広島カープブログ

広島カープのまとめブログです!試合速報、日程、選手、グッズ情報など広島カープに関連する情報を配信していきます!

    高校時代

    黒田は南海の野手としてプレーした父一博の次男として生を受けた。幼少期から野球は身近なものだった。家に父の現役時代の写真が飾られ、南海の試合を見に行けば、試合前に父がベンチ裏へ下りていって選手のサインをもらってきてくれたこともある。ただ、プロ野球選手の息子という特別な意識はなかった。



    黒田 生まれたときにはもう現役を引退していたので、現役時代を知らない。プロ野球選手はたくさんいたので、ただその中の1人という感覚。特別なことではないと思っていた。

    現役を引退した父はスポーツ用品店「クロダスポーツ」を営んでいた。黒田が小学6年のときに南海が消滅。父がプロ野球選手という意識はほとんどなかったが、成長とともに父の偉大さも感じるようになった。南海のOB会のゴルフが行われる日には、監督経験のある杉浦忠が黒田家に迎えに来ることもあった。

    小さいころは、母靖子がキャッチボール相手だった。両親から勧められるわけでもなく、小学校の友達が入っているという理由で小学1年のときに野球チームに入った。「練習に参加してボールを追いかけて、というのが楽しかった」。当時はまだ、普通の野球少年だった。

    小学5年のときに、父一博が監督に就任したボーイズリーグ「オール住之江」に入った。当時から球が速く、投手を務めるようになった。ただ、野球が盛んな土地柄もあり、周囲の目は厳しかった。「監督の息子」ということで、保護者の中には「自分の息子ばかり試合に使って」と言う者もいた。そんな声は黒田少年の耳にも入っていた。「結果を残して黙らすしかない」。子どもながらに責任感が芽生えた。

    父一博は野球に対しては厳しかった。特に準備、道具を大切にすることには厳しかった。家に帰っても、練習をさせられた。素振りだけでなく、砂袋を腰に巻いて走りに行かされることもあった。それでも黒田少年は純粋に野球が楽しくてしょうがなかった。やらされた感覚はない。

    黒田 まったく苦にならなかった。土曜になるとすごくうれしくて、学校にいても土日の野球のことばかり考えていた。体育の授業でケガしないように気をつけていたことも覚えている。

    自然と、そして深く野球にのめり込んでいった。当時から高校野球が好きで、夏休みには家の近くの住之江球場へ1人、府大会を見に行くこともあった。中学時代も続けた野球は、高校野球へのステップアップと位置づけていた。「甲子園に行きたいのと、自分の力を試したい。どこまで通用するか楽しみもあった」。大阪の強豪校を希望し、上宮のセレクションを受け、見事に合格。ほかは受けなかった。

    黒田が中学3年になった89年、上宮は元木大介(のち巨人)や種田仁(のち中日)らを擁してセンバツで準優勝、夏の甲子園では8強に入った強豪校だった。「ワクワク感はすごくあった。あとはおやじが監督をやっていた下で野球をしていた環境から、離れて野球をする楽しみもあった」。希望にあふれていた。だが、黒田少年が抱いた大きな希望はすぐに崩れ落ちることになる。上宮の門をくぐると同時に、野球は苦しみに変わった。(敬称略=つづく)【前原淳】

    (2017年12月13日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)


    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190109-00435944-nksports-base

    全国高校野球選手権大会が100回大会を迎える2018年夏までの長期連載「野球の国から 高校野球編」の、元球児の高校時代に迫る「追憶シリーズ」第26弾は黒田博樹氏(42)が登場します。甲子園出場がなく、公式戦登板も数えるほどしかなかった上宮(大阪)での3年間。チームで控え投手のままだった右腕は苦しい日々の中でどう過ごし、何を感じたのか-。全10回で振り返ります。



      ◇   ◇   ◇   

    栄光を積み重ねたマツダスタジアムの記者席で、黒田は言葉を絞り出すように話した。高校時代の3年間に思いをはせ、「走らされていた記憶しかない」と振り返った。フラッシュバックするのは、苦しかった当時の情景ばかり。できれば思い出したくなかったのかもしれない。

