岩本貴裕
【広島カープ】西川が左腕対策練習で快音
広島の西川龍馬内野手(25)が18日、左腕対策の練習を精力的に行った。
午前中、マツダスタジアムに隣接する室内練習場でフリー打撃のローテーションを終えると、左投げの岩本スコアラーに打撃投手を務めてもらい、チームメートの高橋大樹と交代で快音を響かせた。 最後の球を打つ前には「ラスト、ピッチャー・今永(DeNA)、内野前、外野前」と試合状況を具体的に想定した上でスイング。自慢の打撃に、さらなる磨きを掛けていく。

引用元 https://news.yahoo.co.jp/articles/4eef715e861766543010fccbc252be44aec0f0e9
午前中、マツダスタジアムに隣接する室内練習場でフリー打撃のローテーションを終えると、左投げの岩本スコアラーに打撃投手を務めてもらい、チームメートの高橋大樹と交代で快音を響かせた。 最後の球を打つ前には「ラスト、ピッチャー・今永(DeNA)、内野前、外野前」と試合状況を具体的に想定した上でスイング。自慢の打撃に、さらなる磨きを掛けていく。

引用元 https://news.yahoo.co.jp/articles/4eef715e861766543010fccbc252be44aec0f0e9
【広島カープ】内田氏が語る「未完の大器」のまま引退した3選手
華々しいプロ野球の世界。一方で類いまれな才能を持ちながら、大輪の花を開かせることができず去っていく選手も少なくない。広島、巨人で数多くの強打者を育てた名伯楽・内田順三氏(前巨人巡回打撃コーチ)に、「未完の大器」のまま引退した選手を挙げてもらった。
◇ ◇
カープでは岩本貴裕の名前が浮かぶ。08年ドラフト1位で入団した左の長距離砲。当時、私は打撃統括として指導していたが、外国人も含めてチームにはパワーヒッターが不在で、松田元オーナーから「岩本を見てくれ」と言われていた。
逆方向にも長打が打てるし、非常に魅力のある選手だった。2年目には14本塁打。ただ、小器用だったことが、彼にとっては逆にマイナスに働いた。三振を怖がらずにやらせれば良かったが、性格がまじめで、少し悪いと打撃フォームを変えてしまう。苦手なインコースを攻められ、かかと体重になってしまうことで、外角を逆方向に打つ長所までぼやけてしまった。
昨年引退し、スコアラーに転身。膝の故障も伸び悩んだ一因だと思うが、大成してもおかしくない、紙一重の選手だった。
カープでは斉藤浩行も惜しい選手だった。81年に東京ガスからドラフト2位で入団。私は83年からコーチとなったが、斉藤は右の長距離砲で、「ポスト山本浩二」として注目されていたことを覚えている。
ルーキーイヤーに4本塁打。だが、飛躍が期待された2年目のキャンプでイレギュラーした打球を右目に受け、視力が低下してしまった。以来、ファームのデーゲームでは本当に良く打つが、1軍のナイターでは活躍できない。ファーム通算161本塁打は今も破られていない記録だが、1軍では11年間で16本塁打。中日や日本ハムにも移籍したが、目立った活躍ができなかった。
メンタルの部分に弱点があったのかもしれないが、当時はけがのせいで「鳥目なんじゃないか」とも言われていた。視力などに問題があれば今ならいろいろと対処できることもあるが、当時はそういうこともなかった。「あのけがさえなければ…」という選手はいるものだが、斉藤は特にそう思う選手だった。
ファームでは敵なしという選手では、巨人の大森剛も同じだった。89年のドラフト1位、慶大から鳴り物入りで入団。だが、巨人の一塁手は外国人やFAで次々と選手が加入してくる。きっかけをつかむチャンスが少なかった。
ぶざまな三振をすればすぐに2軍落ち。ファームでは不動の4番でも、心理的に余裕がなかったと思う。技術うんぬんではなく、メンタルが原因で壁に当たる選手もいる。近鉄に移籍して活躍した吉岡雄二、日本ハムで花開した大田泰示も巨人時代は同じような心理状態だったのではないか。
才能ある選手でも、監督の起用法やチーム事情で埋もれてしまう可能性があるのもプロの世界。長い指導者人生では、「あの時、何かできなかったか」と悔やむケースがあることも事実である。

