを、無言で示した人だった」と振り返った。

    ■ライバルも悼む

     かつてのライバルたちも、衣笠さんの死を悼んだ。元巨人監督の長嶋茂雄さんは「『鉄人』と呼ばれた通り体の強い選手で、私が監督1年目の75年には山本浩二さんとカープを引っ張り、初優勝を見事成し遂げられたことが印象深いです。巨人戦で死球を受けた時には、カープのベンチを自らなだめながら笑顔で一塁へ向かう姿が忘れられません。芯が強く、優しい心を持っているいい男、ナイスガイでした」とコメントを発表した。

     王貞治・現ソフトバンク会長は「『鉄人』と呼ばれた彼なので、まさかという感じです。外見は怖そうな雰囲気だけど、実際にはすごく心の優しい人。死球を受けても相手を威圧することなく、闘争心をもって戦う中では珍しいタイプの選手だった。敵ではあるが、それを超えた形で話ができる人。もっともっと話がしたかった」と惜しんだ。

     楽天の梨田昌孝監督は「79、80年の日本シリーズで対戦した」と近鉄(現オリックス)時代の対戦をなつかしみ、「衣笠さんの辛抱強い姿を見て、今の広島の礎が築かれたのだと思う。とにかく『元気の源』みたいな方で、人懐っこく気さくに声をかけてくれる方でした」。DeNAのラミレス監督は「尊敬される方。日本人のロールモデル(模範となるお手本)だった」と語った。日本代表「侍ジャパン」の稲葉篤紀監督は「会うたびに『がんばれよ』と笑顔で声をかけていただいた。まさか、という思い」と話した。


    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180424-00000091-asahi-spo

     衣笠祥雄氏の訃報(ふほう)について、広島の監督として現役時代の衣笠氏を指導し、1975年のセ・リーグ初優勝、79、80、84年の3度の日本一を成し遂げた古葉竹識氏は「涙が出ました。サチが私より先に逝くとは」と取材に答えた。

     「最後に会ったのは2月ごろ。体調を心配していたのですが、本人は『大丈夫よ』と。私が監督時代、本当によく頑張ってくれました。79年に死球を受けて亀裂骨折した時も、私に『絶対出たい』と言ってきた。だから『よし、大事なところで使うから、準備しておけ』と伝え、代打で使ったんです。ひどいケガにも負けなかったから、2215試合連続出場ができた。プロとしてファンを喜ばせたいという責任感の強い選手でした。お疲れ様、ありがとうと言いたい」


    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180424-00000067-asahi-spo&pos=3

     元プロ野球広島で“鉄人”の異名を持つ衣笠祥雄氏が亡くなったことが24日、分かった。71歳だった。

     衣笠氏とは広島時代の同僚である野球解説者の江夏豊氏が、ヤクルト-阪神戦のテレビ解説のために現地入りした愛媛・松山空港で報道陣の取材に応じた。

     「今日の朝、知った。(衣笠氏の)奥さんから電話がかかってきた。一口ではなかなか言いづらいけど、言えることは、いいヤツを友人に持ったということ。本当に俺の宝物」と終始、沈痛な面持ちで故人をしのんでいた。


    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180424-00000064-dal-base

     福岡・飯塚市に球団史上初の3連覇を狙う広島、連覇を狙うソフトバンクの2球団の胃袋を支える焼き肉店「焼肉のMr.青木」がある。170席ある大型店は連日にぎわい、週末になると福岡市内はもちろん各地から新鮮な肉を求めて長蛇の列ができる。

     そんな人気店に足しげく通うソフトバンク関係者。昨年のパ・リーグCSファイナルシリーズで初戦から4戦目まで連続本塁打を放ちMVPに選ばれた内川は、家族で連日通ったほどの“パワースポット”だ。

     日本一に輝いた前日には達川コーチも一人で訪れた。「先輩、聞いてくださいよといいながら一人で来た」と説明したのは、オーナーで元プロ野球選手の青木勝男さん(71)だ。