    広島だけでなく、米国の名門ドジャースやヤンキースでも輝かしい足跡を残した日米通算203勝の大投手も、上宮では3番手投手だった。3年夏は登板さえかなわなかった。無力さとともに味わった悔しさが野球人生の礎となり、糧となり、黒田博樹という投手をつくってきた。出場辞退という予期せぬ形で、甲子園出場がかなわなかった悲運もあった。

    黒田 同級生に聞かれると何を言われるか分からないけど、いま考えれば(甲子園に)出られなくて良かったかなと思う。当然、当時は出たかった。でも出なかったから、今の野球人生があると思う。

    中学時代まで楽しいと思っていた野球が、高校で一瞬にして楽しくなくなった。練習試合に投げれば制球を乱し、罰走を命じられた。自信もなく、自分を支える実績を積み重ねることができなかった。頭角を現した専大でも、確かな自信を得ることはできなかった。それはプロ入りしても変わらない。広島でエースとなっても、米大リーグで名門の大黒柱となっても変わらなかった。自信がないから常に全力を意識した。「1球の重み」と表現したように、マウンドではすべてをかけて腕を振った。

    広島でエースと呼ばれるようになった2000年代から他球団に所属する先輩後輩へのあいさつを避けるようになった。たとえ先輩選手であっても、あいさつに行かないことも増え、後輩からのあいさつも敬遠してきた。オフになれば他球団の選手から食事に誘われる機会もあったが、断った。

    黒田 (エースとしての)立ち居振る舞いがある。へらへらするのが嫌だったし、チームの士気にも影響すると思っていた。違うユニホームの選手には敵対心を持って戦わなければいけない。チームメートは守らないといけない。そういう意識が強かった。そうしないとマウンドで目いっぱいインサイドに投げられない。

    生きるか死ぬかの世界で生き抜くすべだった。「自分が弱いことを知っているから。それくらい徹底しないとこの世界では、結果を残せないと思っていた」。高校時代に辛酸をなめた経験から、導き出されたスタイルでもあった。

    06年に広島でFA権を取得し、高額オファーを受けても、国内他球団への移籍は考えられなかった。移籍が活発な米大リーグでも7年間で所属したのは2球団のみ。黒田の謙虚さは、より良い条件を求めて球団と交渉する代理人には珍しく映り「メジャーリーガーで最も自己評価が低い選手」とまで言われていたほどだ。

    甲子園出場がかなっていれば、黒田の野球人生は大きく変わっていたかもしれない。いや、変わっていただろう。本人も認める。

    黒田 たぶん変わっていたと思う。でも、そこからおかしくなっていたかもしれないし、野球をやめようと思ったかもしれない。万が一、いい投球をしていたら、そこでプロに入れていたかもしれない。そうなると違う球団でプレーしていたかもしれないし、ここまで野球をできていたかも分からない。全く違う人生だったと思う。

    高校時代に日の目を見なかった右腕が、大投手への階段を上がったサクセスストーリーは、多くの高校球児たちに夢を与えるに違いない。(敬称略=つづく)【前原淳】

    ◆黒田博樹(くろだ・ひろき)1975年(昭50)2月10日生まれ、大阪市出身。「オール住之江」から上宮へ進学。1年秋からベンチ入りするも、3年間で公式戦登板はわずか。3年夏も3番手投手で出番がなかった。専大を経て、96年ドラフト2位(逆指名)で広島入団。01年に初の2桁勝利をマーク。04年アテネ五輪で日本代表として銅メダル獲得に貢献。05年最多勝、06年最優秀防御率のタイトルを獲得。07年オフにFAでドジャースへ移籍し、12年1月にヤンキース移籍。15年に広島復帰、16年のリーグ優勝に大きく貢献した。日米通算533試合に登板して203勝184敗1セーブ、防御率3・51。大リーグ通算79勝は野茂(123勝)に次ぐ日本人2位。現役当時は185センチ、93キロ。右投げ右打ち。

    (2017年12月12日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)


    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190108-00434613-nksports-base

