広島カープブログ

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    山本浩二

    【名伯楽・内田順三「作る・育てる・生かす」】#27

     私のコーチ人生の「原点」といえる話だ。

     広島でコーチになって3年目。一軍打撃コーチ時代に初めて「私がつくった」といえる選手に出会った。1984年のドラフト2位で入団した正田耕三には、私の方が指導者として勉強させてもらった。

     この頃のカープは強かった。内野には高橋慶彦、山崎隆造、外野には山本浩二さん。ほぼ不動のメンバーで戦っていた。二塁のレギュラーを狙う正田から「どうしたらスタメンで試合に出られるようになりますか?」と聞かれた。入団当初は守備固め、代走要員という形が多く、先発出場は少なかった。右打席での打撃を見ると、逆方向には打てるがパワー不足。特徴もなかった。「足を生かすためにもスイッチヒッターになったら?」と挑戦を勧めた。

     古葉竹識監督に正田のスイッチ転向プランを伝えた。チーム内ではすでに高橋、山崎の2人が成功していることもあり、「バッティングを向上させるには、スイッチもいいんじゃないか。やらせてみたらいい」と了承された。本人には「バットを抱いて寝るぐらいじゃないと成功しないぞ」とハッパをかけ、左打ちの特訓が始まった。

     カープの寮と当時の私の自宅が近かったこともあり、毎朝9時に開始。マウンドから距離を半分にした所に立たせ、打撃マシンの“超速球”を打たせた。バットが遠回りすれば、まず当たらない。当てるには、どう構え、どう肘を使い、どの角度でバットを入れるのか。バットの軌道を考え、最短距離で出すことが目的だ。

     10日間くらいはバットにかすりもしない。それがチップをするようになった。目が慣れてくると、少しずつ前に飛ぶようになり、ついには芯に当たるようになった。朝の室内練習場で500~600球。こうして1シーズンのうちのほとんど毎日、顔を合わせて指導した。朝と夜、1日合計で1000球は打たせたと思う。

    ■常に二人三脚で練習

     その時点では、まだ誰にも見せていない。正田と私、2人だけの練習だった。遠征先の夜間練習で素振りをする際やグラウンドで練習する時は右打席のみ。モノになるか分からない左打者の練習は、“時間外”に量を振るということで、シーズンの初めから続けてきた。

     最も幸運だったのは、常に二人三脚でできたこと。普通、若手は何打席か打たなければすぐに二軍に落とされてしまう。しかし、正田には守備力と走力があった。レギュラーでなくても、守備、代走要員として一軍に居場所があった。一軍コーチだった私のマンツーマン指導が可能だったのだ。

     85年は2位でV逸。シーズン終盤、古葉監督は私に言った。

    「誰か若手を打席に立たせていいぞ」

    「正田に打たせます」

    「分かった」

     中日の速球派・小松辰雄との対戦が絶好の腕試しになると思った。さらに古葉監督に「正田を左で打たせてみます」と申告すると、驚いた表情でこう言った。

    「な、なんで左?」

     古葉監督は以前に言ったことをすっかり忘れていた。

    (内田順三/前巨人巡回打撃コーチ)



    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200229-00000013-nkgendai-base

    【名伯楽「作る・育てる・生かす」】#22

    「絶対に2000本を打たせたい」

     2002年のオフ、巨人から広島の一軍打撃コーチに復帰した私に、山本浩二監督が言った。

     チームリーダーの野村謙二郎のことだった。その時点で通算1763安打。2000安打まで残り237本としていたものの、36歳のベテランになって肉体的にも技術的にも難しい時期に差し掛かっていた。長いシーズン、一年を通じてレギュラーで出るのはもう難しい。要所で活躍できるような状態をキープさせることが、打撃コーチである私の仕事だった。

     山本監督は続けて、「2年で達成させたい」と言った。結局、03年は打率・274で85安打、04年は同・270で97安打。目標の2年間では達成できず、残り55本で05年シーズンを迎えた。