引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200424-00000078-dal-base
◇ ◇
カープでは岩本貴裕の名前が浮かぶ。08年ドラフト1位で入団した左の長距離砲。当時、私は打撃統括として指導していたが、外国人も含めてチームにはパワーヒッターが不在で、松田元オーナーから「岩本を見てくれ」と言われていた。
逆方向にも長打が打てるし、非常に魅力のある選手だった。2年目には14本塁打。ただ、小器用だったことが、彼にとっては逆にマイナスに働いた。三振を怖がらずにやらせれば良かったが、性格がまじめで、少し悪いと打撃フォームを変えてしまう。苦手なインコースを攻められ、かかと体重になってしまうことで、外角を逆方向に打つ長所までぼやけてしまった。
昨年引退し、スコアラーに転身。膝の故障も伸び悩んだ一因だと思うが、大成してもおかしくない、紙一重の選手だった。
カープでは斉藤浩行も惜しい選手だった。81年に東京ガスからドラフト2位で入団。私は83年からコーチとなったが、斉藤は右の長距離砲で、「ポスト山本浩二」として注目されていたことを覚えている。
ルーキーイヤーに4本塁打。だが、飛躍が期待された2年目のキャンプでイレギュラーした打球を右目に受け、視力が低下してしまった。以来、ファームのデーゲームでは本当に良く打つが、1軍のナイターでは活躍できない。ファーム通算161本塁打は今も破られていない記録だが、1軍では11年間で16本塁打。中日や日本ハムにも移籍したが、目立った活躍ができなかった。
メンタルの部分に弱点があったのかもしれないが、当時はけがのせいで「鳥目なんじゃないか」とも言われていた。視力などに問題があれば今ならいろいろと対処できることもあるが、当時はそういうこともなかった。「あのけがさえなければ…」という選手はいるものだが、斉藤は特にそう思う選手だった。
ファームでは敵なしという選手では、巨人の大森剛も同じだった。89年のドラフト1位、慶大から鳴り物入りで入団。だが、巨人の一塁手は外国人やFAで次々と選手が加入してくる。きっかけをつかむチャンスが少なかった。
ぶざまな三振をすればすぐに2軍落ち。ファームでは不動の4番でも、心理的に余裕がなかったと思う。技術うんぬんではなく、メンタルが原因で壁に当たる選手もいる。近鉄に移籍して活躍した吉岡雄二、日本ハムで花開した大田泰示も巨人時代は同じような心理状態だったのではないか。
才能ある選手でも、監督の起用法やチーム事情で埋もれてしまう可能性があるのもプロの世界。長い指導者人生では、「あの時、何かできなかったか」と悔やむケースがあることも事実である。

引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200424-00000078-dal-base
【広島カープ】内田コーチが育てきれなかったと後悔した元プロ野球選手
【名伯楽・内田順三「作る・育てる・生かす」】#39
私が「名伯楽」などと言ってもらえるのも、携わった選手がうまく育ってくれたおかげ。しかし、全員が思い描いたような結果が残せたわけでは、もちろんない。
名球会に入るような超一流選手にも劣らない才能があったと思う男がいる。
パワーヒッターでありながら、逆方向にも長打が打てる柔軟性も併せ持っていた。だが、大成しなかった。残念でならないのが、昨季限りで現役を引退した広島の岩本貴裕である。
広島商では高校通算52本塁打。亜大でも東都大学リーグ歴代4位の通算16本塁打を放った。2008年のドラフト1位で広島に入団。1991年の町田公二郎以来となる大卒野手の1位で、金本知憲の背番号10を引き継いだ。
地元出身の左の和製大砲への期待の大きさは、新球場のフェンスの高さにも表れた。ちょうど入団1年目の09年に開場予定だったマツダスタジアムの左翼ポール際のフェンスは当初、7メートルの「グリーンモンスター」にする計画だったと聞く。それが、左打ちでも左翼方向への長打が持ち味だった岩本を獲得することが決まり、右翼と同じ3・6メートルに急きょ変更した経緯があるそうだ。
打撃統括コーチだった私は、松田元オーナーから直接「岩本を見てやってくれ」と頼まれていた。1年目から二軍のほぼ全試合に4番で起用。最終的に二軍ではリーグ2位となる14本塁打を放った。これは二軍にいる選手ではない――。そう感じた。何とか一軍に行かせようと、私も周囲も躍起になった。しかし、インコースが苦手という弱点が、はっきりしていた。
10年からは一軍で出場機会がもらえるようになり、ノーステップ打法で14本塁打。大器の片鱗を見せ始めたが、11年に膝を故障し、レギュラー定着の機会を失った。苦手なインコースを意識するあまり、どうしてもかかと体重になってしまう。開きが早く、ボールの見切りも早いから変化球に対応ができない。ボール球に手を出すという悪循環だった。さらにアウトコースを逆方向に飛ばすという長所にも影響が出始めた。
1打席限定の代打向きではなかっただけに、レギュラーをつかめない選手は出番を失う。緒方孝市監督が就任した15年からは出場機会が激減した。
■足りなかった「再現性」
間違いなく才能はあった。しかし、それとは別にプロで活躍するための「再現性」が欠如していた。好調を維持する持続力がなかったのだ。
チャンスをもらった時、重圧をはねのけ、自分の持てる力を発揮できるか。首脳陣からの期待に応えられるか。考え込んでしまうマジメな性格も災いした。紙一重、あと一歩だった。育て切れず、申し訳なかった。
今年から広島のスコアラーとして第二の人生を踏み出している。野球を勉強して球団に恩返しして欲しい。
次回は自分のことを振り返りたい。
(内田順三/前巨人巡回打撃コーチ)

