広島カープブログ

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    新井貴浩


    鯉のプリンスがついに化けた! 広島・堂林翔太内野手が8日のDeNA戦(マツダ)で逆転グランドスラムを放ち、チームは連敗を4で止めた。  劇的な瞬間が生まれたのは、1点を追う八回一死満塁の場面だ。「チャンスだったのでランナーを返すつもりで打席に入った」。

    DeNA・パットンの148キロ直球を完璧に捉えると、〝確信〟のバット投げ。バックスクリーンへ飛び込む3号逆転満塁弾となるのを見届けると、ベンチは大興奮の渦となり、佐々岡監督は両手を挙げて喜びを表した


    人気者の苦しみは、人気者にしかわからないのかもしれない。2安打5打点の荒稼ぎで打率は再び4割台。昨季は故障もあってプロ入り最少の28試合出場と屈辱のシーズンを過ごした男が、水を得た魚のように暴れ回っている。11年目の〝覚醒〟の陰には2人のスターの存在がある。

    1人目は昨季巨人から加入した長野。名門の看板選手が突然のカープ移籍。ただ1年目の昨季は夏場に長い二軍生活を送った。同時期にリハビリで二軍にいた堂林は、その先輩打者に四六時中、密着。「長野さんは天才。僕とは違いすぎます」と話したが、技術だけではなく、ファンの耳目を集めるプロとしてどう振る舞うか、をじっくり学んだ。

    昨季唯一スポットライトを浴びたサヨナラの瞬間、真っ先に長野と抱き合って喜んだのは偶然ではない。    

    もう一人は言うまでもなく後輩の鈴木だ。オフにはプライドを捨てて弟子入りを直訴。「誠也という球界でもナンバーワンの打者とやれるので、何か一つでも吸収してキャンプに臨んでいければ」と鼻息荒く自主トレに臨んだ。主砲も堂林の覚悟に応え、惜しげもなく打撃理論を伝授。日本の4番から吸収したエキスが今季の活躍につながっているのは間違いない。

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    引用元 https://news.yahoo.co.jp/articles/a4e1a66571a712fa6a2d2c063394684337ae7fe7

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     プロ野球で、数々の強打者育成に尽力した内田順三氏(前巨人巡回打撃コーチ)の教え子には、想像を超えて飛躍を遂げた選手たちがいる。その代表例である金本知憲氏と新井貴浩氏について、共通点を聞いた。

      ◇  ◇

     金本は東北福祉大から、91年ドラフト4位でカープに入団。三村敏之さんが2軍監督時代から目をかけ、1軍に抜てきすることになるが、入団時は線が細く、後に3割30本100打点をマークするなんて想像もできない選手だった。打撃は左中間に運ぶ技術はあったが、右肘や右肩が上がって脇が甘くなる欠点があり、内角のスピードボールへの対応が課題だった。

     上からたたく練習を繰り返して克服していったが、1軍で活躍するようになってもネクストサークルでは極端なダウンスイングで意識付けを行っていた。相手ベンチからその姿を見て、巨人の若手に伝えたこともある。

     1、2年目はファームの遠征メンバーから外れたこともある。当時、私は2軍打撃コーチだったが、「残留組は1日1000スイングをやるように」と伝えていた。1000スイングなんて、本当にやろうとしたら大変なこと。半信半疑で言ったつもりだったが、居残った川端(当時の2軍投手コーチ)によると、金本だけは本当にやっていたらしい。大学入学前に一浪した経験もあったからか、反骨心は相当なものだった。

     あの時代では珍しく、積極的に筋力トレーニングに励んだことも飛躍の一因となった。車でいうエンジンの排気量が増すことで、体力もつき、打球にも力強さが加わるようになった。金本の鍛え抜かれた肉体は球界でも有名で、あの長嶋さんも注目していたそう。オールスターの時には「金本の体を見てみたいから風呂に入る時に教えてくれ」と周囲に言っていたそうだ。

     金本同様、新井も努力のふた文字なくして語れない選手だろう。広島とパイプの太かった駒大から、98年ドラフト6位で入団。体は大きかったが、大学でも通算2本塁打。周囲も「何とかものになれば」というくらいの評価で、まさか名球会に入るほどの選手になるとは誰もが思わなかっただろう。

     守備も課題だらけ。駒大の先輩である大下ヘッドコーチが朝からずっとノックをガンガンやっていたが、「これだけやっているなら新井を試合で使うのも当然だろう」と周囲を納得させるほどの練習量だった。

     金本の背中を見て育った新井。これは江藤もそうだったが、彼らに共通するのは体が元気なこと。けがもしない。過酷な練習をしても、すぐ元気になる。多くの選手は辛抱するのが精いっぱいで顔に出るものだけど、彼らにはそうしたことが全くなかった。

     その後、広島・鈴木誠也の2軍時代に指導した経験があるが、彼を見ていると、金本や新井の姿に通ずるハートの強さがあった。いい意味で眼力の鋭さがあり、なにくそ精神でこちらにぶつかってきていた。会うたびに、体もどんどん大きくなっている。技術だけではない、ハートや体の強さ。若手が育つカープの土壌には、こうした伝統がしっかり根付いている。


