広島カープブログ

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    衣笠祥雄

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    【正田耕三「野球の構造」(23)】ひとくくりに「プロ」といっても、それぞれの世界で序列があります。落語なら前座→二つ目→真打ち、大相撲だと序ノ口→序二段→三段目→幕下→十両→幕内。やることは違えど、トップのカテゴリーに入ってこそ一人前と認められるという点は共通していると思います。

     

    プロ野球も同じです。オフの契約更改では毎年のように高額年俸が話題になったりしますが、それを手にできるのは一軍で活躍した選手だけ。プロを目指して高校や大学で頑張ってきたのに、プロの世界に入ったことだけで満足して、志半ばでユニホームを脱いでいった選手を何人も見てきました。


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    引用元 https://www.tokyo-sports.co.jp/baseball/npb/1884966/

    【正田耕三「野球の構造」(21)】1985年、カープ入団1年目の率直な感想は「とんでもない世界にきてしまった」というものでした。中学、高校、社会人と、それなりに厳しいチームで野球をしてきましたが、プロの世界は何もかもがそれまでと違っていました。

     最初に驚かされたのは1月上旬に沖縄で行われた合同自主トレです。当時は契約期間外の12月~1月末のいわゆるポストシーズンがなく、球団の指示で行ったのですが、どの選手を見渡してもスイングスピードが自分とは違いました。

     同学年ながら高校からすぐにプロへ進んでいた山中潔は打球の飛距離がすごかったし、1学年下の原伸次にしてもいい打撃をしている。法政大を経て僕より1年先にプロ入りしていた小早川毅彦に至っては「ビュッ」というバットが空を切る音さえ威圧的に聞こえたものです。

     2月1日に春季キャンプが始まってからも、圧倒されっぱなしでした。周りにいるのは山本浩二さんや衣笠祥雄さん、高橋慶彦さんといったテレビで見ていたスター選手ばかり。しかも打撃練習ではポンポンと柵越えを連発しているわけです。それに引き換え当時の僕は、木製バットを使うのが初めてということもあって、まるで打球が飛ばない。内野手の頭を越えるのがやっとで、達川光男さんには「ほんまに全日本で1番を打ちよったんか?」とまで言われる始末でした。

     そうなると、さすがに焦ります。首脳陣から打撃フォームにメスを入れられることはありませんでしたが「何とかプロのスピードについていけるようにしなきゃ」との思いが強くて、あれこれ考えてしまう。自分で打撃フォームを修正しているうちにワケが分からなくなってしまいました。

     守備にしてもそう。当たり前のことですが、ノックを見ていてもみんなうまい。実戦になればなおのことです。それまでの社会人野球では、全日本の一員として臨んだ国際試合も含めて金属バットだったので速い打球には慣れているつもりでした。でも、肌で感じるプロの打球速度は金属のそれよりも速く、待って捕るような場合でも差し込まれてしまうし、追いつけると思った打球が外野に抜けて行ってしまうんです。

     何とか1次キャンプの沖縄から宮崎・日南での2次キャンプまで一軍に置いてもらいましたが、都城の中日戦と宮崎での巨人戦のオープン戦2試合が終わると二軍落ち。担当の木庭教スカウトから「アイルランドをクビにしたから二塁は空いている」と言われ、自分にもチャンスはあると思って臨んだプロの世界ですが、キャンプでは古葉竹識監督の意向で本来は一塁手の小早川が二塁に挑戦していたし、いきなりプロの洗礼を浴びる格好となってしまいました。

     ☆しょうだ・こうぞう 1962年1月2日生まれ。和歌山県和歌山市出身。市立和歌山商業(現市立和歌山)から社会人の新日鉄広畑(現日本製鉄広畑)に進み、84年ロサンゼルス五輪で金メダル獲得。同年のドラフト2位で広島入団。85年秋から両打ちに転向する。86年に二塁のレギュラーに定着し、リーグVに貢献。87、88年に2年連続で首位打者、89年は盗塁王に輝く。87年から5年連続でゴールデン・グラブ賞を受賞。98年に引退後は広島、近鉄、阪神、オリックスほか韓国プロ野球でもコーチを務めた。現役時代の通算成績は1565試合で1546安打、146盗塁、打率2割8分7厘。



