広島カープブログ

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    江夏豊

     鉄人・衣笠祥雄氏死去のニュースを知った。プロ野球界の中でも“プロの中のプロ”と言っても誰も文句は言わないだろう。記者は直接取材した経験はないが、衣笠氏の盟友ともいえる江夏豊氏から聞いた話で、ずっと尊敬の念を抱いていた。

     話は古くなるが、衣笠氏、山本浩二氏とともに広島のユニホームを着て赤ヘルを支えた江夏氏。1979年、近鉄との日本シリーズ第7戦で無死満塁を切り抜けた“江夏の21球”は今でも球界の語り草になっている。記者が日本ハム担当時代、移籍してきた江夏氏は広島時代の話をよくしてくれた。山本氏については「ある試合で浩二が難しい球をタイムリーヒットしてな。ベンチに帰ってきた浩二に“ナイスバッティング”と声を掛けたんや。そうしたら“いや、初球の甘い球を打っていたら、あんなに苦労してヒットを打つことはなかった”と。やはり本物のプロやな」と思ったという。

     一匹狼と言われた江夏氏だが衣笠氏とはウマがあった。遠征先でよく2人で食事やお酒の席も共にした。すると途中で衣笠氏は決まって「ユタカ(江夏氏)飲んでてくれ」と言って30~40分くらい店を出ていくという。何回も続くから江夏氏が「いつもどこに行ってるんや?」と聞くと「どうしてもバット振らないと気がすまん。だからホテルの部屋に戻って振ってくるんだ」と説明したという。実績も築き中心打者になっても努力を怠らない。江夏氏はつくづく衣笠氏の野球への探究心、強い思いを感じたという。

     本物のプロが本物を知る。記者は江夏氏からだが、プロとはどういう人のことを言うのかを教えてもらった貴重な体験だった。(落合 紳哉)


    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180424-00000127-spnannex-base

     元プロ野球広島で“鉄人”の異名を持つ衣笠祥雄氏が亡くなったことが24日、分かった。71歳だった。

     衣笠氏とは広島時代の同僚である野球解説者の江夏豊氏が、ヤクルト-阪神戦のテレビ解説のために現地入りした愛媛・松山空港で報道陣の取材に応じた。

     「今日の朝、知った。(衣笠氏の)奥さんから電話がかかってきた。一口ではなかなか言いづらいけど、言えることは、いいヤツを友人に持ったということ。本当に俺の宝物」と終始、沈痛な面持ちで故人をしのんでいた。


    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180424-00000064-dal-base

     「それ、誰かに聞いてネットで見たよ!」

     新井は驚いた表情でそう言った。2月17日のこと。広島の2次キャンプ地・沖縄を訪問した球団OBの江夏豊氏が、リーグ3連覇のキーマンに新井の名前を挙げたのだ。

     「お兄ちゃんだな。ボチボチ終わりだろうと楽しみにしている」

     黒いサングラスの奥の目は笑っていたが、伝説の左腕は威圧感たっぷりだ。“江夏流”のジョークで笑わせると、続けて「彼の背中を見て育った選手もいっぱいいる。1年でも長くグラウンドに立ってもらいたい。彼の性格からすると、打てなくなったら自分で答えを出すタイプの人間だけど、ケガをしないようにシーズンを送ってほしいな」と一転して今度は愛情たっぷりのメッセージを送った。

     日南キャンプ参加中の新井に江夏氏の話題を尋ねた時の反応が冒頭の言葉だ。そして、レジェンド左腕とのこんな「秘話」を明かしてくれた。

     「江夏さんは大先輩だから。ちょくちょくメールのやりとりをしている。たまに『おい、メル友!』と。うれしいことに見てくれていて。試合でいいところで打ったら『ナイスバッティング。頑張れ』とメールを頂ける。だから返信まですごく考えるよね(笑)。『いつもありがとうございます、頑張ります』。これはちょっとまずいかなとか(笑)。考えないといけないから、返信にめっちゃ時間がかかる(笑)」

     なんと、新井と江夏氏はメル友だという。江夏氏は「個人的にお兄ちゃんのファン」と明かしていたが、どうやら本当のようだ。新井も恐縮しつつ「本当にうれしい。タイガースの時から気にかけてくれていて、よくしてもらって、ありがごうございます」と、大先輩へ感謝のまなざしを向けていた。

     プロ20年目を迎えた新井のキャンプも間もなく終了する。「今年はいいんじゃないかな、去年よりいい」とうなずくように仕上がりは上々だ。今年も江夏氏からたくさんお祝いメールが届きそうだ。(デイリースポーツ・杉原史恭)


    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180226-00000073-dal-base&pos=3

     「広島春季キャンプ」(17日、沖縄)

