広島カープブログ

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    金本知憲

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    【正田耕三「野球の構造」(27)】好事魔多しとはよく言ったものです。二塁のレギュラーへと大きく前進した入団2年目の1986年は、これからというときに思いもよらないハプニングに見舞われました。

     6月22日に札幌・円山球場で行われたヤクルト戦で、3試合ぶりに「7番・二塁」でスタメン復帰した僕は2安打をマーク。


    雨天中止などで4日後になった次戦、26日の旧広島市民球場での中日戦でも3安打するなど、21日の時点で2割5分9厘だった打率は一時的に3割1分9厘まで上がりました。

     7試合連続スタメン出場となった7月5日の大洋(現DeNA)戦を終えて21打数9安打。その間はチームも引き分けを1つ挟んでの4連勝を含む5勝1敗と絶好調で、2年ぶりのリーグ優勝に向けて首位巨人を猛追していました。


    そんな矢先です。7月6日、舞台は前日と同じ新潟県の鳥屋野運動公園野球場でした。0―0の3回表。一死一、三塁か一死一、二塁だったと思います。打者の高木豊さんが放った打球は注文通りの二ゴロで、先発の白武佳久さんは4―6―3の併殺でピンチを切り抜けました。


     ベンチのムードも盛り上がるなか、僕だけはピンチに陥っていました。実は捕球の際に打球がイレギュラーし、右手に当ててしまったのです。その後も痛みをこらえて試合に出続けましたが、2打席連続で凡退していたこともあり、1―2の7回裏に西田真二さんを代打に送られてベンチへ退きました


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    引用元 https://www.tokyo-sports.co.jp/baseball/npb/1897413/

    <3連覇思想>

    指揮官として広島を3連覇に導き、日刊スポーツ評論家に就任した緒方孝市氏(51)の「3連覇思想」、最終回は「転機」の重要性について語ります。



      ◇    ◇    ◇

    選手にとっての「転機」ということを考えてみたい。誰にでも気持ち、プレーが変わるきっかけのようなものがあると思っている。選手、コーチ、そして監督として、ここまでやってこれた自分を振り返れば、母親がこの世を去ったとき、そこが生まれ変わる転機だったと考える。

    入団9年目の95年6月6日、自分が26歳のときに母が亡くなった。52歳だった。2年間ぐらい闘病していて回復の兆しもあったのだが無念の結果になった。今年、自分がその52歳になるのだが、当時はそんな年齢でこの世を去ってしまうのか…と衝撃を受けた。

    2人の妹、親類もみな、すごく悲しんだ。そんな中でもっとも驚かされたのは父親の姿だった。実家は佐賀・鳥栖の海産物卸売り業。両親共働きだったが特に父親は昔かたぎの厳しい仕事人だった。子どものときに一緒に遊んでもらった記憶はまったくないし、楽しく思い出すのは小学生のとき、野球のグラブを買ってもらったことぐらいだ。

    そんな父親が母のことで見ていられないぐらいに落ち込んでしまった。その父も昨年(19年)に亡くなったので、もう話してもいいと思うのだが、こんなことがあった。

    「緒方の父親が母の墓前で倒れている」。そう言って救急車が呼ばれたことがあった。事実は早朝からの仕事を終え、墓参に行った父が母の墓に触れながら話しかけているうちに寝込んでしまったのだ。しかし、その様子を見た知り合いが「倒れている。大変だ」と思って救急車を呼んでくれたということだった。

    それほど元気をなくしていた父親だったが唯一と言っていいぐらい喜んでくれたのが自分の野球での活躍だった。母親も生前、鳥栖から広島までこっそり見に来てくれていたということは後で聞いた。両親ともに応援してくれていたことをあらためて思い知った。

    父を元気づけるために何ができるのか。そう考えたとき、広島で活躍し、メディアに取り上げてもらうことしかなかった。正直、それまでは1軍半のような選手だったがそこから必死になった。そのシーズンに盗塁王を取ったこともあり、次第にレギュラーと言われるようになった。

    転機と言ったが何かのきっかけで「これでいいのか」と感じることが大事なのでは、と思う。実力がありながら伸び悩んでいるような選手はそんなことも少し考えてほしい。(日刊スポーツ評論家)



    引用元 https://www.nikkansports.com/baseball/column/analyst/news/202006040000476.html