    引用元 https://news.yahoo.co.jp/articles/c8e621456396630789da416a49a7eb578a3192b4

     開幕延期で「野球ロス」になっているファンの方々に少しでも心の隙間を埋めていただきたく、Full-Count編集部では“夢のベストナイン”選考をツイッターにて限定アンケートで実施。第4回は広島編。鈴木誠也外野手、菊池涼介内野手が70%を超える票を集めた。多くの部門で赤ヘル軍団を支えた懐かしの名選手の名前が挙がっている。


     編集部の独断で各ポジションでノミネート選手を4人選出。候補選手を挙げるだけでも難航したが、全体で最も票を獲得したのが先発投手部門で1806票を集めた黒田博樹氏だ。前田健太投手(現ツインズ)ら強者揃いだったが、日米通算203勝を挙げた右腕の人気は健在だった。

     最も得票率が高かったのは右翼手部門の鈴木誠也。右翼手部門に投じられた2035票のうち87%にあたる1770票を集めた。二塁手部門では1328票、得票率70%の菊池涼介。他のポジションでは救援投手部門で炎のストッパー・津田恒美氏、三塁手部門で鉄人・衣笠祥雄氏、ミスター赤ヘルの山本浩二氏ら往年の名プレーヤーの名前が並んだ。

     代打部門で浅井樹氏、監督部門では古葉竹識氏がトップだった。代打部門では右の代打として活躍した町田公二郎氏の人気も根強かった。12部門のうち現役は2人だけ。まさに“最強メンバー”となっている。

    【夢のベストナイン・広島編】
    先発 黒田博樹
    救援 津田恒美
    捕手 達川光男
    一塁 栗原健太
    二塁 菊池涼介
    三塁 衣笠祥雄
    遊撃 野村謙二郎
    左翼 前田智徳
    中堅 山本浩二
    右翼 鈴木誠也
    代打 浅井樹
    監督 古葉竹識

    【打順を勝手に組んでみた】
    1(遊)野村謙二郎
    2(二)菊池涼介
    3(左)前田智徳
    4(右)鈴木誠也
    5(中)山本浩二
    6(三)衣笠祥雄
    7(一)栗原健太
    8(捕)達川光男
    9(投)黒田博樹



    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200406-00743424-fullcount-base

    【今とは大違い 俺の新人時代】

     広島といえば、猛練習で知られている。かつてのそれは現在の比ではなく、「あの頃のことは思い出したくない」と本気で言う者もいるくらいだ。

    「僕らのときが一番、厳しかった時代じゃないかな」と話す高ヘッドコーチ(52)は、1985年ドラフト2位で入団。悲鳴を上げたのが、キャンプの午前中に行うウオーミングアップだ。

    「最初に柔軟をやって体をほぐす。そのあとはひたすら2時間走りっぱなしです。まず連帯歩調で声を出しながら、グラウンド10周。そのあとも走るメニューばかりで、守備練習を挟んでから昼食。もうアップだけでヘトヘトになりますからね。走り終わった時点で『よっしゃ! 今日の山は越えた!』ですよ。まだ野球の練習は何もしていないのにね(笑い)」

     午後は打撃練習だが、高コーチは「バットは今の選手の方が振っているんじゃないかな。というのも、昔はマシンが少なかった。2台しかないマシンを順番で打っていたから、待ち時間も多かった」と、振り返る。

     ちなみに地獄のようなアップには理由がある。

    「あの当時は迫丸(金次郎)さんという方がトレーニングコーチでした。現役時代に巨人から広島にトレードで来た人。引退後にコーチになったんですが、選手上がりでトレーニングの専門的な知識がない。野球しかしていないんですから、とにかく『走れ! 走れ!』だったんです(笑い)」