     OBで野球評論家の江夏豊氏が訪問し、今季のキーマンとして現在宮崎・日南で調整する新井貴浩内野手を指名した。



     高橋昂や中崎が行っていたブルペンでの投球練習など、鯉戦士に熱視線を送り続けたレジェンド。だが、今年広島で注目する選手に挙げたのは沖縄に帯同していないプロ20年目の新井だった。「個人的にファンだからね。楽しみにしてる。背中を見て育った選手もたくさんいる。1年でも長くグラウンドに立ってもらいたい」と熱い思いを口にした。



    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180217-00000153-dal-base

    <今日の一番>

     広島の中崎翔太投手(25)が沖縄キャンプの17日、レジェンドOBの江夏豊氏(69=野球評論家)から力強いエールをもらった。

     約60球のブルペン投球後、見守った江夏氏から言葉をかけられ「頑張れよと言ってもらえた。今日はあまりいい球を見せられなかった。また来られた時は、いい球を投げられるようにしたい」と話した。

     江夏氏はかつて広島で2度、最優秀救援投手(現在の最多セーブ投手)に輝いた。ここまで通算74セーブを挙げている今季の守護神筆頭候補に向けて「個人的に好きな子だから。けがせんように、頑張りなさいということだけ。不可抗力は仕方ないけどね」と温かい言葉を贈った。【広島担当 大池和幸】



    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180217-00128378-nksports-base.view-000

     プロ野球の広島は22日、ドラフト1位指名した広陵高(広島)の中村奨成捕手(18)と広島市内で入団交渉を行い、契約金1億円プラス出来高払い、年俸800万円(金額は推定)で仮契約した。中村は「ようやくカープの一員になれた。ファンに夢と感動を与えられる、息の長い選手になりたい」と意気込みを語った。

     背番号は高校の先輩である小林誠司(巨人)と同じ22に決まり、「あこがれの小林さんと同じで素晴らしい。この番号に恥じない一流のキャッチャーになりたい」と話した。

     今夏の甲子園で1大会個人最多となる6本塁打を放ち、チームを準優勝に導いた高校球界のスターに、同席した白武佳久スカウト部長は「肩の強さ、足の速さ、野球センスと三拍子そろっている」と期待を寄せた。【前本麻有】

     ◇広島の2選手が背番号変更

     広島は22日、中村恭平投手(28)の背番号を64、安部友裕内野手(28)を6に変更すると発表した。中村恭が付けていた22は、ドラフト1位指名の中村奨成捕手(広島・広陵高)、安部の60は同4位の永井敦士外野手(東京・二松学舎大付高)が来季から付ける。

    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20171122-00000081-mai-base

     【あの秋~日本シリーズ回想~(2)】 40年近くが経過した今も多くの球界関係者、ファンの間で語り継がれるシリーズ史上最高の名場面がいわゆる「江夏の21球」だ。1979年11月4日、舞台は大阪球場。ともに初の日本一を目指す両チームの第7戦は4―3と広島1点リードで9回裏。7回途中から登板した守護神の江夏豊は、デーゲームなれど朝6時まで麻雀に興じていたため、睡眠は取っていなかった。



     先頭の羽田耕一に中前打を許すと守備のミスもあり無死満塁の大ピンチ。佐々木恭介を三振に仕留めて1死後、打席に石渡茂が入った。強攻策、エンドラン、スクイズ…。いくつかの策が考えられる中、江夏は「絶対にスクイズ。何球目に来るか」を見極める駆け引きに入った。

     敵将・西本幸雄の動きを読む。三塁コーチの仰木彬に視線を向けると、いつもならほほ笑み返す仰木が顔をそらせた。正対する一塁走者の平野光泰はニヤリと笑った。左腕の江夏は三塁走者が見えないが、スクイズなら同時にスタートを切る一塁走者の動きは視界に入る。平野のほほ笑みを「スクイズのサインが出ても自分は動かない」という暗黙の合図、と江夏は読んだ。

     一方で自軍ベンチとの葛藤もあった。若手の池谷公二郎、北別府学にベンチ横でのウオーミングアップを指示した指揮官・古葉竹識への不信感。「大阪球場にはベンチ裏にもブルペンがある。なぜ、俺の目に入るところでこれ見よがしに」

     1ストライクから運命の1球。投球動作に入った江夏は石渡のわずかな動きを看破したが、握りはカーブ。ウエストは直球がセオリーで、カーブだと大暴投になりかねないリスクをはらんでいた。江夏いわく「神業」の1球は大きな弧を描くと、石渡のバットは空を切った。三塁走者の藤瀬史朗は挟殺。石渡も三振に仕留めて江夏の21球は完結。日本一に輝いた。

