広島カープブログ

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    小林幹英

     8月19日に行われた横浜DeNA対広島18回戦、今季40試合目の登板となった広島の中継ぎ・アドゥワ誠投手(19)に対し、野球解説者の小田幸平氏が体を気遣う場面があった。

     この日の試合は9対7で横浜DeNAの追い上げをかわした広島が勝利し、マジックを「28」とした。アドゥワの出番が訪れたのは7対2でリードしている5回だった。

     広島2番手・今村をリリーフする形で40試合目のマウンドに上がったアドゥワは、2イニングを投げ無失点。ランナーは出したものの要所を締めて4勝目を手にした。試合後にヒーローインタビューに応じたアドゥワは6回のピンチを振り返り「キクさんのファインプレーに助けられた。残り試合はまだあるので、1戦1戦しっかりと戦っていきたい」と答えた。

     この試合を終えて防御率は2点台(2.96)となり、優勝を目指すチームの貴重な中継ぎとして期待されるアドゥワの今後について、AbemaTVで解説を務めていた小田幸平氏は「体のケアが十分にできているか心配」と言及すると、自身の経験を踏まえて次のように述べた。

     「彼はまだ19歳。自分は21歳で社会人から巨人に入りましたけど、マッサージしてもらいたいなと思っても先輩方がいて、ビタミン剤を飲むふりだけして部屋を出たことも多々ありました。ビタミン剤が欲しいわけではなかったんですが(笑)。桑田さんら先輩がいるのに、自分が、というわけにはいかなかった。19歳で40試合も投げているんで、ちょっと心配になりますね」と、将来有望な若鯉のコンディションを気遣った。

     2年目のアドゥワは今季開幕から1軍で中継ぎを任されている。4月26日の横浜DeNA戦でプロ初ホールドを記録し、この時の「19歳6ヶ月」は球団最年少記録となっている。ナイジェリア出身の父と日本人の母の間に生まれ、母は元バレーボール選手。アドゥワ自身も196cmと恵まれた体格を受け継いでいる。


    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180820-00010006-abema-base

    <ニッカンスポーツ・コム/プロ野球番記者コラム>

     広島のオスカル、飯田の両左腕が、サイドスローに転向。ワンポイントを目指している。ふと気になり、広島最後の「左殺し」に話を聞いた。現在は広報の河内貴哉氏(35)だ。08年に左肩関節唇と腱板(けんばん)部の再建手術を受けた。大けがから奇跡的に復活。13年には左キラーとして34試合に登板した。


     軽い気持ちで聞きに行ったが「僕は野球選手じゃなかったから」と衝撃的な言葉が返ってきた。今も左肩は上がらず、拳をつくっても小指と薬指は完全には曲がらない。痛みが少なく、投げられる場所。それが横手だった。「そうするしかなかった。1球でも1軍で投げたかったから」。優しい顔で肩をさする。

     とにかく生き残ろうと必死だった。「1人じゃなかったから」。育成選手時代に結婚。コーチ、トレーナー、スタッフにも支えられた。理想追求をやめ、左打者が嫌がることをやり続けた。目線を合わせながら投げたり、直球でも縫い目に掛けずに投げた。先の2人とは経緯も違えば助言する立場でもない。ただ最後は「僕が右腕だったらとっくにクビ。チャンスは広がると思うから頑張ってほしいですね」と心底からのエールを送った。【広島担当=池本泰尚】
    引用元 https://www.nikkansports.com/baseball/column/bankisha/news/201711130000538.html

     少し、心が安芸から離れた。黒田博樹の引退セレモニーを見て鼻がツンとなった。20年前の、まだ自信なさげだった背番号15の残像が浮かんで、思わずこみあげてしまった。

     黒田のルーキーイヤーに転勤で広島に赴任し、若かりしころの彼を追った。同年はドラフト1位の沢崎俊和(現広島2軍投手コーチ)が12勝を挙げ新人王に輝き、ドラ2の右腕は完全に脇役。6勝9敗で1年目を終え、大卒新人2人の明暗ははっきりと分かれた。

     カープは翌97年のドラフトで黒田の専修大の1年先輩、プリンスホテルの小林幹英(現広島1軍投手コーチ)を4位で指名。小林は1年目から抑えとして18セーブを挙げるなど活躍し、2年目わずか1勝に終わった黒田の存在は同門で比較されても、かすんでいた。