     今の時代では考えられない人事だ。



    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200220-00000007-nkgendai-base

     【江尻良文の快説・怪説】

     日本野球機構(NPB)は25日、怠慢プレーの野間に激怒し、平手打ちした緒方孝市監督(50)を「厳重注意処分」にした広島球団の対応を了承。新たな制裁を科さないと明かした。

     「広島から報告を受けています。NPBとしての新たな処分はありません。あってはならないことなので繰り返さないように伝えた」(井原事務局長)

     一件落着という形だが、まさに時代の流れを感じさせられる。弱小・広島を1975年に球団創設初優勝に導いたのをはじめ、常勝赤ヘル軍団に育て上げた元監督・古葉竹識氏(83)は、見かけは紳士だが、グラウンドでは熱血漢で妥協を許さないスパルタ主義だった。元祖・体罰監督といえる。

     ベンチでの定位置は、バットケースの陰。身を隠すようにしていたが、それにはワケがあった。怠慢プレーをして戻ってきた選手を、テレビカメラに映らないように笑顔で蹴飛ばすのだ。鉄拳制裁では見え見えになってしまうが、下半身はバットケースに隠れているので、笑顔を見せながら、懲罰の蹴りを入れているのはわからない。赤ヘルナインにとっては恐怖の古葉キックだった。

     日本ハムから広島に移籍した大下剛史氏は現役引退後、コーチになってから古葉スパルタ教育の継承者になり、「12球団一の鬼軍曹」として鳴らした。赤ヘルナインだけでなく、他球団の選手にも恐れられていた伝説の鬼コーチだ。

     巨人長嶋第二次政権の時、筆者は「今の巨人の選手には厳しさ、気迫が足りないから、伝説の鬼軍曹・大下コーチを招へい。スパルタ教育をしてもらい、鍛え直してもらったら良いのでは」と、長嶋監督に真面目に提案したことがある。

     ところが「大下は厳しく徹底指導する、素晴らしいコーチだが、ウチの選手には無理。大下と聞いただけで、ちびってオシッコを漏らしちゃうよ」と冗談めかしながら語った。

     その長嶋氏も青年監督だった第一次政権の時には超スパルタ主義。「勝負して打たれるのは仕方ない。だが、逃げまくって四球を乱発するのは絶対に許せない」と、若手投手に鉄拳制裁していたのだ。

     今や「鉄拳制裁=パワハラ」の時代。今回の広島・緒方監督の騒動は象徴的で、プロ野球界も大きく変貌を遂げている。(江尻良文)



    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190727-00000016-ykf-spo&pos=2

     広島・田中広輔内野手が20日の交流戦・ロッテ戦(マツダスタジアム)で先発メンバーから外れ、連続フルイニング出場が635試合でストップした。衣笠祥雄氏の持つ球団記録の678試合にあと43試合のところだった。


     今季は開幕から打撃不振で67試合を終え、打率・188、3本塁打、22打点。19日のロッテ戦(マツダスタジアム)でも40試合ぶりに1番に起用されたが、4打数無安打に終わり、16打席連続無安打となっていた。

     チームは交流戦に入って5カード連続で初戦黒星。19日のロッテ戦の敗戦で3勝9敗1分けとなり、交流戦での負け越しも決まった。緒方監督は開幕から守護神を務め、交流戦中に中継ぎに配置転換した中崎の2軍落ち、不振の田中広のスタメン落ちも決断した。全てはチームのためだ。

     3連覇を達成し、名将の仲間入りをしている緒方監督にとって、実績のある中崎、田中広の処遇は苦渋の決断だったに違いない。ただ、名監督は時として非情な決断も必要だ。

     カープの監督として4度のリーグ優勝、3度の日本一に輝いた古葉竹識氏も苦しい決断をしたことがあった。2215試合連続出場で「鉄人」と呼ばれ、昨年4月23日に亡くなった衣笠祥雄氏の連続フルイニング出場を止めた。1979年5月28日、当時の日本記録である三宅秀史(阪神)の700試合にあと22試合と迫っていたときだった。衣笠氏も79年、打率・198と田中広のように開幕から不振を続けていた。