     広島に在籍7年、1軍成績は通算13打数2安打と大きな実績は残していない。それでも広島退団時には巨人、阪急(現オリックス)、南海(現ソフトバンク)の3球団から移籍話もあった。しかし、結婚の話もあり「東京は似合わんと思った」と巨人入りも断って故郷の飯塚に戻り、両親の営む店を継いだ。「寝る間を惜しんで働いた」と広島時代の付き合いで古葉竹識氏や安仁屋宗八氏らの口利きもあり、店は繁盛した。

     10年前には古くなった店を新築。調理場は息子に任せ、お客の案内係に専念する一方、地元に2軍戦を誘致するなど、野球発展にも力を注いだ。財を成し順風満帆の人生のようだが、二十数年前にパーキンソン病を発症。現在は薬が手放せず、歩行器が必要な生活を送っている。昨年12月の広島カープOB会は体調不良で欠席。「今年は行きたい」と、東筑出身の広島・高コーチから贈られたカープ帽をかぶって、山本浩二氏や北別府学氏らの写真が飾られた店先に立つ。

     16年のオープン戦中には、緒方監督をはじめ首脳陣を招いて焼き肉を振る舞った。そこから広島は連覇を達成。今年のオープン戦中も首脳陣や選手が舌鼓を打った。ソフトバンクのお膝元ではあるが「ソフトバンクの帽子をかぶると似合わんと言われる」と笑う。夢は広島とソフトバンクの日本シリーズ対決。青木さんは「カープを応援する」と迷うことなく言い切った。(デイリースポーツ・岩本 隆)


    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180409-00000052-dal-base&pos=5

     待ちに待ったプロ野球が明日30日にセ、パ同時に開幕する。

     大谷翔平がアメリカに去ろうが、清宮幸太郎が開幕を2軍で迎えようが、話題に事欠かないが、注目のひとつは、昨年オフに同一リーグ内で起きたコーチ、スタッフの流出、移籍が、どう影響するかだ。セ・リーグから見ると連覇を果たした広島からは、最強カープ打線を支えた石井琢朗打撃コーチと、その機動力を鍛えた河田雄祐・外野守備走塁コーチの2人がヤクルトに移籍。ヤクルトのスコアラーで昨年のWBCで侍ジャパンのスコアラーを務めていた志田宗大氏が、巨人に引き抜かれた。

     パ・リーグでは“日本一”のソフトバンクから佐藤義則投手コーチが楽天へ。鳥越裕介内野守備・走塁コーチと、清水将海バッテリーコーチは、井口資仁新監督に誘われてロッテへ移籍した。また1軍、2軍で7年間打撃コーチを務めていた藤井康雄打撃コーチも古巣のオリックスへ復帰している。

     契約切れや呼んでもらった監督の退任などによりユニホームを脱ぐことになった有能なコーチが他球団に拾われるケースは多々ある。だが、この移動が異例なのは、“引き抜き”或いは“移籍希望”をしてライバル球団に移った点にある。

     それだけに出て行かれた側の心境は複雑なようで、先日、行われたセ・リーグ全監督による「ファンミーティング」では、この点を質問された広島の緒方孝市監督が「頼りになるコーチでした」と、思わず憮然とする場面もあった。
     
     それはそうだろう。コーチ流出イコール、チームのノウハウや秘密を持ち出され、しかも、相手にデータだけでは見えない自チームの弱点を丸裸にされることになるのだ。

     ID野球の元祖、野村克也氏は、監督時代に、選手のトレードやコーチの移動があると、これまで敵として対戦していて疑問に思っていたことをすべて聞き出していた。

    「誰が何をどう教えているか」から始まり、もちろん、チームの最高機密である“サイン”や、その種類についても聞き出した。例えば、右打ちのサインひとつにしても、どういうタイミングで、どういうチーム方針で出されているかを知るだけで、相手監督の考えに触れることができ、ベンチ同士が作戦を読み合うような場面では多いに参考となる。

