広島カープブログ

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    津田恒実

     炎のストッパー、永遠に-。広島を熱狂させた津田恒美氏(享年32)の記念館が、山口県内に設立されることが26日、分かった。長男・大毅さん(28)が「津田恒美記念館プロジェクト推進部」を立ち上げ、奔走している。かつては「津田の息子」として生きていくことに反発もあったが、今は偉大な父の功績を残そうと全力投球している。

     25年ぶりの優勝へマジックナンバーを減らす広島ナインの戦いとともに、1993年に脳腫瘍で他界した津田氏の一人息子、大毅さんが動きだしていた。8月末に勤めていた会社に辞表を提出し、9月から記念館設立の準備に入った。

     「父が亡くなって23年がたちますが、父のことを思ってお墓参りをしてくれるファンの方もいる。球場に『TSUDA』の名前が入ったユニホームを着ている人がいる。現状でやるべきことはなんだろうと考え、父を思っている方のために記念館を作ろうということになった」

     当初は空き家となっている津田氏の生家をリフォームして、来年の命日(7月20日)をめどにオープンを考えていた。しかし、父の同級生や球界関係者などに相談すると「どんどん話が大きくなった」と、記念館新設の方向で話が進んだ。

     「津田恒美記念館プロジェクト推進部」を立ち上げ、設立場所はもちろん、トロフィーやユニホームを飾る鑑賞型、津田氏の球速を肌で感じる体験型、ファンが持っている津田氏にまつわるものを飾る参加型などのコンセプトを考え、資金集めの方法も検討してきた。

     資金は賛同者から寄付を募り、返礼品を送るクラウドファンディングで集める。「『TSUDA』の名前の入った復刻版のユニホームや現在のユニホームを返礼品にできないか」と版権の問題をクリアするため、球団にも出向いた。オープン日は未定だが、クラウドファンディングは年明けにも開始する予定。現在は東京から山口に足を運び、設立場所を検討している。

     野球殿堂入りもした偉大な父を持ちながら「『君が津田の息子なんだ』と言われるのが嫌だった。自分に自信がなかったからかもしれない」と言う。だが、年齢を重ねると同時に、今年の広島の快進撃で「カープのことを見る機会が多くなり、父と向き合えるようになったのかも」と大毅さん。25年ぶりのリーグ優勝と同時に動きだした記念館設立プロジェクトは、年明けから大きく動く。


    引用元 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161227-00000012-dal-base

     広島カープOB会の総会と懇親パーティーが3日、広島市内のホテルで行われた。今季限りで現役を引退した広瀬純氏をはじめ約40人のOBと2、3軍首脳陣、球団職員OBら約140人が出席し、25年ぶりリーグ優勝の話題や昔話に花を咲かせた。

     安仁屋宗八OB会長(72)=デイリースポーツ評論家=は「今年はカープに始まりカープに終わった年。カープOBとして自慢できる。来年は今年できなかった日本一を勝ち取ってもらいたい」とあいさつ。優勝旅行中の緒方監督からのメッセージも読み上げられた。また、野村祐輔投手をOB会として優秀選手に選んだ。


    引用元 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161203-00000080-dal-base

     今シーズン、プロ野球を大いに盛り上げた広島カープが、前回優勝したのが1991年。その年のカープは、7.5ゲーム差を跳ね返してリーグ優勝に輝いた。その年のチームについて、当時、広島で捕手を務めていた達川光男氏が語る。


    引用元 http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20161112-00000014-pseven-spo

     70~90年代に広島のエースとして活躍し、通算213勝、沢村賞も2回受賞した野球解説者の北別府学氏(59)が5日、今季限りで引退した後輩の黒田博樹投手(41)にブログで感謝の言葉をつづった。

     前日に引退会見を行った黒田は、自身の背番号「15」が山本浩二氏の「8」、衣笠祥雄氏の「3」に続き球団3番目の永久欠番となったことについて言及。「話を聞いた時は自分の中で鳥肌が立ちましたし、北別府さんを始め、諸先輩がおられる中で、こうやって僕自身の背番号がそういうふうになるのは恐縮する気持ちがありました」と話した。

     これに対し、現役時代に背番号「20」を背負っていた北別府氏は「実は現役引退してから、私の背番号は欠番にはしてもらえないのだろうかという思いを抱えていたのは事実です」と複雑な心境を吐露。と同時に「しかし!昨日の黒田君の会見を聞き、喉にずっとつっかえていた小骨が取れたようなという表現しかできないのですが、広島カープで投手初の永久欠番は15番で良かったと心から思えた、私にとっても心に残る会見でした」と黒田に感謝した。北別府氏は以前もブログで「自分の付けていた背番号を欲しがってくれることも大変ありがたいことですが永久欠番というのは選手にとっては何ともいいがたいような誉でもあります」と記していた。

     北別府氏は宮崎・都城農から1975年に広島にドラフト1位で入団。3年目の78年に初の10勝をマークすると、その年から11年連続で2ケタ勝利。79年には17勝をあげ、リーグ優勝に貢献した。82年には20勝をあげ最多勝と沢村賞に。86年も18勝でリーグ優勝に貢献し、最多勝、沢村賞に加えMVPにも輝いた。通算213勝をあげ、94年を最後にユニホームを脱いだ。