引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200324-00000007-nkgendai-base
私が「名伯楽」などと言ってもらえるのも、携わった選手がうまく育ってくれたおかげ。しかし、全員が思い描いたような結果が残せたわけでは、もちろんない。
名球会に入るような超一流選手にも劣らない才能があったと思う男がいる。
パワーヒッターでありながら、逆方向にも長打が打てる柔軟性も併せ持っていた。だが、大成しなかった。残念でならないのが、昨季限りで現役を引退した広島の岩本貴裕である。
広島商では高校通算52本塁打。亜大でも東都大学リーグ歴代4位の通算16本塁打を放った。2008年のドラフト1位で広島に入団。1991年の町田公二郎以来となる大卒野手の1位で、金本知憲の背番号10を引き継いだ。
地元出身の左の和製大砲への期待の大きさは、新球場のフェンスの高さにも表れた。ちょうど入団1年目の09年に開場予定だったマツダスタジアムの左翼ポール際のフェンスは当初、7メートルの「グリーンモンスター」にする計画だったと聞く。それが、左打ちでも左翼方向への長打が持ち味だった岩本を獲得することが決まり、右翼と同じ3・6メートルに急きょ変更した経緯があるそうだ。
打撃統括コーチだった私は、松田元オーナーから直接「岩本を見てやってくれ」と頼まれていた。1年目から二軍のほぼ全試合に4番で起用。最終的に二軍ではリーグ2位となる14本塁打を放った。これは二軍にいる選手ではない――。そう感じた。何とか一軍に行かせようと、私も周囲も躍起になった。しかし、インコースが苦手という弱点が、はっきりしていた。
10年からは一軍で出場機会がもらえるようになり、ノーステップ打法で14本塁打。大器の片鱗を見せ始めたが、11年に膝を故障し、レギュラー定着の機会を失った。苦手なインコースを意識するあまり、どうしてもかかと体重になってしまう。開きが早く、ボールの見切りも早いから変化球に対応ができない。ボール球に手を出すという悪循環だった。さらにアウトコースを逆方向に飛ばすという長所にも影響が出始めた。
1打席限定の代打向きではなかっただけに、レギュラーをつかめない選手は出番を失う。緒方孝市監督が就任した15年からは出場機会が激減した。
■足りなかった「再現性」
間違いなく才能はあった。しかし、それとは別にプロで活躍するための「再現性」が欠如していた。好調を維持する持続力がなかったのだ。
チャンスをもらった時、重圧をはねのけ、自分の持てる力を発揮できるか。首脳陣からの期待に応えられるか。考え込んでしまうマジメな性格も災いした。紙一重、あと一歩だった。育て切れず、申し訳なかった。
今年から広島のスコアラーとして第二の人生を踏み出している。野球を勉強して球団に恩返しして欲しい。
次回は自分のことを振り返りたい。
(内田順三/前巨人巡回打撃コーチ)