    「親分」と慕われた元南海監督、鶴岡一人の長男・鶴岡泰(現山本泰=72)は、1974年(昭49)4月にPL学園の野球部監督に就任した。7年間の監督生活を振り返り、PLにとって、初の甲子園全国制覇のピッチャーで4番だった西田真二のことは、「ヤンチャ坊主の印象が強烈に残っている」という。


    山本泰 ある時、キャプテンの木戸がやってきて、ボクもう野球やめます。その代わり、西田を殴ってもいいですかって言うんです。それぐらい西田は個性的な選手でした。(78年夏の甲子園)決勝でサヨナラヒットを打った柳川という選手がいたのですが、彼は頭がいいし、ケンカも強く、責任感の強い男でした。彼に西田と木戸のことも言い含めて、チームのまとめ役をお願いした。個性の強い選手がそろっていたチームで、とりわけ西田の存在というのは目立ちました。

    西田はアマ時代も、プロに入ってからも、目立つ存在だった。しかし、大胆で豪快なイメージがある一方、繊細な一面がある。

    全寮制だったPLには、休部の遠因ともなった「付き人制度」がある。特定の上級生の身の回りの世話を、特定の下級生がする制度で、今も年1回行われるOB会総会では、そのことが話題になって盛り上がる。賛否両論あるが、名門・PLの伝統の制度だ。

    西田 ボクって結構先輩にはズケズケと話すタイプなんです。でもね、この年齢になって感じることですが、先輩を含めいろいろな人にズケズケ話しますが、本音を話して、真剣にお付き合いしてきたことが、今は自分の人脈として大きな財産になっています。高校、大学、プロ…ユニホームを脱いでからも、解説の仕事をさせていただいたり、コーチもやらせてもらった。そして、今はこうして独立リーグの監督として野球をやらせてもらっている。ありがたいと感謝しているんです。

    西田の繊細な一面は、今でも下級生の「元付き人」と連絡を取り合いながら、親しく付き合っていることだろう。「お世話した上級生は忘れましたが、お世話してくれた下級生は一生忘れません」と言う。

    その一方で、山本は「相手の反応をうかがいながらすぐに対応する能力を持ち合わせている」と明かす。孤高のマウンドで相手打線と立ち向かう投手の仕事がら、ピタリとハマる性格だったのだろう。

    西田はPLのエースとして独り立ちし、いよいよ「奇跡の夏」を迎える。(敬称略=つづく)【井坂善行】

    (2017年11月25日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)


    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20181223-00422379-nksports-base

    現在は休部状態とはいえ、甲子園で7度の全国制覇を誇るPL学園を語る時、この人物を抜きには語れないだろう。


    井元(いのもと)俊秀、81歳。PLの1期生で、学習院大時代は投手として神宮で活躍した経験を持つ。野球の実績だけでなく、元スポーツ紙の記者でもあり、プロアマ問わず、球界における人脈には定評がある。

    PLでスカウトを務めていた井元に、「和歌山にすごいピッチャーがいる」との情報が入ったのは、1975年(昭50)の年明けだった。しかし、4月になって、この中学生にはPL進学を断られた。落胆した井元だったが、「もう1人、いい選手がいます」と聞きつけ、和歌山市にある河西(かさい)中学へと足を運んだ。西田真二だった。

    その時の光景を、井元は鮮明に記憶している、という。PLに関係する選手は、のべ500人を超える素材を見てきた。だが、「こんな型破りなタイプは、後にも先にも西田がNO・1」と断言する。

    井元 ちょうど目当ての西田がバッティングをしていたのですが、いつまでたっても西田しか打たない。つまり、他の野球部員を全員で守らせて、一人打ち続けているんです。それが終わると、今度は西田がノックをする。他の野球部員全員が、西田のノックを受けていました。

    直感的に、井元は「面白い素材」と見抜いた。しかし当時、和歌山には神奈川の東海大相模も情報網を張り巡らせており、すでに西田の元にも、元巨人監督・原辰徳の父親である監督の原貢が熱心に勧誘に動いていた。