    「このままチームを任せて本当に大丈夫なのか」  再び最下位に転落した広島周辺では、日増しにそんな声が大きくなっているという。


    今季、2016年からリーグ3連覇を達成した緒方前監督からチームを引き継いだ佐々岡真司監督(52)だが、ここまで11勝17敗3分け。開幕から1カ月強で首位巨人には8・5ゲーム差をつけられるなど、波に乗れない。その最大の原因が佐々岡采配にある、というわけだ。  中でも、チーム防御率はリーグ5位の4・62と投手陣は壊滅状態。投手中心の守り勝つ野球を掲げながら、自ら「それができない」と頭を抱えている。広島OBで元最多勝投手の高橋里志氏は、「守護神候補だった新助っ人スコット(年俸5700万円)が6試合登板で防御率22・50と大誤算だった上に、中崎(27)や今村(29)ら実績のある救援陣が過渡期に入っている。開幕前に懸念していたことが、そのまま結果に表れてしまっています。多少の結果には目をつむって、塹江(23)や島内(23)ら、イキのいい若手に切り替えてもいいかもしれない。一部のファンからは『佐々岡じゃあ厳しい』という声を聞くのは事実ですが、シーズンは始まったばかり。性格的にも周りのコーチの意見を聞く耳もあると思うし、ここから巻き返してほしいですね」  と、今後の変わり身に期待をしているが、2―3で敗れた28日の中日戦で1点差ゲームは0勝5敗。引き分けの3試合も、すべて七回まで1点リードしながら継投失敗で追いつかれるなど、競り負けが多い。弱いチームの典型といっていい。

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    引用元 https://news.yahoo.co.jp/articles/76afbcf629a311f6d4c3e85aef00aaba52606a84

     プロ野球で、数々の強打者育成に尽力した内田順三氏(前巨人巡回打撃コーチ)の教え子には、想像を超えて飛躍を遂げた選手たちがいる。その代表例である金本知憲氏と新井貴浩氏について、共通点を聞いた。

      ◇  ◇

     金本は東北福祉大から、91年ドラフト4位でカープに入団。三村敏之さんが2軍監督時代から目をかけ、1軍に抜てきすることになるが、入団時は線が細く、後に3割30本100打点をマークするなんて想像もできない選手だった。打撃は左中間に運ぶ技術はあったが、右肘や右肩が上がって脇が甘くなる欠点があり、内角のスピードボールへの対応が課題だった。

     上からたたく練習を繰り返して克服していったが、1軍で活躍するようになってもネクストサークルでは極端なダウンスイングで意識付けを行っていた。相手ベンチからその姿を見て、巨人の若手に伝えたこともある。

     1、2年目はファームの遠征メンバーから外れたこともある。当時、私は2軍打撃コーチだったが、「残留組は1日1000スイングをやるように」と伝えていた。1000スイングなんて、本当にやろうとしたら大変なこと。半信半疑で言ったつもりだったが、居残った川端(当時の2軍投手コーチ)によると、金本だけは本当にやっていたらしい。大学入学前に一浪した経験もあったからか、反骨心は相当なものだった。

     あの時代では珍しく、積極的に筋力トレーニングに励んだことも飛躍の一因となった。車でいうエンジンの排気量が増すことで、体力もつき、打球にも力強さが加わるようになった。金本の鍛え抜かれた肉体は球界でも有名で、あの長嶋さんも注目していたそう。オールスターの時には「金本の体を見てみたいから風呂に入る時に教えてくれ」と周囲に言っていたそうだ。

     金本同様、新井も努力のふた文字なくして語れない選手だろう。広島とパイプの太かった駒大から、98年ドラフト6位で入団。体は大きかったが、大学でも通算2本塁打。周囲も「何とかものになれば」というくらいの評価で、まさか名球会に入るほどの選手になるとは誰もが思わなかっただろう。

     守備も課題だらけ。駒大の先輩である大下ヘッドコーチが朝からずっとノックをガンガンやっていたが、「これだけやっているなら新井を試合で使うのも当然だろう」と周囲を納得させるほどの練習量だった。

     金本の背中を見て育った新井。これは江藤もそうだったが、彼らに共通するのは体が元気なこと。けがもしない。過酷な練習をしても、すぐ元気になる。多くの選手は辛抱するのが精いっぱいで顔に出るものだけど、彼らにはそうしたことが全くなかった。