引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200324-00000007-nkgendai-base
【広島カープ】引退した庄司、重要なポストに就くことに
広島が苦手の交流戦を克服するため、新たにパ・リーグ担当スコアラーを設けることが16日、分かった。今季限りで現役引退した庄司隼人氏(28)が同職に就く。今季の交流戦は5勝12敗1分けと大苦戦。4年ぶりBクラス転落の要因となっただけに、来季は新ポスト設置で、鬼門の交流戦を突破する。
来季のV奪回へカープがスコアラー改革に乗り出した。苦手の交流戦を乗り越えるために、パ・リーグ担当スコアラー常設が決定。新ポストに今季限りで現役引退した庄司氏が就き、来年2月の春季キャンプからパ・リーグ6球団を密着マークする。
今季は交流戦で5勝12敗1分けと大失速。最下位に沈み、V逸の大きな要因となった。リーグ3連覇した過去3年を振り返ると、16年は11勝6敗1分け、17年は12勝6敗、18年は7勝11敗。交流戦の成績がペナントレースの鍵を握るだけに奥チーフスコアラーの言葉も熱を帯びた。
「交流戦に大きく負け越していない時はAクラスの成績だった。あそこの成績が大きなウエートを占める。庄司に回ってもらって、今までのやり方を変えないといけない」
これまではセ・リーグ担当スコアラーがパ・リーグを掛け持ち。対戦1週間前に先乗りして情報収集していたが、キャンプから視察することでよりチームの情報や選手の特徴を把握することができる。データも蓄積され、大きなメリットが生まれる。
同じく今季限りで現役を退いた飯田哲矢氏は3軍ラプソード担当のスコアラーに就任。2人増となるスコアラー9人体制で3年ぶりに交流戦を勝ち越し、V奪回へ勢いを生む。

引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20191217-00000028-dal-base
来季のV奪回へカープがスコアラー改革に乗り出した。苦手の交流戦を乗り越えるために、パ・リーグ担当スコアラー常設が決定。新ポストに今季限りで現役引退した庄司氏が就き、来年2月の春季キャンプからパ・リーグ6球団を密着マークする。
今季は交流戦で5勝12敗1分けと大失速。最下位に沈み、V逸の大きな要因となった。リーグ3連覇した過去3年を振り返ると、16年は11勝6敗1分け、17年は12勝6敗、18年は7勝11敗。交流戦の成績がペナントレースの鍵を握るだけに奥チーフスコアラーの言葉も熱を帯びた。
「交流戦に大きく負け越していない時はAクラスの成績だった。あそこの成績が大きなウエートを占める。庄司に回ってもらって、今までのやり方を変えないといけない」
これまではセ・リーグ担当スコアラーがパ・リーグを掛け持ち。対戦1週間前に先乗りして情報収集していたが、キャンプから視察することでよりチームの情報や選手の特徴を把握することができる。データも蓄積され、大きなメリットが生まれる。
同じく今季限りで現役を退いた飯田哲矢氏は3軍ラプソード担当のスコアラーに就任。2人増となるスコアラー9人体制で3年ぶりに交流戦を勝ち越し、V奪回へ勢いを生む。

引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20191217-00000028-dal-base
【広島カープ】さよなら。でも・・・ファンに愛された岩本のこれから
<さよならプロ野球(5):広島岩本貴裕外野手>
今年も多くの選手たちがプロの世界を去った。第2の人生へ踏み出す彼らを特集する「さよならプロ野球」を、全12回でお届けする。
◇ ◇ ◇
地元広島から“ガンちゃん”と親しまれた岩本貴裕外野手(33)が、赤いユニホームを脱ぐ。プロ11年で最少の1打席に終わった今年のオフ、戦力外を通告されて現役引退を決意した。だが、来季契約を結ばないと言われたときも岩本は笑顔だった。
「これが僕の人生。暗い顔をしてもしょうがない。若いころ、もっと練習しておけば良かった。もっと早く気づけば良かったな」
和製大砲と期待された。広島で生まれ育ち、広島商から亜大を経て、08年ドラフト1位で入団。10年にノーステップ打法で61試合に出場して14本塁打と量産した。片りんを見せながら、11年春に左膝を痛めた。シーズン終盤には「何をするにも痛かった」と手術。ノーステップ打法もやめた。
15年から3年連続打率3割をクリアしながら1軍定着には至らず、今年は2軍で1年を終えた。選手層の厚さも影響した。「(まだ現役を)やろうと思えばやれたかもしれないけど、僕は広島出身。カープに必要ないと言われたら仕方がない。言われたら辞めようと思っていた」。トライアウト受験の道は断った。
育ててもらった広島での引退を選び、今後も広島に尽くす選択をした。「最初は広島(出身)ということでプレッシャーはあった。でも広島の人は温かい。ガンちゃん、ガンちゃんと呼んでもらってうれしかった。どんなときも頑張ってと声をかけて、応援してくれた。広島で良かったなと思いました」。恩返しできたか、分からない。まだできると思っている。「選手が思い切ってプレーできるように、しっかり見て、研究して、勉強してやっていきたい」。来年からはスコアラーとしてチームを支えていく。恩返しは、これからだ。【前原淳】