     野球は心理戦である。相手ベンチに「すべてを知られている」と思わせるだけで嫌なものだろう。近年は、トラックマンシステムが導入されるなど、データの利用方法も変化してきているが、やはり人と人がやる競技である。人と共に流出する情報も影響力は少なくない。

     ただ、今回の場合、ライバル球団からコーチを誘った側が目的としたのは情報の入手といった小さなものではなく、その強いチーム、優秀な選手を作り上げてきた指導力だ。


    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180329-00000001-wordleafs-base

    <ニッカンスポーツ・コム/We Love Baseball>

     西武の新人合同自主トレを見ていたら、バットを持った紳士が話し掛けてきた。「寒いのに、ご苦労さん」。2軍投手コーチから育成担当に転身した清川栄治さん(56)だった。メットライフドームの天井に積もった雪が崩れ落ちる音と、ノック音が交じり合う。新人たちの息は白い。一緒に眺めながら話を聞いた。「現役平均は7年ぐらい。5年もしたら、半分はいない。今は、みんな希望に満ちてるけどね。だんだん、苦しいことばかりになるんだよ」。口調は穏やかだが、現実を厳しく指摘してくれた。「だから、どれだけ早く『自分は、これだ』というものを見つけられるか、だね」。


     清川さんは83年ドラフト外で広島入り。先発ローテの希望に燃えたが、1軍の声は掛からない。やっと掛かったら、打撃投手としてだった。2軍の若手が手伝うのが当たり前の時代。毎日120球を投げた。「練習時間がない。早めに球場で走るしかなかった」。危機感が募った。それでも、わざと危ない球を投げ打撃投手をお払い箱になる同僚もいる中、真面目に打たれ続けた。「古葉監督のご褒美だったのかな」。広島が優勝を決めた後、消化試合の巨人戦に呼ばれた。2回1失点のデビューだった。

     オフに考えた。80年代の広島は投手王国。生き残るために「見た目を変えよう」。秋季キャンプでオーバーからサイドにした。コーチには黙っていた。「肘が下がってるぞ」と言われたら上手に戻し、コーチが去ったらまた横手にした。ある日、古葉監督がブルペンに現れた。思い切り腕を下げた。ちらっと見てくれた。そこから、だった。

     自分の「これ」を見つけた清川さんは、希少なサイドスロー左腕という立場を確立する。98年に引退するまで、広島、近鉄で実働15年、438試合全てリリーフ。入団時の青写真とは違った。だが、頂に至る道は1つじゃない。横にそれたり、裏から回ったり、いったん下がってから上がったり。「与太話でした。まあ、新人の子の参考になればね」。眼鏡の奥の瞳は優しかった。【西武担当 古川真弥】


    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180125-00108622-nksports-base

     ヤクルトは9日、今季限りで広島を退団した石井琢朗打撃コーチと河田雄祐外野守備走塁コーチの就任を発表した。ともに、広島をリーグ連覇へと導いた存在だ。石井コーチは、現役時代を含め広島に9年在籍。16年からは打撃コーチとなり、セ界最強打線をつくりあげた。



     石井コーチが選手を教える立場となり、信念としたのが「型にはめない」という考え方だった。「自分の持っている理論を披露するのが、コーチではないと思っている。それこそ、おしつけになってしまう。どちらかというと僕の引き出しを全部開けて、選手に持って行かせる、選ばせるという感じだった」

     現役時代、自らが積み上げてきた技術や理論が、それぞれのコーチにはあるはずだ。石井コーチにも、もちろんある。だが、教えるのは過去の自分ではなく、まして年齢やタイプが異なる選手たちだ。だからこそ、その選手に合った指導を心掛けてきたという。

