広島カープブログ

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    栗原健太

     ◇決断2016ユニホームを脱いだ男たち=楽天・栗原健太内野手(34)

     すがすがしい笑顔だった。10月1日、コボスタ宮城で行われた引退会見。栗原はハキハキとした口調で引退理由を口にした。

     「今年一年が勝負という気持ちでやってきた。1軍の戦力になれず、この辺が引き際かなと思った。自分の思うようなバッティングができなくなった」

     99年ドラフト3位で広島に入団すると、球界を代表するスラッガーへと成長。09年には2連覇を達成した第2回WBCの日本代表メンバーにも名を連ねた。しかし、チームの勝利を最優先に考え、慢性的な右肘痛を抱えながらプレーを続けたため、08、12、14年と3度の手術を余儀なくされた。ただ「一生懸命、試合や練習をした中でのケガ」と悔いはない。「手術を決断した時は“この手術で良くなる”と思ってやる。ダメだったとしても後悔しないと決断して手術に臨んだ」と覚悟の上だった。

     以降は度重なる違和感に苦しめられ、本来の打撃を取り戻すには至らなかった。14年から2年連続で1軍出場はなく、昨オフ、自由契約を申し入れ、今季から生まれ故郷・東北に新天地を求めた。だが、楽天でも1軍から声が掛かることはなく、ついにユニホームを脱いだ。

     選手としてもう一花咲かすことはできなかったが、この一年でコーチとしての資質は確実に芽生えた。球界屈指の長距離砲に上り詰めたのは、練習量の多さで知られる広島で育ったからこそ。楽天でも2軍の泉練習場の室内で早朝から電気もつけずバットを振り、球団職員を驚かせた。練習時間ぎりぎりまでグラウンドに姿を見せなかった若手選手に注意をしたこともある。「練習量や姿勢はカープのときと変わらずやってきた。そういうのは見せられた」と自負する。

     来季は2軍の打撃コーチに就任。11月上旬、岡山・倉敷での秋季キャンプでは早朝から日暮れまで若手選手に付きっきりで指導した。重視するのはコミュニケーション。「言ってやらせるのではなく、納得してやらせないと。感覚を押しつけるのではなく、その人の感覚になったつもりで見ている」。栄光も挫折も味わった自分だからできることがある。未来の和製大砲を育てるべく、第二の野球人生を歩みだした。 (徳原 麗奈)

     ◆栗原 健太(くりはら・けんた)1982年(昭57)1月8日、山形県生まれの34歳。日大山形では2年夏に甲子園出場。99年ドラフト3位で広島入団。11年にベストナイン、ゴールデングラブ賞を獲得。15年に自ら自由契約を選択し、入団テストを経て今季から楽天に加入した。通算1026試合、打率・293、153本塁打、586打点。1メートル83、97キロ。右投げ右打ち。


    引用元 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161218-00000100-spnannex-base

     広島が25年ぶりにリーグ優勝を果たした今シーズン。かつてチームの低迷期を支えた4番打者・栗原健太(34)が、人知れずバットを置いた。

    「広島が優勝したことは素直に嬉しかったけど、“なんで俺がそこにいないの?”って寂しさはありました。そういう星の下に生まれたのかな(笑い)」

     2000年代の広島で右の大砲として君臨し、2008年にはキャリアハイの103打点を記録。今年、16年間過ごした広島を自由契約となり、楽天にテスト入団したが、一軍出場は叶わないまま現役引退を決めた。

    「来季は楽天の二軍の打撃コーチとして、僕が教わってきたことを若手に伝えます。広島時代の2008年、それまで4番を務めた新井(貴浩)さんが阪神に移籍し、その抜けた穴を埋めるために練習に明け暮れました。4番として2年連続フル出場しましたが、おかげで右肘がボロボロに。当時、左手の人差し指も骨折していたけど出続けた(笑い)」

     この頃に何試合か休んでいれば、現役生活は延びたかもしれない。だが当時、その選択肢はなかった。




    引用元 http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20161125-00000004-pseven-spo

     「広島紅白戦、紅組6-3白組」(18日、天福球場)

     広島の岩本貴裕外野手(30)が、宮崎県日南市内で契約更改交渉に臨み、200万減の年俸1200万円でサインした(金額は推定)。

     今季は27試合に出場し、打率・333。限られたチャンスの中で勝負強さを発揮した。「厳しい結果だと思いますが、やるしかない」と今シーズンを振り返りながら、冷静に判断し受け止めた。

     この日行われた紅白戦に「4番・左翼」で出場。1点を先制された直後の初回、1死一、三塁で打席を迎えた。カウント1-1からの2球目、オスカルの投じたフォークに反応。右前適時打を放ち、同点とした。「状態はいい。自分はとにかく打つことが大事なので、継続してやっていきたいです」と気を引き締めた。


    引用元 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161118-00000117-dal-base

     「広島秋季キャンプ」(15日、日南)