     スタメンを外すことを決めた古葉氏は昨年、衣笠氏の訃報に接した際に一番の思い出としてこの連続フルイニング出場を止めたことをあげた。「本人は出たかっただろうし、気持ちも乱れたようだが、応援してくれるファンのためにも負けないように選手を使わないといけなかった」と振り返っている。

     連続フルイニング出場の記録は途絶えたものの、もう一つの「記録」である連続試合出場の継続を約束していた。それが同年8月1日の巨人戦(広島)で西本から死球を受け左の肩甲骨を骨折する重傷を負った。連続試合出場も1122試合で途切れるかと思われたが、翌日に代打で出場。フルスイングで空振りの三振で記録を継続させた。

     古葉氏は「死球で肩甲骨を亀裂骨折して、とても試合には出られないだろうとわれわれは思ったが、何としても出ますと言ってベンチに入った。このとき、代打で使ったのが、連続試合出場の世界記録につながった」と話している。

     衣笠氏はこの年、最終打率・278まで上げた。チームは4年ぶり2度目のリーグ優勝を果たし、球団創設初の日本一にも輝いた。田中広に代わって20日のロッテ戦に先発出場したドラ1の小園はプロ初打席初安打を記録。チームも苦しみながら勝利した。しかし、3連覇に貢献した田中広の実力や経験は、小園以上の力と考える。連続フルイニング出場が止まった悔しさを今後の活躍にいかに結びつけるか注目したい。そしてジェットコースターのような戦いが続く広島の最終結果はどうなるだろう。(デイリースポーツ・岩本 隆)



    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190621-00000070-dal-base

     三省堂は9日、「広島カープ」仕様の国語辞典として3月初旬に発売した「三省堂国語辞典 第七版 広島東洋カープ仕様」(3000円、税別)で、用例に登場している11人のカープレジェンドを発表した。


     同書は、装丁だけでなく用語例など内容の一部もカープにまつわる文物や人物に言及し、オリジナル用例を掲載している。うち11の用例には、誰もがレジェンドと認める広島の選手が登場。この日発表されたレジェンドは達川光男氏、江夏豊氏、前田智徳氏、新井貴浩氏、高橋慶彦氏、北別府学氏、衣笠祥雄氏、大野豊氏、津田恒美氏、黒田博樹氏、山本浩二氏だった。

     「球(きゅう)」の項に登場した江夏氏の用例は「(野球などの)たま。ボール。『内角-・一九七九年の日本シリーズを決した江夏の二十一-』」。「-さん」の項に登場した新井氏の用例は「-さん(接尾)(1)人名や人をあらわすことばなどのあとにつけて尊敬の気持ちをそえることば。『新井-・患者-・お客-・(他社をさして)◯◯銀行-』」などとなっている。

     今回発表となった企画は、同書を購入し11人の中から3人以上を見つけ、100人にノベルティが当たるというもの。4月30日に締め切られ、総数1270件の応募があったという。


    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190509-00000104-dal-base

     エースとして広島ひと筋に通算213勝をマークしたプロ野球解説者の北別府学さん(61)が10日、自身のブログを更新。打撃不振が続く中、同日のDeNA戦(マツダ)で20打席ぶりとなる安打を今季1号2ランで飾った広島・田中広輔内野手(29)にかつてのチームメートで昨年4月に亡くなった衣笠祥雄さん(享年71)の姿を重ねた。

     衣笠さんは2215試合連続出場の日本プロ野球記録、678試合フルイニング出場の球団記録を持つ言わずと知れた“鉄人”。田中広は2015年4月1日のDeNA戦(横浜)から現在604試合連続フルイニング出場を続けており、今季中の“鉄人超え”が視野に入っている。