     その引き出しは多岐にわたる。打撃コーチ就任直後の練習では、文字を書いた球でティー打撃を行うことで動体視力を養った。

     原点は自ら歩んできた道にある。ドラフト外で投手として大洋(現DeNA)に入団。1年目でプロ初勝利を挙げたものの、4年目から野手に転向した。「たくさんのことを監督、コーチに教えてもらった。0からのスタートだったから何でも吸収した。野手で入っていたら、それなりの先入観とか今までやってきたものあって、それが邪魔をして入ってこないことがあったかもしれない」

     石井コーチのDNAは、東出打撃コーチと迎打撃コーチに継承されている。秋季キャンプでは、フリー打撃を行う打者に、専門職のバッティングピッチャーではなく、野手が打撃投手を務めるメニューが加わった。専門でない人が投げることで、球筋は適度に荒れ、緊張感が保たれる。東出コーチは「試合ではエンドランのサインが出る。どんな相手でも絶対に振って当てないといけない。そういう力を磨いていければいい」と狙いを説明した。練習に飽きさせず、これまでと違った視点を持つことで、得るものはある。工夫をこらして、選手の成長を促している。(デイリースポーツ・市尻達拡)
    引用元 https://www.daily.co.jp/opinion-d/2017/11/12/0010723890.shtml

     【あの秋~日本シリーズ回想~(2)】 40年近くが経過した今も多くの球界関係者、ファンの間で語り継がれるシリーズ史上最高の名場面がいわゆる「江夏の21球」だ。1979年11月4日、舞台は大阪球場。ともに初の日本一を目指す両チームの第7戦は4―3と広島1点リードで9回裏。7回途中から登板した守護神の江夏豊は、デーゲームなれど朝6時まで麻雀に興じていたため、睡眠は取っていなかった。



     先頭の羽田耕一に中前打を許すと守備のミスもあり無死満塁の大ピンチ。佐々木恭介を三振に仕留めて1死後、打席に石渡茂が入った。強攻策、エンドラン、スクイズ…。いくつかの策が考えられる中、江夏は「絶対にスクイズ。何球目に来るか」を見極める駆け引きに入った。

     敵将・西本幸雄の動きを読む。三塁コーチの仰木彬に視線を向けると、いつもならほほ笑み返す仰木が顔をそらせた。正対する一塁走者の平野光泰はニヤリと笑った。左腕の江夏は三塁走者が見えないが、スクイズなら同時にスタートを切る一塁走者の動きは視界に入る。平野のほほ笑みを「スクイズのサインが出ても自分は動かない」という暗黙の合図、と江夏は読んだ。

     一方で自軍ベンチとの葛藤もあった。若手の池谷公二郎、北別府学にベンチ横でのウオーミングアップを指示した指揮官・古葉竹識への不信感。「大阪球場にはベンチ裏にもブルペンがある。なぜ、俺の目に入るところでこれ見よがしに」

     1ストライクから運命の1球。投球動作に入った江夏は石渡のわずかな動きを看破したが、握りはカーブ。ウエストは直球がセオリーで、カーブだと大暴投になりかねないリスクをはらんでいた。江夏いわく「神業」の1球は大きな弧を描くと、石渡のバットは空を切った。三塁走者の藤瀬史朗は挟殺。石渡も三振に仕留めて江夏の21球は完結。日本一に輝いた。

     時空を超えて聞いてみた。

     あなたにとってあの21球は何だったのか――。

     やや間を置いて江夏は答えた。「自分がつくったとはいえ、ああいう難しい場面はそうそうあるものではない。いい経験をさせてもらった。もう一度投げても抑える自信はない」。淡々と振り返りながら、最後に語気を強めた。「最近の人は分からないかもしれないが、駆け引きは当然のこと。そうでなければ俺のような、へなちょこ球で抑えられるわけがない」――。=敬称略=(宮内正英編集主幹)