    負けず嫌いな井元は、「西田争奪戦」に血が騒いだ。70年の夏の52回大会、初めて甲子園で決勝に進んだPLは、原貢率いる東海大相模に6-10で敗れている。その雪辱もあり、井元の「西田詣で」が始まった。

    メモ魔でもある井元の当時の手帳には、西田獲得のために日参した36回の日時が記されていた。西田の自宅の電話番号は「0734-51-○○○○」。今回の取材でも、もう40年以上前のことをスラスラと覚えていたほどだ。

    井元はPL進学に対する西田の条件を聞いて、仰天する。

    「ピッチャーはボク1人でいいです。他のピッチャーは取らないでください」

    井元に情報をくれた人が「全国制覇するか、PL野球部がつぶれるかという選手」と語ってくれた理由が、この時初めて理解できた。

    (敬称略=つづく)【井坂善行】

    (2017年11月22日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)


    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20181220-00417401-nksports-base

    全国高校野球選手権が100回大会を迎える2018年夏までの大河連載「野球の国から 高校野球編」。元球児の高校時代に迫る「追憶シリーズ」の第24弾は、西田真二氏(57=四国IL香川監督)です。大阪・PL学園の4番&エースで、1978年(昭53)夏の甲子園で全国制覇。準決勝、決勝とも敗戦寸前の9回に追いつき、逆転、サヨナラで勝つ「逆転のPL」を生んだヒーローでした。昨夏限りで休部した全国制覇7度の同校硬式野球部も追憶し、全8回でお届けします。

        ◇      ◇     

    しっかりと五角形のホームベースを踏み、決して長くはない両腕を高々と上げた。チームメートが、「奇跡の主役・西田」を迎えると、一塁側ベンチは空っぽになった。

    夏の高校野球選手権大会のフィナーレは、いつの時代も感動的だ。だが、39年前の夏、78年の60回記念大会の幕切れは、高校野球史に残るほど劇的で、ドラマチックで、奇跡的だった。

    「戦いは終わった。甲子園の夏は終わった。3-2。PL学園、初優勝。青春のドラマは今、終わりました。まさにPL、奇跡の逆転。サイレン鳴って、もう戦いはありません」

    ネット裏にある朝日放送のブースで、「甲子園は清原のためにあるのか!」など、数々の名実況で有名なアナウンサー・植草貞夫が叫んだ。甲子園は興奮というより、異様な、騒然とした雰囲気に包まれた。「逆転のPL」が誕生した瞬間だった。

    3年間の高校野球生活をかけた最後の夏は、全国各地で行われる予選大会でも、信じられない逆転ドラマが展開されている。しかし、PLは甲子園を舞台に、しかも準決勝、決勝の大一番で2日続けて9回に追いつき、逆転、そしてサヨナラで優勝を決めた。PLはその後も逆転を伝統にし、強い強豪校というより、「筋書きのないドラマ」を演じる人気校となって甲子園を沸かせた。

    西田 教団の教えが、粘って粘って粘り抜けだった。予想通りにならないのが野球の面白いところだし、甲子園の大観衆もすごく力を与えてくれた。苦しい状況でも粘り抜く気持ちでやっていたが、あんなことが起こるとは…。逆転のPLって、いい表現ですよね。マスコミの方に感謝しないと…。桑田も清原もあの試合を見て、PLに進学してきたそうです。もちろん、ボク自身も人生を変えてくれた逆転優勝でした。

    PL卒業後は法大に進み、82年ドラフト1位で広島入団。13年間のプロ生活の多くは代打の切り札としての活躍だった。だが、その勝負強さを支えたのも、「逆転のPL」の主役を演じたことによるものだろう。

    西田は今、独立リーグの四国アイランド・リーグ「香川オリーブガイナーズ」の監督として、プロを夢見る若い選手と一緒に汗を流す毎日を過ごしている。

    西田 高校、大学、プロと、ずっと野球をやってきましたが、振り返ると、すごく恵まれた環境でした。でも、今預かっている選手たちは、ホントに厳しい中で野球をやっている。環境は悪くないけど、収入という点では厳しいです。独立リーグという性質上、仕方ないことですが、そんな中から1人でも2人でもプロの世界へ送り出してやりたいと思っています。