     その後、広島・鈴木誠也の2軍時代に指導した経験があるが、彼を見ていると、金本や新井の姿に通ずるハートの強さがあった。いい意味で眼力の鋭さがあり、なにくそ精神でこちらにぶつかってきていた。会うたびに、体もどんどん大きくなっている。技術だけではない、ハートや体の強さ。若手が育つカープの土壌には、こうした伝統がしっかり根付いている。


    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200512-00000107-dal-base

     暗い話題が多い、こんな時だからこそ、楽しいことを考えないと!! そこでスポニチが独断と偏見に想像力も働かせて、つくってみました。時代を超えた「ご当地オールスターチーム」。一時代を築いた名選手たちが同じチームだったら……。読者の皆さんも本紙選定チームを叩き台にしてオリジナルチームを選考してみては。今回は広島です。

     各地区のドリームチームの中でも、広島の外野のレベルの高さは群を抜く。ミスター・赤ヘル山本浩二(廿日市)、世界の鉄人・金本知憲(広陵)、そしてトリプルスリー・柳田悠岐(広島商)と現役を含めて、各世代を代表する名手がそろっている。

     金本のプロ入団時の監督が山本だった。子供のころからの憧れ。「監督がスタメンに悩むことのない存在になりたい」というのが、フルイニング出場へのこだわりとなった。大差がついても、雨が降っても、骨にヒビが入っても、金本は試合に出続け、1492試合連続フルイニング出場の世界記録につながった。

     阪神でも03年、05年のリーグ優勝に貢献。「アニキ」としてファンに慕われた。00年にはトリプルスリーも記録。柳田もパMVPに輝いた15年にこの勲章を手にした。打力だけでなくスピード、肩を兼ね備えた外野陣だ。南海、松竹などで活躍した「神主打法」の岩本義行(広陵中)も50年に・319、39本塁打、34盗塁で初代のトリプルスリーを記録した外野手だ。

     日本記録の3085安打をマークした安打製造機・張本勲(松本商・浪華商)は45年8月に広島で被爆した体験を今も語っている。「物干し竿」と呼ばれた長尺バットで一世を風靡(ふうび)した藤村富美男(呉港中)は押しも押されもせぬ初代ミスタータイガース。チームが8球団中、6位に沈んだ49年には安打、本塁打、打点のシーズン記録を更新し、MVPに選ばれたほどだ。

     メンバーには入らなかったが、記しておかなければならない広島出身の野球人がいる。石本秀一(広島商)は監督として広商野球の礎を築いた後、プロ野球6球団で監督を務めた。戦前1936年には大阪タイガース2代目監督となり、打倒巨人の意識を浸透させ、今日の伝統の一戦に繋げた。50年には広島の初代監督にもなった。

     さらにタイガース創立時のメンバーで、いずれも広陵中出身の捕手・小川年安、遊撃・岡田宗芳、同じく巨人の初代メンバー田部武雄はそれぞれ召集され、戦死。認知度も低い職業野球に情熱を注ぎ、戦争に苦しんだ先人の思いを、危機に直面した今、思い起こしたい。

     さてメンバーは捕手・達川光男(広島商)、一塁・新井貴浩(広島工)、二塁・大下剛史(広島商)、遊撃・広岡達朗(呉三津田)で出そろった。エースはロッテで通算215勝したマサカリ投法の村田兆治(福山電波工)。現阪神投手コーチに福原忍(広陵)、現ヤクルト監督の高津臣吾(広島工)ら控えも多彩だ。

     監督として日本プロ野球最多の1773勝を誇る鶴岡一人(広島商)が、広島のじゃけえ軍団を率いる。「グラウンドには銭が落ちてる」と選手の目の色を変えてみせるはずだ。(鈴木 光)



    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200421-00000012-spnannex-base

     広島東洋2位のルーキー・宇草 孔基(常総学院出身)が9日の紅白戦で本塁打を放ち、アピールに成功した。

     高校時代、選抜で1試合5盗塁。さらに東京六大学通算11盗塁と突出したものではないが、塁間タイム3.8秒と超俊足の宇草がプロの扉を切り開いたのは打撃面の成長が要因だ。3年春、3年秋で二季連続で打率3割。さらに二季合わせて6本塁打。走れて打てるアスリート型プレイヤーとして評価を高めた宇草は大学日本代表入り。そして2位指名でプロ入りとなった。