     打撃不振の田中広へ8日のブログで「昨年までどれ程この男に助けてもらってきたか」「これを乗り越えた田中広輔を見たい」と熱いエールを送っていた北別府さん。

     田中広の今季1号が飛び出すと、すぐにブログをしたため「今日、こんな宝物が出てきました」とタンスの中から愛妻が見つけたという「2131試合連続出場記念 1987年6月13日」との文字が刻まれた記念盾の写真をアップした。

     衣笠さんがルー・ゲーリックの持つ2130試合連続出場を超えた記念で作った、その盾の真ん中には「2131」の文字の下に合わせるように「M.KITABEPPU」の文字も。「記念の品に後輩の名前入り。ファンの方や後輩にまで気配りのあった衣笠先輩 先輩と同じフルイニング出場の記録を目指す後輩が苦しんでいる中 衣さんが ファンの皆さんが 見守っている中の先ほどのホームランだと思えました」と思いをつづった。


    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190510-00000220-spnannex-base

    <広島3-2中日>◇23日◇マツダスタジアム

    広島が主砲不在の危機をチーム一丸で乗り越えた。

    4番鈴木誠也外野手(24)がコンディション不良のため、今季初欠場。打線の軸を欠いたが、9回に小窪哲也内野手(34)がサヨナラ打。昨年4月23日に死去したOB衣笠祥雄氏(享年71)の一周忌に5連勝を飾り、チームはDeNAと並び4位に浮上した。

       ◇   ◇   ◇

    白球は水しぶきを上げながら、ぬれた芝生をはねた。2-2の9回。2死満塁から8番で先発出場の小窪は1ボールから高め真っすぐをたたいた。打球は二塁手堂上の後方に上がると、広島ナインの思いも乗って堂上が伸ばしたグラブの上を越えた。今季2度目のサヨナラ勝ち。二塁ベース付近でチームの精神的支柱の1人は、後輩たちからもみくちゃにされた。

    鉄人と呼ばれた広島レジェンドの涙雨が降り続ける中での一戦だった。昨年4月23日に死去した衣笠氏の一周忌。昨年、広島ナインが訃報を知ったのは亡くなってから一夜明けた24日だった。あの日も雨が降っていた。運命のいたずらのように、当時1軍に昇格した平安の後輩高橋大がこの日はスタメンに名を連ねた。

    偶然はそれだけではない。あの日はケガからスタメン復帰した鈴木が、この日はスタメンから外れた。試合前の全体練習でウオーミングアップには姿を見せるも、フリー打撃や守備練習などに姿はなかった。緒方監督が「コンディション不良」と説明。今季初めて4番を欠く緊急事態。FA移籍の丸や頭部死球で離脱中の松山を含めれば、昨年のクリーンアップを欠く打線だった。

    それでも広島は粘り強く戦った。大先輩の教えでもある。プロ初先発の20歳アドゥワが1回に先制弾を浴びながら7回2失点の粘投。先制された直後に長野の本拠地初打点となる犠飛で追い付き、2回には今季初スタメンマスクの磯村の左翼への1発で勝ち越した。勝負を決めた小窪は「(衣笠氏には)会えば頑張れよと声をかけてもらっていた」と懐かしんだ。

    あの日と同じように、総力戦で白星をもぎ取った。あの日は5連勝のきっかけをつくり、この日は5連勝とした。緒方監督は「開幕からいいスタートを切れなかったので、また1戦1戦戦う。カープの野球をやるだけです」と、継承する広島野球を貫いてリーグ4連覇を目指していく決意を固くした。【前原淳】

    ◆衣笠氏の弔い勝利 広島OB衣笠祥雄氏の死去が伝えられた後の初の試合となった、18年4月24日DeNA戦(横浜)の試合前、広島ナインは宿舎出発時に訃報を知った。試合は打線が序盤から効果的に得点を重ね、7-2で快勝。緒方監督は「シーズン終了後には優勝と日本一の報告ができるように、我々も精いっぱい戦っていくだけです」と悲しみをこらえた。


    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190423-04231000-nksports-base

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