     先発出場の機会も減っていたが、山本監督は「シーズン前半だけはスタメンを多くしよう」との方針を打ち出した。野村は生え抜きの幹部候補生で、95年にトリプルスリーをマークするなどカープの功労者。その功績に報いてやりたいという監督の親心だった。

     そうして始まった、05年のある日の試合後のこと。帰宅して夕食を取っていると、インターホンが鳴った。出ると、野村が玄関先に立っている。何事かと思ったら、やおらバットを差し出し、「プレゼントします」。その日の試合で2000安打へマジック1とするヒットを放った際の“記念のバット”。そこには「1999本」「みんなに感謝」と記してあった。

     記録を達成すると記念品を作る。しかし、そういう人に配るためのバットではない。1999安打を放った実物を持ってきてくれた。粋なことをすると感激した。すでに最多安打と盗塁王を3度ずつ獲得している選手。駒大の後輩ではあるが、少しは後押しできたのかなとうれしく感じた。まさにバッティングコーチ冥利に尽きることだった。

    ■「左投手には牽制させろ」

     監督時代の野村は緻密な野球にこだわった。例えば左投手に牽制球を投げさせると、打者へ投げる際も開きが早くなる傾向がある。甘い球がきやすくなるのだから、一塁走者は意識してリードを取ること。牽制された際、何歩のリードなら戻れるのか。ヘッドスライディングでギリギリ戻れる場所はどこか。球界では「走塁が一番難しい」といわれるが、そういうことを選手に求めた。

     野球は点取りゲーム。走者が一、二塁止まりか。一、三塁にするのか。足が速い、遅いは関係ない。一つでも前の塁へ進塁する。少しでも点を取りやすい状況に持っていく。たとえ足が遅い新井貴浩でも、1本の安打で一塁から三塁へ進塁する意識を持っている。これがカープ野球の原点だ。野村監督の功績は他にもある。

    (内田順三/前巨人巡回打撃コーチ)



    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200208-00000007-nkgendai-base

     野球解説者の田淵幸一氏(73)が9日放送のTBS系「サンデーモーニング」(日曜前8・00)に生出演。7日に約10カ月ぶりに公の場に姿を見せ、がんで闘病していたことを告白した法大時代の同期・山本浩二氏(73)についてコメントした。

     山本氏は肺がんと膀胱がんを患い、昨年だけで計4度の全身麻酔を伴う大手術。田淵氏は18年に亡くなった盟友・星野仙一氏の名前も挙げ「昔からタバコやめろと言ってきたけど、星野と山本は絶対にやめなかった。(山本氏から)連絡ないなと思ったら肺がん。次は膀胱がん。昨年はひどい年だった」と話した。

     田淵氏によると、山本氏は闘病で20キロやせたという。番組MCの関口宏(76)が「これからいろんなことをやって元気になってもらえれば」とコメントすると、田淵氏も「これからは大丈夫だと思う」と“ミスター赤ヘル”の完全復活を願っていた。


    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200209-00000134-spnannex-base

     白血病のため入院中の元広島・北別府学さんが7日、自身のツイッターで巨人キャンプを訪れた山本浩二元監督について「山本浩二先輩の復活の報せ」と題してコメントした。山本元監督は昨年がんの手術を受けたことをこの日、公表していた。
     ツイッターによると、昨年名球会の会合で北別府さんが会ったときは、(病状が)あと一歩という感じだったそうで、「キャンプ視察が嬉しくてたまらないのでは」とつづった。