    引用元 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161105-00000111-sph-base

     2016年。セ・リーグのペナントは広島が投打に圧倒的な強さを見せ1991年以来、25年ぶりの優勝を飾った。9月10日。東京ドームで巨人に逆転勝ちし、首脳陣、選手、ファンが歓喜に沸く中、特別な思いで優勝の瞬間を見届けた男がいた。1984年から87年までカープに在籍し、昨年までオリックスの監督を務めた森脇浩司氏だ。

     25年前の優勝は福岡市内にある病院の一室で故・津田恒実氏と一緒に見守っていた。森脇氏と津田氏の関係はここで語るまでもない。炎のストッパーと呼ばれた津田氏は「弱気は最大の敵」を座右の銘にするほど気持ちを前面に出した投球が持ち味だったが、1993年に脳腫瘍で32歳の若さでこの世を去った。病と闘いながら球界復帰を諦めなかった右腕を森脇氏は最後の最後までサポートし続けた。リハビリに最適な地を探し周り、福岡の病院も紹介した。当時、カープが誇る絶対的守護神は歓喜の瞬間をマウンドではなく病院のベットで迎えていた。

    「あの日はよく覚えています。テレビのブラウン管に映ったカープの優勝の瞬間を津田はじっと見ていました。山本浩二さんが胴上げされるシーンは感動的でしたね。津田と一緒に私も見ていましたが変に気を遣うことはなかった。嬉しさ、悔しさ。色々と複雑な思いがあったと思いますが、本当にチームの優勝を喜んでいた」

     津田氏が病に倒れたのは1991年4月。開幕直後の巨人戦で1点リードの8回に登板するがわずか9球で同点に追いつかれ降板する。試合後に体調不良を訴え病院で検査を受けると「悪性の脳腫瘍」と診断された。ストッパーを失った広島は勢いの乗れないまま7月を迎えた。それでも山本監督、コーチ、選手たちは諦めなかった。

    「山本浩二さん、山崎隆造さんら、みんながお見舞いに訪れてくれた。当時の合言葉は『ツネを優勝旅行に連れて行く』。チーム全体が一体となって試合に挑んでいた。津田も、もう一度マウンドに上がることだけを考え、懸命にリハビリを頑張っていましたから。今年のカープと同じように一体感を感じるチームだった」


    引用元 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160930-00010006-fullcount-base

     四半世紀ぶりに訪れた歓喜に、広島の街が真っ赤に燃えた。

     高く厚い壁を乗り越えた今だからこそ振り返りたい25年前の記憶...。あの時の広島と今の広島を比較していくこの企画。今日は“エース”を見ていこう。


    引用元http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160928-00090414-baseballk-base

     力で上回りたい。ただ上回るだけじゃなく圧倒したい。獣性(じゅうせい)という言葉もあるが、霊長類ヒト科・ホモサピエンスが持つ本能である。野球人は年がら年中、負けず嫌いの日本選手権をやっているようなもの。「今まで対戦した中で、一番すごいボールを投げた投手は誰か?」はベタな愚問ではなく、おしなべて熱っぽく語る“鉄板”の問いだ。

     昨季まで巨人の監督を務めた原辰徳氏と、このテーマについて何度か話したことがある。特に速い直球を投げるピッチャーとの対戦前後に、回顧として出てきた。「津田、小松、鈴木孝政さん。後、大学時代だけど、江川さん。とにかく真っすぐが速かった」。決まって名前を挙げるのは同世代の4投手で、順番も決まって「津田」からだった。

     広島東洋カープ最高のストッパー、津田恒実。当時の原辰徳は、直球を打った衝撃で左手の有鉤(ゆうこう)骨が砕けた。ボールとバットの衝突で骨が折れる。漫画の世界だ。「もちろん速いんだけど、重くて、浮き上がってくる感じでね。高めは特にすごかった。でも、バットを短く持つ発想は、まったくなかった。短く持ったことは、野球人生で1回もないよ」。この辺りで、愛用のノックバットをギュッと握ってグリップを作る。勝負師の本能が首をもたげてくる。

     「どんなに速いボールでもグリップエンドに少し、指をかけた。バットを短く持った瞬間、引退と決めていた。なめられるからね。そこで、考えるんだ。ヘルメットを目深にかぶって、アゴを引いて、目線を絶対に上げない。スタンスをやや狭くして、ぶつかっていく。自分の決め事を作ったんだ」

     津田との決闘から四半世紀を経て、引き出しにしまっていた懐刀を抜くときが来る。2009年のWBC2次ラウンド。負けたら終わりのトーナメント初戦、相手キューバの先発はチャップマン。映像を見て「とんでもなく速い」と悟った原監督は、侍たちに具体的な指示を出す。