    母校のPL硬式野球部は今、休部となっている。昨年の夏を最後に野球部は存在せず、高野連にも加盟していない状態である。西田は「寂しいのひと言に尽きる」としか言わなかった。だが、西田らの時代は教団、学園を挙げて「悲願の日本一」に向けて、PLが一体となっていた。まさに、「隔世の感あり」ということになる。

    中学時代、和歌山で有望選手として注目されていた西田とPLは不思議な縁でつながっていく。「逆転のPL」のドラマは、その時から始まっていた。(敬称略=つづく)【井坂善行】

    78年夏の甲子園

    ▽準決勝(8月19日)延長12回

    中京 000 101 011 000  4

    PL 000 000 004 001X 5

    【中】武藤、黒木、武藤-阪本【P】西田-木戸 [三]辻、栗岡(中)、西田(P)[二]柳川、戎、渡辺(P)

    ▽決勝(8月20日)

    高知商 002 000 000  2

    P L 000 000 003X 3

    【高】森-坂上【P】西田-木戸 [二]木戸、西田、柳川(P)

    ◆西田真二(にしだ・しんじ)1960年(昭35)8月3日生まれ、和歌山市出身。78年PL学園のエース兼4番として春の甲子園ベスト8、夏は同校初の全国制覇を導く。法大で外野手に転向し、東京6大学ベストナイン5回。82年ドラフト1位で広島入団。主に代打の切り札として活躍。91年は山本浩二監督のもと後半戦で4番も務め、リーグ優勝に貢献。95年引退までの13年間で出場787試合、打率2割8分5厘、44本塁打、226打点。引退後は3年間広島でコーチを務め、07年から香川監督。174センチ、82キロ。左投げ左打ち。

    ◆井坂善行(いさか・よしゆき)1955年(昭30)2月22日生まれ。PL学園(硬式野球部)、追手門学院大を経て、77年日刊スポーツ新聞社入社。阪急、阪神、近鉄、パ・リーグキャップ、遊軍記者を担当後、プロ野球デスク。92年大阪・和泉市議選出馬のため退社。市議在任中は市議会議長、近畿市議会議長会会長などを歴任し、05年和泉市長に初当選、1期4年務めた。現在は不動産、経営コンサルタント業。PL学園硬式野球部OB会幹事。

    (2017年11月21日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)


    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20181219-00417389-nksports-base

     今夏で100回大会を迎えた全国高校野球選手権記念大会もいよいよ21日の決勝戦を残すのみ。長い歴史の中で数々の名勝負、ドラマが生まれてきた。Full-Countでは選手、コーチたちに甲子園を目指した高校時代を振り返ってもらった。今回は広島工出身の新井貴浩。



     新井の最後の夏は1994年の第76回大会。広島県大会4回戦で西条農に4-5で敗れた。新井の1年時に広島工は甲子園に出場しているが、新井はベンチ入りのメンバーに入っておらず、高校球児として甲子園でプレーする夢はかなわなかった。しかし、“県工”は大方の様相を覆すジャイアント・キリングを起こしていた。

    「この年は、二岡(智宏)と(福原)忍がいた広陵が絶対的に強かった。周りはみんな、県工が広陵に勝つわけがないと思っていた」

     前評判は決して高くなかったチームの4番打者、主将として、3回戦で最強チームの声もあった優勝候補を撃破。「不可能なことはない。やればできるんだということを経験した」という新井の言葉は、駒大進学後、ドラフト6位入団から名球会入りまで上り詰めた野球人生の原点とも言える。

     大本命に勝利し、甲子園への道が開けたと思われたが、次戦で前年の代表校だった西条農に惜敗した。「甲子園に出られなかったのは悔いが残る」という新井だが、西条農戦では本塁打を放ち、「広島市民球場は、当時の高校生にとっては特別な場所だった。試合には負けてしまったけど、あのホームランは覚えているし、嬉しかった」と、のちに本塁打を量産することになる球場での一本を振り返る。