     また自身は7日から無菌室に入る予定だったが、このまま投薬治療などで経過観察することになったと報告。いまだに吐き気も脱毛もほぼないという。




    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200207-00010042-chuspo-base

     元広島監督で病気療養中だった野球評論家の山本浩二氏(73)が7日、巨人の宮崎キャンプを訪問。「ぼうこうがん」と「肺がん」を患っていたことを明かした。


     昨年4月、公の場から姿を消していた山本氏は「2つのがんにかかりまして、4回手術を」とそれぞれ2回ずつ手術したことを告白。続けて「別々で転移はしていなかったみたいです。4度の手術っていうのは珍しいらしくて、体力がないとできない」と振り返った。肺がんはステージが「2か3」だったとしたが、「ただ進行が早いんですぐやらなきゃいかん」と、判明後すぐに手術したという。

     手術は胆のうや気管支など「細かいのがいろいろあった」とし、1年間で7度も手術したという。痩せた様子だったが笑顔もみせ、「おかげさんでこうして元気で」とうなずいた。

     山本氏を襲ったぼうこうがんや肺がん、そして1年間で7度の手術という壮絶な闘病生活について、兵庫県芦屋市にある「松本クリニック」の松本浩彦院長に聞いた。

      ◇  ◇

     「ぼうこうがんの手術は表層型と浸潤型に分かれます。浸潤型は全摘する必要があり、キャスターの小倉智昭さんはこのタイプです。2度の手術をしたというのであれば、山本さんは表層型なのではないでしょうか。

     表層型はカメラを入れてがんを取るんですが、手術後は三カ月に1度くらいで検査をします。ただ、全部取っても繰り返し(がんが)出てくるのが特徴です。いわゆるモグラたたきのようで、出てきたら表層を削るということになります。表層型は、一生付き合わなければいけないと言えるでしょう。

     肺がんは膵臓がんに次いで怖いがん。2回手術したというのであれば一度目で取り切れなかったか、大きすぎて2度に分けたか、再発したか、ということが考えられます。

     他にも手術をしたということですが、がんの手術によりもろくなって気管支に穴が空くということは非常に考えられるケースではあります。

     いずれにしろ、7度の手術は体力がある山本浩二さんだからできたことではないでしょうか。野球殿堂入りをするような功績を残した方で、鍛え方が違う。70歳をこえているとはいえ、基礎体力がある。常人なら、2回の肺の手術は耐えられない。人並み外れた頑健な体があるからこそでしょう」




    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200207-00000133-dal-base

     広島・堂林翔太内野手(28)が新スタイルで復活を狙っている。23日に今年初めてマツダスタジアムで自主トレを行い打撃練習やランニングなどで汗を流した。20日には志願して実現した鈴木誠也外野手(25)らと行っていた宮崎・串間での合同自主トレを打ち上げたが、収穫は大きく「頭が突っ込む大きな欠点があったので(誠也に)いろんなことを聞いて自分に何が合うかを考えた。後輩だがすごく心強かった」と打撃フォームの改造に着手。打撃時に軸足となる右足に体重を残すことで“間”を作り、確率アップにつなげるという。

     体にも進化がある。「周りの人から『大きくなった』と言われるんですが、自分でもそう感じる。栄養士さんが用意してくれたおにぎりなどの間食をしっかり取っていたので」と自主トレ期間中は帯同した栄養士の指導のもと、異例ともいえる“もぐもぐタイム”の導入で巨大化に成功した。もともと体重が減りやすい体質で必死に練習をすればするほど、線が細くなるのが悩みの種だっただけに猛練習しながらの巨大化は大きな収穫だ。

     オフ恒例の鹿児島・最福寺での護摩行でも「まだ気持ちが前にいっていないと言われて…」と例年1日1回のところを3日間で5回敢行するなど並々ならぬ覚悟を持って11年目のシーズンに臨む堂林。「2月1日からアピールしないといけない立場なので」。捲土重来の一年としたいところだ。



    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200124-00000036-tospoweb-base

     法大OB会が18日、都内のホテルで開かれ、野球殿堂入りした田淵幸一氏(73)、侍ジャパンの稲葉篤紀監督(47)らが出席した。


     田淵氏は壇上で、同級生の山本浩二氏(73)の現状について「今朝電話で話して、4月から解説に復帰すると話していた」と説明。昨年は体調不良で療養していたが、同氏は「だいぶ良くなって、毎日30~40分散歩をしているそう」と、うれしそうに話した。