引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20191219-12180384-nksports-base
今年も多くの選手たちがプロの世界を去った。第2の人生へ踏み出す彼らを特集する「さよならプロ野球」を、全12回でお届けする。
◇ ◇ ◇
地元広島から“ガンちゃん”と親しまれた岩本貴裕外野手(33)が、赤いユニホームを脱ぐ。プロ11年で最少の1打席に終わった今年のオフ、戦力外を通告されて現役引退を決意した。だが、来季契約を結ばないと言われたときも岩本は笑顔だった。
「これが僕の人生。暗い顔をしてもしょうがない。若いころ、もっと練習しておけば良かった。もっと早く気づけば良かったな」
和製大砲と期待された。広島で生まれ育ち、広島商から亜大を経て、08年ドラフト1位で入団。10年にノーステップ打法で61試合に出場して14本塁打と量産した。片りんを見せながら、11年春に左膝を痛めた。シーズン終盤には「何をするにも痛かった」と手術。ノーステップ打法もやめた。
15年から3年連続打率3割をクリアしながら1軍定着には至らず、今年は2軍で1年を終えた。選手層の厚さも影響した。「(まだ現役を)やろうと思えばやれたかもしれないけど、僕は広島出身。カープに必要ないと言われたら仕方がない。言われたら辞めようと思っていた」。トライアウト受験の道は断った。
育ててもらった広島での引退を選び、今後も広島に尽くす選択をした。「最初は広島(出身)ということでプレッシャーはあった。でも広島の人は温かい。ガンちゃん、ガンちゃんと呼んでもらってうれしかった。どんなときも頑張ってと声をかけて、応援してくれた。広島で良かったなと思いました」。恩返しできたか、分からない。まだできると思っている。「選手が思い切ってプレーできるように、しっかり見て、研究して、勉強してやっていきたい」。来年からはスコアラーとしてチームを支えていく。恩返しは、これからだ。【前原淳】

引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20191219-12180384-nksports-base
【広島カープ】引退した岩本、ヤクルト担当のスコアラーに!!
今季限りで現役を引退した元広島の岩本貴裕氏(33)、庄司隼人氏(28)、飯田哲矢氏(28)が3日、マツダスタジアムを訪れ、広島の球団スタッフとしての契約を結んだ。
岩本氏は1軍スコアラーとしてヤクルトを担当し、庄司氏は1軍スコアラーと編成部を、飯田氏は2軍スコアラーを担う予定。岩本氏は「責任感を持ってやっていきたい。選手が思いきってやれるように、先輩とかからいろんな話を聞いて頑張りたい」と意気込んだ。

引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20191203-00000149-dal-base
岩本氏は1軍スコアラーとしてヤクルトを担当し、庄司氏は1軍スコアラーと編成部を、飯田氏は2軍スコアラーを担う予定。岩本氏は「責任感を持ってやっていきたい。選手が思いきってやれるように、先輩とかからいろんな話を聞いて頑張りたい」と意気込んだ。

引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20191203-00000149-dal-base
【広島カープ】今までもこれからも・・・広島で愛された岩本の歩み
広島で“ガンちゃん”と言えば知らない人はいないほどの人気者。
広島ホームテレビ『ひろしま深掘りライブ フロントドア』では、今シーズン限りでユニフォームを脱ぐ“ガンちゃん”こと岩本貴裕氏をスタジオに招いた。