    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180821-00000043-dal-base

     白熱した試合が続いた「第100回全国高校野球選手権大会」が、21日に幕を閉じる。広陵出身の広島・上本崇司内野手(27)は2年の春と夏(07年)、3年夏(08年)に甲子園に出場。現在守備と走塁のスペシャリストとしてチームに貢献するプロ6年目が、平成最後の夏に強豪で過ごした3年間を振り返った。


     喜び、感動、さまざまな思いを胸に聖地に足を踏み入れた。グラウンドから見渡す景色、雰囲気、声援-。全てが最大限のパフォーマンスを引き出してくれた。

     「高校球児にとっての一番の場所。感動しましたよ。うわ~すげ~、と。注目を浴びるので、すごいモチべーションが上がる。力以上のものが発揮されるというのは本当にあると思います」

     最も心に残っているのは2年の夏。現在もチームメートである野村、土生、巨人・小林らが1学年上におり、準優勝した89回大会だ。上本は全試合に「2番・遊撃」で先発出場。決勝では佐賀北に4点リードから逆転負けを喫したが、佐賀北戦よりも1回戦の駒大苫小牧戦の方が強く印象に残っているという。

     相手は前年まで3年連続決勝に進んでおり、優勝候補の一角にも挙げられていた。緊迫した展開となり、2-3で九回の攻撃に入った。先頭だった上本は中前打で出塁し、後続の適時打で同点のホームを踏んだ。その後、内野安打と敵失が絡んで勝ち越し。見事な逆転勝利を収めた。

     「土壇場でした。みんなでつないで。あれが一番激しかった。大きな勝利でした」。チーム一丸となって強敵を倒したことで勢いに乗り、決勝まで勝ち進んだ。

     3年夏の大会でも2回戦の横浜戦で先頭打者アーチを放つなど活躍。チームは3回戦に進めなかったが、上本は「1番・遊撃」として計9打数6安打4打点をマークし、非凡な才能を見せつけた。

     広陵での3年間は「私生活、人間力」も学んだという。「当たり前のことですけど、あいさつ、返事、勉強」。中井哲之監督から口酸っぱく言われたことは、現在も生きている。また、中井監督と両親からは「大学は絶対卒業しなさい。野球人生は短いから」と助言されたことも記憶に残っている。その後、明大を経てカープの一員に。現在は守備固めや代走での出場が中心だが、8日の中日戦(マツダ)では1年目の13年以来5年ぶりに先発し、三塁守備で勝利に貢献していた。

     汗と泥にまみれ続けた広陵時代。「甲子園での緊張はなかったですけど、先輩が怖かったのでその圧はすごかった。3年間はいい思い出です」。鯉の背番号0は爽やかな笑顔で振り返った。(デイリースポーツ・田中 哲)


    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180821-00000080-spnannex-base

     今夏で100回大会を迎えた全国高校野球選手権記念大会もいよいよ21日の決勝戦を残すのみ。長い歴史の中で数々の名勝負、ドラマが生まれてきた。Full-Countでは選手、コーチたちに甲子園を目指した高校時代を振り返ってもらった。今回は広島工出身の新井貴浩。


     新井の最後の夏は1994年の第76回大会。広島県大会4回戦で西条農に4-5で敗れた。新井の1年時に広島工は甲子園に出場しているが、新井はベンチ入りのメンバーに入っておらず、高校球児として甲子園でプレーする夢はかなわなかった。しかし、“県工”は大方の様相を覆すジャイアント・キリングを起こしていた。

    「この年は、二岡(智宏)と(福原)忍がいた広陵が絶対的に強かった。周りはみんな、県工が広陵に勝つわけがないと思っていた」

     前評判は決して高くなかったチームの4番打者、主将として、3回戦で最強チームの声もあった優勝候補を撃破。「不可能なことはない。やればできるんだということを経験した」という新井の言葉は、駒大進学後、ドラフト6位入団から名球会入りまで上り詰めた野球人生の原点とも言える。