     山本氏と田淵氏は故・富田勝氏とともに「法大三羽がらす」と呼ばれた。現役引退後は2008年北京五輪では星野監督の下で2人そろってコーチを務めた。東京五輪では法大OBの稲葉監督が率いる侍ジャパンの金メダルが期待されるとあって、田淵氏は「北京は4位でいい思い出がないが、今年の五輪では、何十年たっても『あの時、稲葉は良くやった』と言われる結果を出してほしい」と後輩を激励していた。



    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200118-01180167-sph-base

     ◇田淵幸一氏 野球殿堂入りエキスパート表彰

     田淵氏の法大時代の同期で「三羽ガラス」として活躍し、北京五輪でともに星野監督をサポートした山本浩二氏(73)も、殿堂入りを喜んだ。

     山本氏が田淵氏と出会ったのは1964年、東京五輪が終わった直後の12月、兵庫県洲本市で行われた法大のセレクションだった。そこからチームメートとなって56年。東京五輪イヤーに田淵氏は殿堂入り。「ブチ、野球殿堂入りおめでとう。もっと早く入っても良かったと率直に思う。間違いなく天国の仙(星野仙一氏)も喜んでいるだろう。長い付き合いになった」と自分のことのように喜び、祝福した。

     法大で富田勝氏とともに「法大三羽ガラス」として、しのぎを削ったが、入学当初は違った。「春のリーグ戦が始まると神宮球場で切符切りしていた私たちを尻目にブチは1年春からベンチ入り。そんな姿はうらやましかったし、ブチへのライバル心は私の支えになった」と振り返る。投手として、65年6月4日に行われた新人戦の慶大戦(東大球場)で投手を務めた山本氏は人生で1試合だけ、田淵氏とバッテリーを組んだ。「なぜか真っすぐしか要求してこない。“何でや?”と文句を言うと“オヤジさん(松永怜一監督)から真っすぐしか投げさせるなと言われてるんだ”という。打たれて投手を諦めさせたかったらしい」。2年から山本氏は野手に転向。プロでは「ミスター赤ヘル」として通算536本塁打を放った。

     「2008年の北京五輪で星野仙一監督の下、ブチと私でコーチを務めたことは一生の宝物」と話す。悲願の金メダルには届かず4位に終わったが、東京六大学時代からの盟友と同じユニホームで日の丸をつけた戦いの記憶は鮮明に残る。

     「昨年、私が体調不良の間も気に掛けて何度も電話をしてくれた。ブチの姿を見ながら、野球界に少しでも恩返しできればと思っている」

     2人の絆は昭和、平成、そして令和の時代に入っても色あせることはない。 (倉橋 憲史)

     ◆山本 浩二(やまもと・こうじ)1946年(昭21)10月25日生まれ、広島県出身の73歳。廿日市―法大を経て、68年ドラフト1位で広島入団。MVPを2度、本塁打王を4度獲得するなど、強打の外野手として活躍。通算536本塁打は歴代4位。広島の監督を計10年務め、91年にリーグ優勝。08年北京五輪で日本代表守備走塁コーチを務め、同年、野球殿堂入り。13年の第3回WBCでは侍ジャパンの監督を務めた。現日本プロ野球名球会理事長。



    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200115-00000062-spnannex-base

     広島で万能選手として活躍した呉市出身の中東直己さん(38)は16年の引退後、広島を拠点に不動産業を営む「株式会社 大和興産」に勤務している。引退から今年で3年。現在の仕事内容や現役時代の思い出などを聞いた。