    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200512-00000107-dal-base

     広島のエースとして通算213勝を挙げ、1月20日に「成人T細胞白血病」を患い療養に入ることを公表した野球解説者の北別府学さん(62)が2日、自身のブログを更新。広島の後輩で、解説者の黒田博樹さん(45)と新井貴浩さん(43)が新型コロナウイルスと闘う医療機関などを支援するため計7万枚のマスクを広島県へ寄贈したことに感謝した。

     「カープOBの黒田氏と新井氏が医療関係者にマスクを7万枚も送ってくれたとの事」とこの日最初の投稿で書き出した北別府さん。「2人の行動、素晴らしい!」と称賛し、「お礼と私も元気だったら届ける役を手伝わしてもらいたかったなと思います」と付け加えた。

     新型コロナウイルス感染拡大の影響で当初は4月半ばに予定されていた息子がドナーとなる骨髄移植が延期となり、現在は自宅で静養している北別府さん。

     前日1日のブログでは「今朝、こんなものが置いてありました。引き出しにあった風呂敷?で思いついたそう」と3月から布マスクを手作りし続けている愛妻が作った真っ赤な布にかわいらしい目まで施した鯉のぼり仕様のマスク写真を掲載。「カープファンの方々が元気になれそうだ(^^)」と喜んでいたが、この日は妻の新作マスクも披露。「年に数回、レジェンドシートの解説の仕事をいただく際、タオルもお土産にいただいています」と巨人からもらった「YGマーク」と「2016」入りのタオル写真をアップ。「そのタオルがこのように↓↓↓昨夜の作品」と見事マスクに“変身”した写真を掲載し「これは、広島では使用して歩けません」とちゃめっけたっぷりにブログを締めくくった。

     




    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200502-00000158-spnannex-base

     広島の正随優弥外野手(24)が5日、大野練習場で行われた2軍全体練習に参加。マシン打撃や実戦形式のシート打撃などで汗を流し、「マシン打撃だと自己満足で終わってしまうところがある。実際の投手とは違うので、感覚を戻していければ」と話した。

     春季キャンプは1軍メンバーに選ばれ、紅白戦、練習試合では3割超の打率をマーク。だが、ハイレベルな外野手争いに踏みとどまれず、3月6日に無念の2軍降格となった。

     「コンタクト率を上げ、選球眼を磨きたい」。右の長距離砲として飛躍が期待される2年目は、1軍返り咲きへ日々鍛錬を積んでいる。



    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200505-00000110-dal-base

    広島の堂林翔太内野手が打撃フォーム改良に取り組んでいる。

    OB新井貴浩氏から「バットヘッドを最短距離で出す」と助言されたイメージをたたき込み、打撃練習では中堅方向を意識。「自己満足にならないように、レフトに本塁打したら次はセンターに切り替える。センターへ打ちにいきながら反応してレフトに打ち返すと打球も違う」。2日に1度の頻度で振り込みを重ねる。





    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200502-25020553-nksports-base

     4年前、2016年4月26日。1人の男が大記録を成し遂げた。ドラフト6位以下の大卒選手では、プロ野球史上初の偉業到達、プロ18年目の金字塔。不断の努力は才能を凌駕(りょうが)した。


     いまも脳裏には鮮明に焼き付いている。球場全体から鳴りやまぬ万雷の拍手。歩んできた野球人生と同じように、新井貴浩内野手が打った白球は一直線に左翼線へと伸びた。

     ヤクルト-広島戦の三回、無死二塁。通算2000安打目の打球が、左翼フェンスで強く跳ね返る。両軍から花束を手渡され、スタンドに5度、頭を下げた。プロ18年目、通算2112試合、7966打席目。史上47人目の快挙を球場全体が祝福した。

     「広島に戻れなければ、あるわけなかった」と言う偉業。「なんと言っていいか…。本当にありがとうございます」。こみ上げる思いを抑えながら声を張り上げた。「もう無理だ」と感じたプロ1年目。だが、運命は新井に味方した。FAで江藤智内野手が巨人に移籍したことで「4番・三塁」が空白に。育成急務のチーム事情が新井を育てた。

     光の数だけ影があるように、努力の数だけ流した汗がある。涙がある。03年。阪神に移籍した金本知憲外野手に代わる形で、山本浩二監督から4番に任命された。焦り、力み、重圧で大失速。だが、4番は不動だ。7月10日の阪神戦(広島)。たまったフラストレーションが一気に爆発。観客の心ないヤジに、生涯初めて応戦した。

     次戦の12日・中日戦(広島)。ついに4番を外れ、6番に降格する。練習前に1人、監督室に呼ばれた。

     「新井よ。しんどいか、苦しいか?」

     叱られたわけでも、慰められたわけでもない。だが、涙が止めどなくあふれた。「悔しいし、苦しい。ホッとした気持ちもあった」。どんな過酷な練習にも耐えてきた男が、初めて流した涙だ。終盤戦から4番に戻り、04年も固定。翌05年に本塁打王獲得という形で、指揮官の辛抱、新井の努力は結実した。