     大本命に勝利し、甲子園への道が開けたと思われたが、次戦で前年の代表校だった西条農に惜敗した。「甲子園に出られなかったのは悔いが残る」という新井だが、西条農戦では本塁打を放ち、「広島市民球場は、当時の高校生にとっては特別な場所だった。試合には負けてしまったけど、あのホームランは覚えているし、嬉しかった」と、のちに本塁打を量産することになる球場での一本を振り返る。

    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180821-00184917-fullcount-base

    <全国高校野球選手権:下関国際-創志学園>◇15日◇2回戦

     「レジェンド始球式」に沖縄(現沖縄尚学)OBで元広島の安仁屋宗八氏(73)が登板した。往年のフォームをほうふつとさせる力投で力強く投げ込んだ。

     「終戦の日」の登板に「100回大会を迎えられて、日本が平和じゃないと続くことじゃない。日本が平和だから続いたこと。戦争というのは2度と起きてはいけない。終戦の日に始球式をさせてもらえることは、幸せの1ページ。一生の思い出です」と平和を願った。


    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180815-00300125-nksports-base

     第100回全国高校野球選手権大会(甲子園)が8月5日に開幕した。横浜高校出身の広島・下水流昂外野手(30)は3年春にセンバツ大会を制し、同年夏の甲子園にも出場。今季は勝負強い打撃でチームに貢献。鯉のサヨナラ男が、名門で過ごした3年間を振り返った。

     甲子園春夏連覇を目指した3年の夏は一瞬で幕を閉じた。“佑ちゃんフィーバー”に沸いた2006年、大会初日から横浜-大阪桐蔭の名門対決が実現した。いきなりのビッグカードに注目が集まる中、横浜は中田(日本ハム)を擁する大阪桐蔭に6-11で敗退。同校では98年以来の連覇の夢は断たれた。

     「連覇していたら、すごいことになっていたかもしれないですけどね。(相手は)強かったです。プレッシャーはなかったんですけど、力負けです」

     まさかの初戦敗戦だった。同年春の選抜大会では強豪校を次々と破り8年ぶりに優勝。1回戦で履正社に勝って勢いづくと、2回戦は八重山商工の大嶺、続く3回戦は早実の斎藤らプロ注目右腕を打ち崩した。下水流も大暴れだ。斎藤から2安打を放ち、岐阜城北との準決勝から4番に座った。清峰との決勝も21-0の大勝。一気に頂点に駆け上がった。

     それでも「春の優勝より負けた試合がすごく印象に残っている」という。「開会式をして3試合目で。次の日には帰っていました。夏休みは長かったですね」と当時を苦笑いで振り返った。

     名門横浜では刺激的な3年間を過ごした。同期に福田(中日)、佐藤(元日本ハム)、1学年下に高浜(元ロッテ)がおり、2学年上に涌井(ロッテ)、石川(DeNA)、2学年下にも土屋(元DeNA)と倉本(DeNA)らがいた。まさに猛者ぞろいで、レギュラー奪取も簡単ではなかった。転機は内野から外野への転向だ。同時期に打撃が開眼し、2年秋の新チームになって、ようやく定位置をつかんだ。

     名将・渡辺監督(現終身名誉監督)の教えは今も心に刻まれている。厳しさの中に優しさがあり、技術的なことより「精神的な話」が多かったという。下水流は「人としてどうか、今の人格形成のベースになっています」と感謝を口にする。

     高校卒業後は青学大に進学。社会人ホンダを経て、2012年度ドラフト4位で広島に入団した。「(高校時代は)うまくなかったので今ここにいることがラッキーです」と笑うが、今やすっかり鯉のサヨナラ男だ。4月19日ヤクルト戦で初のサヨナラ打を放つと、7月20日巨人戦では九回2死一塁から劇的なサヨナラ2ラン。仕事人ぶりを発揮し、3連覇のムードを高めた。「一番甲子園に行く可能性があると思った。あこがれもありました」。横浜で過ごした3年間が、神がかり的な勝負強さを見せる下水流の原点だ。(デイリースポーツ・杉原史恭)


    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180813-00000057-dal-base

    このページのトップヘ