     広島市安佐南区の国道沿いにあるオフィスが中東さんの職場だ。「もう3年目になりました。あっという間ですね」。そう言って見せる笑顔は、現役当時と変わらない。

     戦力外通告を受けた後、迷った末に12球団合同のトライアウトに参加した。カープのユニホームを着るのは、この日が最後。スタンドから声援を送った家族の前で、打って走って守ってと全力でプレーした。「見てもらえて良かった」。他球団からの連絡はなく現役引退を決断。それでも夢舞台で駆け抜けた10年間に後悔はなかった。

     球団OBで元監督・山本浩二氏の紹介を経て入社した。現在は管理営業部に所属。主に安佐北区を担当し、オーナーが持つ不動産の資産運用、管理、保守、リフォーム提案、集金代行など、さまざまな業務に従事する。入社当初を振り返ると「パソコンもできなかったし苦労しました。大変な仕事だなと思いました」と苦笑いした。

     飛び込み営業ではインターホン前で門前払いされたこともある。それでも「人と話をするのは苦手じゃないので」。明るく前向きな性格が長所。小学校のPTA会長を務めるなど、仕事以外でも意欲的にチャレンジしている。

     「たくさんの人と話をして感じることは、本当にカープファンが多いということ。チームが負けたりすると、機嫌が悪い人もいます。だから広島の街にはすごい影響力があるんだって、改めて感じます。僕のことを知ってくださっている人もいて、本当にうれしいです」

     呉市出身。06年度の大学・社会人ドラフト5位でホンダ鈴鹿から入団した。思い出に残っている試合は、11年8月30日のヤクルト戦(神宮)だ。2-2の延長十回2死から栗原が二塁打で出塁し代走としてグラウンドへ。丸の打席の暴投で、二塁から一気に勝ち越しの本塁を奪った。

     「球が上に上がって。行けると思いました。初めてチームに貢献できたと思えた」。13年にはプロ初本塁打を放つなど1週間で3度のヒーローインタビューを受けたこともあるが、自分の武器を最大限に生かせたヤクルト戦が印象深いという。

     ファンを喜ばせることも“仕事”だった。雨天コールドになった試合では上本と一緒にAKBの「恋するフォーチュンクッキー」の曲に合わせて踊った。「最初はヨギさん(梵選手)に言われたのかな。むちゃぶりですよね。中止になりそうになると、そっちのことしか頭になくて」。スタメン出場するより緊張感があった。それでも声援を送ってくれる鯉党を喜ばせるために必死だった。

     不動産業は人と人をつなぐ仕事でもある。橋渡しをした人たちが笑顔になってくれるのが何よりも励みになっている。「野球をやっていたときも、いろいろな人に支えられ感謝しています。この仕事でも出会いを大切にしながら、頑張っていきたいです」。満面の笑みを浮かべながら言葉をつむいだ。

    (まいどなニュース/デイリースポーツ・市尻 達拡)

     ◆中東直己(なかひがし・なおき)1981年10月5日生まれ、38歳。広島県呉市出身。現役時代は右投げ左打ちの外野手。背番号00。広島工から東亜大、JR西日本、ホンダ鈴鹿を経て2006年度大学・社会人ドラフト5位で広島入団。プロ1年目の07年4月14日・中日戦(広島)で初出場(代打)。同年のフレッシュオールスターでMVPを獲得。16年に戦力外通告を受け引退。通算成績は315試合71安打2本塁打16打点19盗塁、打率・233。



    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20191106-11001597-maidonans-life

     「プロ野球ドラフト会議」(17日、グランドプリンスホテル新高輪)

     広島・佐々岡新監督がドラフト会場のホテルに入った。前日16日に明大・森下をドラフト1位で指名すると公言。競合が予想され、くじ引きとなれば佐々岡監督の出番だ。現在は「結構な緊張よ」と心境を明かした。

     2種類用意していた勝負パンツからお気に入りをチョイス。「色まで言わんよ」と笑ったが、「さっき履き替えた」と明かした。


    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20191017-00000067-dal-base

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