広島ホームテレビ『ひろしま深掘りライブ フロントドア』では、今シーズン限りでユニフォームを脱ぐ“ガンちゃん”こと岩本貴裕氏をスタジオに招いた。

広島市東区牛田生まれの岩本氏は、幼い頃から生粋のカープファン。
小学校1年で野球を始めてから、めきめきその頭角を現し、高校は野球の名門・県立広島商業高校(以下、広商)に進学。3年の時には、エースで4番として、チームを16年ぶりに夏の甲子園に導いた。亜細亜大学を経て、2008年にドラフト1位で念願の地元カープに入団。プロ入り1年目から1軍出場を果たすと、プロ2年目では、わずか2ヶ月の間にホームラン14本を放つなどの活躍で自慢のパワーを見せつけた。その後は故障にも苦しみ、出場機会の減る中、今月2日、戦力外通告という形で、今シーズン限りの現役引退を決意した。
広島の“ガンちゃん”ゆかりの方々が、さまざまなエピソードを披露。
―広商の2つ下の後輩・ソフトバンク柳田悠岐選手
「高校に入って最初に岩本さんを見た時、こういう人がプロに行くんだなと思った。常に時間を見つけてはタイヤを引いたり、練習もすごくしたり、ちょっと違うなと思った」。
【広島カープ】岩本「カープにいらないと言われたら仕方ない」
広島は2日、岩本貴裕外野手(33)ら5選手に来季の契約を結ばないことを伝えたと発表した。戦力外通告を受け、岩本は現役引退を表明。故郷である広島での11年間に悔いを残さず、異例とも言える笑顔での決断となった。
戦力外を告げられても、岩本は何も変わらない。「暗い顔しても仕方ないじゃないですか…。悔いなくできた。まだ(現役を)やりたいというのはない」。非情な宣告の直後でも、人懐っこい笑顔のまま質問に答えた。
11年目の今季は、4月28日ヤクルト戦の代打での1打席のみに終わった。1軍登録期間は9日間だけ。2軍では70試合で打率・281を残しながら、1本塁打、5打点にとどまり、引き際を意識せざるを得なかった。「終盤に入って、このままでは悔いが残るな…と。ある方からの助言もあって“やるからには一生懸命やってみたらいいんじゃないか”と。悔いなく由宇でもやれたと思う」。金言を送った人物は伏せても、常に笑顔の岩本だからこそ、人の縁にも恵まれた。
広島商から亜大に進学し、08年ドラフトで1位指名を受けた。「2年目にノーステップにしたのは、一番変えたところ」。2年目の10年に14本塁打と天性の長打力が花開き始めた。しかし、右膝を手術するなど定位置奪取には至らなかった。一番の思い出は、10年8月27日の巨人戦。守護神のクルーンから放った同点2ランを思い浮かべると、ひときわ笑顔になった。
金本知憲らが背負った背番号10だった。「金本さんがつけられて、記録と記憶を残された方だった。いい結果を残せずにいたことは申し訳ない」。広島市出身のドラフト1位。笑顔の裏には人知れず戦った苦悩もあった。
「僕は広島出身。カープにいらないと言われたら仕方ない。最初のころは(地元の重圧が)あったかもしれない。でも、この年になっても“がんちゃん、がんちゃん”と呼んでくれてうれしかった。地元でよかったな…と思います」
今後については未定とした。「家族とかいろんな人と話し合って決めたい」。“がんちゃん”として生きた11年間に区切りをつけ、新たな道を歩む。
(河合 洋介)