     ◆1979年日本シリーズ 第1戦は5―2、第2戦は4―0で、近鉄が本拠・大阪球場で連勝。地元に戻った広島は第3戦を3―2で制すと第4戦は5―3、第5戦も山根が1―0で完封と3連勝で王手をかけた。大阪に舞台を移した第6戦は近鉄が6―2で勝ち逆王手。第7戦は広島1点リードの7回途中から江夏が3番手で登板。9回無死満塁のピンチをしのいで、広島が球団創設初の日本一に輝いた。
    引用元 http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2017/10/25/kiji/20171024s00001173251000c.html

     ◇セ・リーグ 広島3―2阪神(2017年9月18日 甲子園)

     広島のリーグ連覇は1979、80年以来、37年ぶりだ。当時、守護神として連覇に貢献した江夏豊氏(69=野球評論家)が当時を振り返った。(聞き手・内田 雅也)

     18年間のプロ野球生活で広島にいた3年間が最も幸せな楽しい時期だった。80年は開幕前から「勝てる」感覚があった。79年に優勝して適材適所で人材がいた。決して層が厚いわけではなかったが、監督の古葉さん(古葉竹識氏)が「この場面ではこの選手」という用兵を把握していた。

     レギュラーをつくるのは比較的簡単だ。問題は代打、代走、守備要員、投手なら中継ぎ、リリーフをいかにつくり、うまく起用していくかにある。その点、今の緒方監督も選手の特長を生かしてやりくりしている。センターラインの1、2、3番を固めた。15年の就任後、実績のなかった中崎を抜てきするなど今の継投の形をつくった。しぶといチーム。連覇もうなずける。

     南海時代の77年に野村克也監督から「革命を起こそう」と言われ、リリーフ専門となった。79年は広島に移って2年目。春にサチ(衣笠祥雄氏)が「おい、今年は優勝するぞ」と言った。「ウチの穴をおまえが埋めてくれたからな」との言葉はうれしかったが、半信半疑だった。何しろ自分は優勝を知らない。阪神で73年に巨人と最終戦まで優勝争いを演じたが、当時のカープはまた雰囲気が違った。チーム一丸というのかな。自分もその空気に乗せられていった。

     カープでは首脳陣が選手と同じレベルで悩んでくれたり、相談に乗ってくれた。キャンプ地の日南は昼間は喫茶店、夜はスナックになる店があってね。首脳陣と一緒にわいわいやった。恐らく今のカープもそんな雰囲気じゃないのかな。家族と言えば親子だが、首脳陣とも兄弟という間柄のような関係にある。それもまた強みかもしれん。(談)

     ◆江夏 豊(えなつ・ゆたか)1948年(昭23)5月15日、奈良県生まれ。大阪学院高から66年1次ドラフト1位で阪神入り。68年、プロ野球新記録のシーズン401奪三振。73年にはノーヒットノーラン達成。76年に南海へ移籍し抑え投手に転向。78年に広島へ移り、2連覇に貢献した。81年に移籍した日本ハムでも優勝。84年西武で現役引退した。通算206勝158敗193セーブ、防御率2・49。

     ▽広島の前回連覇 1975年の初優勝から4年、79年は7人が規定打席に到達する盤石のレギュラー陣で優勝した。高橋慶彦が初の盗塁王、山本浩二が初の打点王。投手陣は南海から移籍2年目の江夏豊が9勝22セーブで初のMVPと最優秀救援に輝き、北別府学が17勝を挙げた。近鉄との日本シリーズを制し初の日本一。第7戦のラストは9回無死満塁をしのぐ「江夏の21球」だった。

     翌80年はマジック2で迎えた10月17日に阪神とのデーゲームに勝ち、新幹線で大阪から広島へ移動中に2位・ヤクルトが敗れて連覇を決めた。山本が本塁打、打点の2冠王でMVP。江夏が9勝21セーブで2年連続の最優秀救援を獲得した。
    引用元 https://news.infoseek.co.jp/article/sponichin_20170919_0075/

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