     小窪哲也内野手が、全体練習後のロングティーを終えた後、右肘の違和感を訴え日南市の病院で超音波検査を受けた。12年9月に右肘の手術を受けており、その患部に炎症が起きた模様。アイシング治療を施し、病院で注射を打った。

     松原チーフトレーナーは「練習でバットを振る量が増えたから炎症が出た。骨などに異常はない」と軽症を強調。病院からチーム宿舎に戻ってきた小窪も「大丈夫です」と話した。


    引用元 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161115-00000102-dal-base

    <広島3-1ヤクルト>◇1日◇マツダスタジアム

     広島が今季を象徴する45度目の逆転勝利で全日程を終了した。試合後のセレモニーでの緒方孝市監督(47)のスピーチは以下の通り。


     今季も200万人を超えるファンのみなさまがマツダスタジアムで応援していただき、カープ球団を代表して、心より御礼申し上げます。今シーズンカープの戦いで数多くの逆転勝ちを収めることが出来たのも、大きな連敗もなく安定した粘りのある戦いが出来たことも、最後まで熱い声援で、ファンの皆様が後押しをしていただいたおかげです。本当にありがとうございました。

     きたる10月12日、クライマックスシリーズは今シーズン目指し、やってきたこのカープの戦いをチーム一丸となって、全力で戦っていきます。そして今日、ここにカープの苦しい時代、主力としてチームを支えてくれた倉、広瀬が現役を引退することになりました。彼らの支えが、後輩への教えが、今シーズン優勝へとつながったと思います。彼らの思いとともに、全力で戦っていきます。今シーズンありがとうございました。


    引用元 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161001-00000215-nksports-base

     楽天の栗原健太内野手(34)が1日、コボスタ宮城で引退会見を開き「わたし、栗原健太は今シーズンをもちまして、現役引退を決めたことを報告させていただきます」と晴れやかに話した。

     栗原は昨年、広島を自由契約となり、秋季キャンプでテストを受け、楽天に加入。引退を決めた理由として「楽天に入団してから、自分の中で今年1年が勝負という気持ちでやってきた。1軍の戦力になれず、このへんが引き際。自分の思うようなバッティングができなくなった」と語った。

     家族には「いつも近くで支えてもらった。けがをしてから心配をかけた」と感謝し「復活して欲しい気持ちでいたと思う。辞めると伝えた時“一生懸命やっているのを見ていたので悔いはないよ”と言ってくれた」と話し始めると、目元を押さえ涙をこらえた。

     プロ野球生活を振り返り「悔いは本当にない」としながらも「1つあげるとしたら、リーグ優勝の経験がないこと」とぽつり。古巣・広島は今季25年ぶりにリーグ優勝を果たしたが「その中に自分がいられなかったのが残念。カープファンが待ち望んでいたことなので、自分もうれしかった」と正直な気持ちを吐露。

     それでも「イーグルスに入ってチームの力になりたいと思ってやってきた。1軍に上がることができなかったけど、皆さんよくしていただいて、良い経験になった」とこの1年を振り返った。

     会見後、球団職員から花束を受け取ると、涙は消え、最後は満面の笑み。度重なる右肘の故障に悩まされたが、栗原健太にとって野球とは問われ「小さい時に野球を始めてからずっと野球のことを考え、生活の一部だった。野球を通して色んな人と出会えた。こういう経験は中々ない。栗原健太をつくってもらった」と野球の神様に感謝の気持ちを伝えた。


    引用元 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161001-00000114-spnannex-base

     楽天は29日、栗原健太の現役引退を発表した。

     プロ17年目、34歳で訪れた決断の時。男は地元・東北でユニフォームを脱ぐ。


     1999年のドラフト3位で広島に入団。日大山形高時代には甲子園にも出場し、高校通算39本塁打をマーク。その恵まれた体格とパワーで将来の主砲候補として期待された。

     しかし、プロ入り後はケガとの戦いの日々。一軍デビューを果たしたのは3年目の2002年のことだった。9月にはプロ初安打となる初本塁打を藤川球児から放つなど、華々しい第一歩を踏み出したが、そのまま一軍定着とはいかなかった。

     殻を破ったのは2006年。背番号を「5」に変更したこの年に、自己最多の101試合出場で20本塁打を記録。翌年には全144試合に出場を果たし、2008年からは移籍した新井貴浩に代わって4番も務め、自身初の100打点超えとなる103打点を記録している。

     さらに、2009年にはWBCに出場して世界一メンバーにもなった。

     当初は最終で落選し、チームを離れることとなるも、村田修一の負傷でコールアップ。アメリカ行の切符を掴み、最後は歓喜の輪に入ったのだ。

     一気にスターダムを駆け上がったわけではなかったが、地道な努力で着実にステップを踏んで行った男。しかし、この後に待ち受けていた野球人生は非常に厳しく、つらいものであった。


    引用元 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160930-00090699-baseballk-base

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