     「徹底して高めを捨てる。目線を絶対に上げないで、とにかく高めのボールに手を出さないようにしよう」。チームは世界で最も速い直球の攻略に成功し、世界一まで駆け抜けた。イチローはじめ個性派が集った第2回のWBC。中途半端な指示は出せない。津田の、特別な直球をどう打つか。培った方法論に自信があったからこそ、だろう。

     3年後の7月20日、オールスター第1戦の試合前に故・津田恒実氏の野球殿堂入り表彰式が行われた。偶然にも19回目の命日で、晃代夫人がレリーフを受け取った。

     囲み取材では「主人の現役時代に『オールスターを見に行きたい』と希望しました。でも『人混みは危ないから、また今度』と言われ、断念しました。その後もかなわないままでしたが、19年たって主人が約束を果たしてくれました」とうれしそうだった。

     原監督は表彰を受ける晃代夫人を優しい顔で見つめ、誇らしげに胸を張って、誰よりも長く、大きな拍手をしていた。試合後に晃代夫人の話を伝えると、「良かった。そう言ってもらっただけで、今年のオールスターを行う価値があったんじゃないか」で止まり、大きな目をうんと開いた。

     相手を上回りたい。縁に従って、本能に任せて勝負に没頭した。掛け値なしで培った絆は、いつまでも生きている。【宮下敬至】


    引用元 http://www.nikkansports.com/baseball/news/1711920.html

     25年ぶりにセ・リーグ優勝を果たしたプロ野球広島東洋カープ。1963年以来のキャンプ地、宮崎県日南市の日南第一ホテル従業員井上たつえさん(66)は、待ちわびた歓喜を志半ばで旅立った2人の名選手にまず伝えた。津田恒実さんと木村拓也さん。宿舎の世話役として約40年にわたり交流し、選手から「日南の母」と慕われる井上さんは、先輩たちの背中を追う「若鯉(ごい)」の成長に目を細めた。


     津田さんは「炎のストッパー」と呼ばれ、闘志あふれる姿が人気だったが、1993年、脳腫瘍に侵され32歳で他界した。チームが前回優勝した91年は、津田さんが広島市民球場で生涯最後の登板をした年だった。「冗談を言い、私の背中をぽーんとたたく、ちゃめっ気があった」と懐かしむ。「誰にでも愛された人。25年ぶりの優勝をきっと喜んでいると思う」

     木村さんは宮崎市出身で広島や巨人で活躍。巨人コーチ時代の2010年4月、マツダスタジアムでのノック中にくも膜下出血で倒れ、37歳で亡くなった。「やさしくてまじめ。『お母ちゃん』と呼んでくれていた」。木村さんが亡くなった翌年、宿舎で預かっていた枕を両親に届けた。


    引用元 http://www.nishinippon.co.jp/nnp/miyazaki/article/274033

     「巨人4-6広島」(10日、東京ドーム)

     広島カープがついに、ようやく、25年ぶりにリーグ優勝を手にした。12球団で最も遠ざかっていた頂点。就任2年目の緒方孝市監督(47)が7度、宙を舞った。

      ◇  ◇

     年のせいではないだろう。涙が自然と流れた。なにせ25年ぶりの優勝だから。緒方監督をはじめコーチ、選手、裏方さんや球団関係者、カープに関わったみんなにありがとうと言いたい。松田オーナーはもちろん亡くなった先代オーナーも喜んでいるだろう。ワシをはじめOBも大喜びじゃ。

     今年は春季キャンプに臨時コーチとして参加させてもらった。キャンプでは「あいさつと笑顔を忘れるな」と何度も言った。それがチームワークにつながると思ったから。

     シーズン中、野村が内野手にミスが出てムッとした表情を見せたことがあった。同じ投手として気持ちは分かる。ただ、翌日「あんな顔をするな。“もう1回行くよ”と声をかけろ」と注意した。その後は味方が失策を犯しても声をかけていた。今季は攻撃陣が良かったが、野球は持ちつ持たれつの部分がある。その点ではチームが一つにまとまっていた。

     1997年限りでユニホームを脱いで評論家になった。05年に現場に戻ったが、それ以外の年は開幕前の順位予想で「カープ優勝」と言ってきた。意地になった部分もあるし、優勝してほしいという願いもあった。信じてきてよかった。

     思い返せば沖縄から広島に来て半世紀。言葉も違えば風習も違う。野球を辞めたら沖縄に帰るつもりでいた。

     75年の初優勝時は阪神にいた。カープを見返そうと頑張ったが、最後はカープのユニホームで現役を終えたかった。ちょうど黒田や新井のように。現役を終えてコーチまでさせてもらい、今も野球に携わることができている。

     ワシの人生はカープなくしてなかったこと。先輩や後輩に恵まれた。それだけにカープへの思いは強い。今はOBとしてじゃなく、一番のカープファンと思っている。

     今季はチーム一丸で勝ち取った優勝。みんなで勝利の美酒に酔いしれてほしい。ただ、ここがゴールじゃない。キャンプ最終日に「日本一」と言った。カープファンの思いを成就してもらいたい。(広島カープOB会長、デイリースポーツ評論家)



    引用元 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160911-00000035-dal-base

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