     2007年オフ、兄と慕う金本知憲の後を追ってFAで阪神に移籍した。東日本大震災が起きた2011年には、労組プロ野球選手会会長として尽力。出場機会が激減した2014年オフ、球団に自由契約を申し入れた。複数球団が獲得に興味を示す中、真っ先に獲得に動いたのが古巣広島、鈴木清明球団本部長だった。

     FA移籍した選手の復帰。球団では過去に例がなく、内部にも少なからず反発もあった。「どのツラ下げて帰れば…」。何度も電話をかけ、困惑する新井を根気よく説得した。最終的には緒方孝市監督も背中を押した。「僕が全力で守ります」。だが、結果的に守る必要はなかった。必死な姿は若手のお手本になり、懸命な姿はファンの胸を打った。

     節目の大記録で勢いに乗ったチームは、そのまま快進撃を続け、9月10日の巨人戦(東京ドーム)で逆転勝ちし、25年ぶりのリーグ優勝を果たした。新井はこの年、300本塁打にも到達。史上初めて2000安打、300本塁打、リーグ優勝、リーグMVPを同一シーズンに達成した選手にもなった。

     ドラフト6位入団。恵まれた才能があったわけでも、将来を嘱望されていたわけではない。それでも地道な努力は、野球人生の終盤に大きな花を咲かせた。新井はいまでもサインを書く時に、「感謝」の2文字を横に添える。最後までファンを愛し、ファンに愛された男だった。(デイリースポーツ・田中政行)



    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200426-00000063-dal-base

     暗い話題が多い、こんな時だからこそ、楽しいことを考えないと!! そこでスポニチが独断と偏見に想像力も働かせて、つくってみました。時代を超えた「ご当地オールスターチーム」。一時代を築いた名選手たちが同じチームだったら……。読者の皆さんも本紙選定チームを叩き台にしてオリジナルチームを選考してみては。今回は広島です。

     各地区のドリームチームの中でも、広島の外野のレベルの高さは群を抜く。ミスター・赤ヘル山本浩二(廿日市)、世界の鉄人・金本知憲(広陵)、そしてトリプルスリー・柳田悠岐(広島商)と現役を含めて、各世代を代表する名手がそろっている。

     金本のプロ入団時の監督が山本だった。子供のころからの憧れ。「監督がスタメンに悩むことのない存在になりたい」というのが、フルイニング出場へのこだわりとなった。大差がついても、雨が降っても、骨にヒビが入っても、金本は試合に出続け、1492試合連続フルイニング出場の世界記録につながった。

     阪神でも03年、05年のリーグ優勝に貢献。「アニキ」としてファンに慕われた。00年にはトリプルスリーも記録。柳田もパMVPに輝いた15年にこの勲章を手にした。打力だけでなくスピード、肩を兼ね備えた外野陣だ。南海、松竹などで活躍した「神主打法」の岩本義行(広陵中)も50年に・319、39本塁打、34盗塁で初代のトリプルスリーを記録した外野手だ。

     日本記録の3085安打をマークした安打製造機・張本勲(松本商・浪華商)は45年8月に広島で被爆した体験を今も語っている。「物干し竿」と呼ばれた長尺バットで一世を風靡(ふうび)した藤村富美男(呉港中)は押しも押されもせぬ初代ミスタータイガース。チームが8球団中、6位に沈んだ49年には安打、本塁打、打点のシーズン記録を更新し、MVPに選ばれたほどだ。

     メンバーには入らなかったが、記しておかなければならない広島出身の野球人がいる。石本秀一(広島商)は監督として広商野球の礎を築いた後、プロ野球6球団で監督を務めた。戦前1936年には大阪タイガース2代目監督となり、打倒巨人の意識を浸透させ、今日の伝統の一戦に繋げた。50年には広島の初代監督にもなった。

     さらにタイガース創立時のメンバーで、いずれも広陵中出身の捕手・小川年安、遊撃・岡田宗芳、同じく巨人の初代メンバー田部武雄はそれぞれ召集され、戦死。認知度も低い職業野球に情熱を注ぎ、戦争に苦しんだ先人の思いを、危機に直面した今、思い起こしたい。

     さてメンバーは捕手・達川光男(広島商)、一塁・新井貴浩(広島工)、二塁・大下剛史(広島商)、遊撃・広岡達朗(呉三津田)で出そろった。エースはロッテで通算215勝したマサカリ投法の村田兆治(福山電波工)。現阪神投手コーチに福原忍(広陵)、現ヤクルト監督の高津臣吾(広島工)ら控えも多彩だ。

     監督として日本プロ野球最多の1773勝を誇る鶴岡一人(広島商)が、広島のじゃけえ軍団を率いる。「グラウンドには銭が落ちてる」と選手の目の色を変えてみせるはずだ。(鈴木 光)



    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200421-00000012-spnannex-base

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