     そんな彼が2年目を終えた11月、日南秋季キャンプの1シーンを思い出す。黒田は天福球場の山あいを高橋英樹(現広島打撃投手)とともにトレーニングで駆けていた。インターバルで坂路ダッシュを繰り返していると、よちよち歩きの男の子が…。年齢を聞けば「2ちゃい」という。お母さんは地元の人だけど、カープのことはよく知らない。黒田は男の子の赤いほっぺをさすりながら言った。

     「おにいちゃん頑張るわ。君が大人になるころには、ちょっとは有名になっておくからな」

     冗談っぽく、笑いながら、そして記念撮影。そばで聞いてほほ笑ましかったので、あのときの言葉はよく覚えている。か細い24歳が将来ヤンキースで活躍し、日米200勝を挙げるなんて、当時カープの関係者は誰も想像できなかった。確かに執念や向上心はほとばしっていた。ただ、金本知憲や新井貴浩らカープの選手はほとんどそうだったから、黒田だけが特別だとは感じなかった。

     20代の黒田を取材して活躍を裏付けるものをひとつ挙げられたとすれば、それは彼の「礼」だったのかもしれない。プロ3年目で結果も出ていないのだから腰は低い。でも、だからというわけじゃなく、こちらが恐縮するほど、いつどんなときも礼儀正しかった。目を見てあいさつをし、相手に言葉足らずなことがあっても揚げ足をとらず、その立場を敬う。小、中、高、大学と野球を通じて礼儀を学んできたのだから、プロでできるのは当たり前?残念ながらそうではない。多くのプロ野球選手と接してきたが、若くしてこれをできるのは実は希少だ。安芸で泥にまみれる若虎に、ついつい黒田の残像を重ねてみる。

     カープファンは黒田が「大投手だから好き」なのではない。入団時から変わらない「礼」が伝わるから、彼が泣けばファンも泣く。日南でほっぺをさすられたあの子はもう成人。約束通り「ちょっとは有名」になった黒田との写真…今、宝物になっているに違いない。=敬称略=(阪神担当キャップ・吉田 風)


    引用元 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161107-00000042-dal-base

    【大下剛史の熱血球論】黒田で真っ先に思い出すのが、入団時に担当の苑田聡彦スカウト(現スカウト統括部長)が話していた言葉だ。「すぐに使えるのは沢崎、将来的には黒田」。実際に同期のドラフト1位・沢崎俊和(現二軍投手コーチ)は1年目に12勝8敗で新人王に輝いたのに対し、黒田は12勝を挙げるのに3年を擁した。

     私がヘッドコーチとして接したのは、入団3年目の1999年だった。それまでの2年間で黒田は7勝13敗と伸び悩んでいたが、実際にキャンプ―オープン戦と見て、苑田が「将来的には黒田」と言っていた意味が分かった。投手としての素材の良さはもちろん、エースに欠かせない向こう気の強さを感じたからだ。

     球団創設50周年でもあった99年の開幕はナゴヤドームでの中日戦で3連戦の先発はミンチー、菊地原、レイノソ。私の提案で黒田は阪神との本拠地開幕戦に回した。スタッフ会議では「黒田は中日戦のほうが…」の意見も出たが、私は「黒田はウチの将来のエース。やってもらわんといけん投手じゃけ」と反対意見を押し切った。

     結果的に中日には3連敗を喫した。しかし、黒田は旧広島市民球場で期待以上の好投を披露し、チームにシーズン初勝利をもたらした。エースとしての第一歩は、あの阪神戦だったのではないかと今でも思っている。

     黒田は多くの監督、さまざまな環境下でプレーする中で勉強を重ね、着実に成長していった。メジャーでも必要とあれば同僚に変化球の握り方を教わったとも聞く。家族とも離れ離れの生活で、体力的、精神的にもきついかもしれないが、広島だけでなく他球団の若手にもまだまだ経験や生きざまを背中で見せ続けてほしい。

     今回の偉業達成は、南海でお世話になった鶴岡一人監督の隣のお墓で眠る父の一博さんも喜んでいることだろう。クロ、よう頑張った、おめでとう。 (本紙専属評論家)


    引用元 http://www.tokyo-sports.co.jp/sports/baseball/570285/

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