     その宇草の打撃面はさらに成長を見せている。それは打球に強い力を伝える技術が格段にも上がったことだ。

     大学時代はすり足気味だったが、ノーステップ気味に変化。宇草がよいのは捕手側の左手を支点にして、少し捻りを入れて、ボールを手元で呼び込み、骨盤を一気に旋回させる打法で打球を飛ばしている。細身だが、体の回転が鋭いので、しっかりとボールに力を伝えるスイングができている。それができるのも軸がぶれず、体の回転をしっかりと伝えられるノーステップにあるだろう。あとは、様々なコースを強く叩く感覚を身についたら、もっと打率、本塁打を残せる選手になるのではないだろうか。宇草はこの一軍キャンプについて充実の日々だと感じている。

    「周りのレベルも高いですし、練習の内容も濃いと思います。無駄な時間がないですし、1日1日、1球1球集中できていると感じます。先輩方優しいですので、コミュニケーション取ってくれます。龍馬さん、野間さん、誠也さんが声をかけてくれていますので、勉強になっていきます」
     意識の高い先輩に揉まれながら、成長を実感している。今後も、「一生懸命1日1日過ごしていければと思います」と意気込んだ宇草。このキャンプの猛アピールでオープン戦でも一軍に帯同し、さらには開幕一軍をつかむことができるか注目したい。



    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200210-00010006-hbnippon-base

    【名伯楽「作る・育てる・生かす」】#19

     同い年の緒方孝市にライバル心を燃やしていた金本知憲も思い出深い。

     東北福祉大から1991年のドラフト4位で入団。1、2年目は二軍暮らしが続いた。広島は二軍の遠征費用を抑えるため、野手4、5人を残留させていた。金本は遠征メンバーに入れず、留守番となったことがある。当時、ウエスタン・リーグの日程は、大阪で阪神、近鉄と戦い、1週間ほどで帰広することが多かった。二軍打撃コーチだった私は、実際にやるかどうか半信半疑で、こう言い残し、遠征に向かった。

    「残留組は1日1000スイングがノルマだぞ」

     金本はそれを忠実に実行し、毎日1000回振っていたそうだ。残留組の練習に付き添った川端順二軍投手コーチから後になって聞いた話だ。金本個人に言ったわけではない。残留組の全選手に向けた言葉だったが、守ったのは金本だけだったという。

     大卒なのに……という反骨精神に火がついたのだろう。1年目から一軍で49試合に出場、専大からドラフト1位入団で同期の町田公二郎にもライバル心を燃やしていた。

    ■「モグラ殺し」

     二軍でくすぶっていた金本は非力だったため、「転がして足を生かせ」と言うコーチもいた。外野守備では送球を地面に叩きつけてしまうことが多く、「モグラ殺し」という、うれしくない異名も頂戴した。それでも、走力はあり、身体能力も高かった。打撃は内角への対応はまだまだだったが、逆方向の左中間へ鋭い打球が飛ばせた。化ける要素はあった。

     当初は内角球を打つ際、右肘や右肩が上がってしまっていたため、グリップを意識的に膝元に落とすことで、脇を締めようとしたのだ。

     悔しさをバネにした。自分の体力的な弱点を克服するため、シーズン中もオフも、広島市内にあるジム「アスリート」に通い、ウエートトレーニングに力を入れた。筋力を蓄えることで、車でいうエンジンの排気量が上がっていった。パワーがつき、打球に力強さが加わった。金本のトレーニング法が後輩の新井貴浩や鈴木誠也らに引き継がれ、カープの伝統になった。先駆者として金本が残した功績といえる。

     94年に三村敏之監督(享年61)が就任すると、レギュラーに定着した。金本の体の強さや試合を休まない根性を買っていた。三村監督には「ケース・バイ・ケース」というカープのチームに貢献するための打撃を叩き込まれた。阪神にFA移籍し、星野仙一監督に「阪神の4番なんだから自由に打て」と言われても、根底には「チーム打撃」という考えが染みついているように見えた。金本は三村監督がつくり上げたといっても過言ではない。

     その金本と師弟関係だったのが新井である。

    (内田順三/前巨人巡回打撃コーチ)



    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200204-00000008-nkgendai-base

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