戦力外を告げられても、岩本は何も変わらない。「暗い顔しても仕方ないじゃないですか…。悔いなくできた。まだ(現役を)やりたいというのはない」。非情な宣告の直後でも、人懐っこい笑顔のまま質問に答えた。
11年目の今季は、4月28日ヤクルト戦の代打での1打席のみに終わった。1軍登録期間は9日間だけ。2軍では70試合で打率・281を残しながら、1本塁打、5打点にとどまり、引き際を意識せざるを得なかった。「終盤に入って、このままでは悔いが残るな…と。ある方からの助言もあって“やるからには一生懸命やってみたらいいんじゃないか”と。悔いなく由宇でもやれたと思う」。金言を送った人物は伏せても、常に笑顔の岩本だからこそ、人の縁にも恵まれた。
広島商から亜大に進学し、08年ドラフトで1位指名を受けた。「2年目にノーステップにしたのは、一番変えたところ」。2年目の10年に14本塁打と天性の長打力が花開き始めた。しかし、右膝を手術するなど定位置奪取には至らなかった。一番の思い出は、10年8月27日の巨人戦。守護神のクルーンから放った同点2ランを思い浮かべると、ひときわ笑顔になった。
金本知憲らが背負った背番号10だった。「金本さんがつけられて、記録と記憶を残された方だった。いい結果を残せずにいたことは申し訳ない」。広島市出身のドラフト1位。笑顔の裏には人知れず戦った苦悩もあった。
「僕は広島出身。カープにいらないと言われたら仕方ない。最初のころは(地元の重圧が)あったかもしれない。でも、この年になっても“がんちゃん、がんちゃん”と呼んでくれてうれしかった。地元でよかったな…と思います」
今後については未定とした。「家族とかいろんな人と話し合って決めたい」。“がんちゃん”として生きた11年間に区切りをつけ、新たな道を歩む。
(河合 洋介)

【広島カープ】2008年のカープのドラフトを振り返ると
広島は2日、横山弘樹投手、飯田哲矢投手、岩本貴裕外野手、育成の岡林飛翔投手、木村聡司内野手と来季の契約を結ばないことを発表した。岩本は亜大から2008年のドラフト1位で入団。和製大砲として期待され入団した08年ドラフト“同期生”の現状を振り返ってみる。
以下は広島の2008年ドラフト入団選手
1位 岩本貴裕 外野手 亜大 2019年・戦力外
2位 中田廉 投手 広陵 現役
3位 小松剛 投手 法大 2013年・戦力外
4位 申成鉉 内野手 京都国際 2013年・戦力外
【育成】
1位 松田翔太 投手 金沢学院東 2011年・戦力外
育成を含め5選手が入団。ドラフト1位の岩本はプロ2年目の10年に自己最多の14本塁打をマークするなど活躍。左の長距離砲として期待されたが近年は出場機会が激減し今季はわずか1試合の出場にとどまっていた。通算405試合に出場し打率.253、31本塁打、131打点。
2位の中田は10年に1軍デビューを果たすと14年には中継ぎとして自己最多の66試合に登板。今季は8試合の登板で0勝0敗、防御率9.53。通算では212試合、15勝15敗、41ホールド、防御率4.43。3位の小松はルーキーイヤーの09年にプロ初勝利を挙げるなど5勝3敗、防御率5.25をマーク。その後は登板期間が減少し12年オフに育成契約を結び13年に戦力外通告を受けた。現在は球団広報として活躍。
4位の申成鉉は1軍出場が無いまま13年に戦力外通告。15年からは韓国ハンファ、斗山でプレーした。育成1位の松田も1軍出場のないまま11年に戦力外となり、その後はBCリーグでプレーした。

以下は広島の2008年ドラフト入団選手
1位 岩本貴裕 外野手 亜大 2019年・戦力外
2位 中田廉 投手 広陵 現役
3位 小松剛 投手 法大 2013年・戦力外
4位 申成鉉 内野手 京都国際 2013年・戦力外
【育成】
1位 松田翔太 投手 金沢学院東 2011年・戦力外
育成を含め5選手が入団。ドラフト1位の岩本はプロ2年目の10年に自己最多の14本塁打をマークするなど活躍。左の長距離砲として期待されたが近年は出場機会が激減し今季はわずか1試合の出場にとどまっていた。通算405試合に出場し打率.253、31本塁打、131打点。
2位の中田は10年に1軍デビューを果たすと14年には中継ぎとして自己最多の66試合に登板。今季は8試合の登板で0勝0敗、防御率9.53。通算では212試合、15勝15敗、41ホールド、防御率4.43。3位の小松はルーキーイヤーの09年にプロ初勝利を挙げるなど5勝3敗、防御率5.25をマーク。その後は登板期間が減少し12年オフに育成契約を結び13年に戦力外通告を受けた。現在は球団広報として活躍。
4位の申成鉉は1軍出場が無いまま13年に戦力外通告。15年からは韓国ハンファ、斗山でプレーした。育成1位の松田も1軍出場のないまま11年に戦力外となり、その後はBCリーグでプレーした。