     時空を超えて聞いてみた。

     あなたにとってあの21球は何だったのか――。

     やや間を置いて江夏は答えた。「自分がつくったとはいえ、ああいう難しい場面はそうそうあるものではない。いい経験をさせてもらった。もう一度投げても抑える自信はない」。淡々と振り返りながら、最後に語気を強めた。「最近の人は分からないかもしれないが、駆け引きは当然のこと。そうでなければ俺のような、へなちょこ球で抑えられるわけがない」――。=敬称略=(宮内正英編集主幹)

     ◆1979年日本シリーズ 第1戦は5―2、第2戦は4―0で、近鉄が本拠・大阪球場で連勝。地元に戻った広島は第3戦を3―2で制すと第4戦は5―3、第5戦も山根が1―0で完封と3連勝で王手をかけた。大阪に舞台を移した第6戦は近鉄が6―2で勝ち逆王手。第7戦は広島1点リードの7回途中から江夏が3番手で登板。9回無死満塁のピンチをしのいで、広島が球団創設初の日本一に輝いた。
    引用元 http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2017/10/25/kiji/20171024s00001173251000c.html

     プロ野球セ・リーグは、広島が37年ぶりの連覇を果たした。大型連載の第26回は広島一筋22年、先発に、抑えにと活躍した大野豊氏(62)。二十歳のころは島根・出雲市信用組合に勤務しながら、軟式のチームでプレーしていた。21歳のときにドラフト外でプロ入り。通算148勝138セーブを挙げた裏には、多くの人との出会い、社会人時代の貴重な経験があった。

     プロ野球選手を目指そうなんて、考えたことはありませんでした。なりたいと思ったこともありません。二十歳になったのは1975年。のちにお世話になる広島カープが初のリーグ優勝を飾った年です。私は出雲市信用組合に入行して2年目。軟式野球部でプレーしていました。

     ノンプロではないので、午前中だけ仕事をして、午後は練習に専念というわけにはいきません。本店の渉外担当として朝から夕方まで業務をこなした後、日が暮れるまで練習をするという毎日でした。

     朝は8時半に出勤し、9時頃から課のミーティングで、その日の担当エリアをチェック。午前中は商店街を中心に歩き回りました。午後は原付きバイクで遠方を回り、夕方に本店へ戻って集金したお金の計算です。金額が合えば5時頃に終了しますが、1円でも違っていると、合うまで数え直しでした。

     野球部といっても専用グラウンドはなく、日替わりで借りたグラウンドに、仕事が終わった人から集合。土曜の午後や仕事が休みの日曜に、まとまった練習や試合をしました。

     初任給は、手取りで約3万5000円。毎年、1万円ずつの昇給でした。出費は通勤用に買った原付きバイクとスーツの月賦が計5000円。家に5000円を入れ、できる範囲で貯金した残りが自由に使えるお金です。朝のミーティングは喫茶店でモーニングを食べながらだったので、月単位だと、朝食に最もお金がかかったかもしれません。

     プロに入るまで、ずっと軟式でプレーしていたと思っている人もいるようですが、出雲商高では硬式でした。真っすぐはそれなりに速かったので、はまれば抑えるけど、なかなかはまらないという投手です。中学、高校の大会で優勝したとか、何か記録を残したことはありません。夏場はやせて、すぐにばててしまうこともあり、高校3年夏の島根大会は初戦敗退でした。

     母子家庭で育った私は、母(富士子さん)を早く楽にさせてあげたくて、中学を卒業したら自立しようとも思いましたが、将来のために実業を学ぶことができる商業高校への進学を選びました。

     卒業後も野球は続けたかったので、3年生の夏が終わると杉原宏敦監督の勧めで、1学年下の捕手と一緒に1週間、ノンプロの三菱重工三原(広島・三原市、2014年に解散)の練習に参加しました。しかし、お世話になろうという気にはなりませんでした。就職は母がいる地元で、と考えていたからです。

     就職案内を見ても、出雲市内に硬式野球部を持つ企業はありません。銀行マンは自分の性格に合わないだろうと思いながらも、軟式とはいえ唯一、野球部がある出雲市信用組合を選んだのです。 (あすに続く)

    ■大野 豊(おおの・ゆたか)

     1955(昭和30)年8月30日生まれ、62歳。島根県出身。出雲商高、出雲市信用組合を経て77年3月にドラフト外で広島に入団。抑え、先発と転向を繰り返し、80-90年代の広島投手陣を支えた。98年に引退するまで22年間の通算成績は148勝100敗138セーブ、防御率2・90。主なタイトルは最優秀防御率2度、最優秀救援、沢村賞各1度。引退後は広島と、2004年アテネ、08年北京両五輪日本代表で投手コーチ。13年に野球殿堂入り。左投げ左打ち。
    引用元 http://www.sanspo.com/baseball/news/20170926/npb17092611000001-n1.html

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