広島カープブログ

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    高校時代

     人懐っこくて、律義で、負けず嫌いで。出会いから半年たっていなくても、広島のドラフト1位・小園海斗内野手(18)には、好印象ばかりが思い浮かぶ。

     「高校野球を引退してから、小園にこんないいところがあったんやなというのが見えてきました」

     報徳学園の恩師、大角健二監督の言葉だ。2月、日南春季キャンプを訪問した恩師には、メールで丁寧にお礼を伝えた。「当たり前かもしれないけど、なかなかできないことです。記者の方にも丁寧なコメントをしていますね。そういういい話が、いろんな人から僕に伝わってくるんです」。オープン戦での遠征先では、報徳OBが営む飲食店にあいさつしに顔を出したこともあった。義理堅い一面を持ち合わせている。

     1月上旬の入寮から、大勢の記者に連日囲まれ続けた。18歳には酷な環境だった。それでも、誠実な対応は、今も変わっていない。「ほんまにいい子やな……」。記者からこのせりふを何回、聞いたことか。小園を取材したことのある人全員の共通認識だと思う。

     新入団会見を除いて初めて取材したのは、昨年の12月下旬だった。「すみません。まだ時間大丈夫ですか? どうしようかな……」。小園は、ペンを片手に約10分間も“フリーズ”していた。「新年の誓いを漢字1字で書いてください」という記者の突然のお願いに頭を悩ませていた。

     「漢字を確認しようと思って検索したら、根尾が書いた1字と一緒だったんです」

     小園への第一印象は、「負けず嫌い」になった。根尾とは違う漢字を色紙に書き込んだあと、抜群の表情で写真撮影に応じてくれる、満点の対応にも驚かされた。

     2日のウエスタン・リーグ中日戦は、根尾と初めての“直接対決”だった。小園が1安打で、根尾は無安打。「ずっとライバルと思ってやってきた相手と試合ができてよかったです」。これからも比較され続ける宿命。数年後に根尾についての質問をしても、今回のように少しの“リップサービス”を添えて答えてくれる気がする。

     光るのは、野球の才能だけではない。誰からも愛される素質がある。(記者コラム・河合 洋介)


    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190404-00000126-spnannex-base

     広島・長野久義外野手(34)が14日、センバツ初出場を決めている母校の筑陽学園高にエールを送った。15日に抽選会、23日に開幕を控える後輩に向け「初出場おめでとうございます。とてもうれしいですし、誇りに思います。日々の練習の成果、努力をしっかり出して下さい」とコメントを寄せた。

     チームを率いる江口祐司監督は長野にとって指揮官だけでなく、高校時代は担任としても世話になった間柄だ。「家族、周りで支えてくれた方への感謝の気持ちを忘れず、最後まで目の前のプレーに全力を尽くして、野球部全員で悔いの残らないように一生懸命頑張って下さい。応援しています」と一丸で戦うことを呼びかけた。


    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190314-00000112-sph-base

    青天のへきれきだった。91年12月。秋季近畿大会で準優勝し、ほぼ確実と思われたセンバツ出場を辞退することになった。同年夏に勇退した前監督の行きすぎた指導が問題となった。ただ、現場の指導者、選手は関わっていない不祥事。黒田をはじめ上宮野球部員は突然の悪夢に襲われた。



    黒田は当時について「あんまり記憶にない。覚えていない」と多くを語らない。同学年の溝下進崇も同じで「記憶が飛んでしまっている部分がある」と吐露する。それでも断片的な記憶をつむいだ。

    溝下 聞かされたのは、沖縄の修学旅行のときだったと思うんです。離島へ行った宿舎の一室に集められて。決まったわけではないから、まずは修学旅行楽しんで、また帰ったら集合すると言われた。帰ったら「辞退します」と。正直、やる気がうせましたよね。怒りの矛先のない、憤りの中で記憶が飛んでしまっている。

    当時の教頭は部員や保護者を前に土下座してわびた。保護者からは署名活動を促すような声も上がった。ざわつく周囲とは対照的に、部員たちの時間は止まったようだった。高校球児にとって「甲子園」は夢以上の存在。溝下は2日間、家から1歩も出ることができなかった。

    溝下 高校野球をすることの意義の1つ。夢というぼやっとしたものではなく、上宮に選ばれて入った以上はそこに行かなければいけない使命感を持ってやっていた。本当にふ抜けになっていた。

    監督の田中は指導者として苦慮した。「本当にバラバラになりました。選手も選手の保護者もかわいそうだった」。学校に直談判し、自分たちが出るはずだったセンバツが始まる時期に九州遠征に出た。強豪校で野球専用球場を持つ上宮は他校の遠征を迎えることが多く、通常は遠征に出ることはない。「そんなことで心が和むとは思っていなかった。でも彼らに何かしてあげたかった。また強い上宮に戻したい気持ちがあった」と田中は述懐した。

    上宮野球部は何とか夏の大会へ向けて動きだしたが、黒田に前年秋の感覚はなかった。「冬になってボールに触れない中で、なかなか継続することは難しかった。甲子園に行っていたら変わっていたかもしれないが、春になってもあまり変わっていなかった」。加えて右手中指の腱(けん)を痛めてしまったことも投球を苦しめた。最大の武器だった真っすぐの力強さが戻ってこない。生まれて初めて痛み止めの注射を打って投げたこともあったが、結果は出なかった。オープン戦でめった打ちにあい、黒田の評価は急降下。最後の夏は、登板機会が1度も訪れないまま府大会5回戦で敗退。黒田の高校野球人生は静かに幕を下ろした。

    憧れた甲子園出場はかなわなかった。過酷な練習にも耐え抜いた3年間は無情な結末を迎えたが、高校3年間で何も得られなかったことが、結果的に何にも代え難い財産となったのかもしれない。(敬称略=つづく)【前原淳】

    (2017年12月18日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)


    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190114-00436000-nksports-base

    黒田の投手としての能力を認めていたチームメートは少なくなかった。黒田よりも評価されていた主戦の溝下進崇には、今でも忘れられない1球がある。打撃練習から遅れてブルペンへ向かう途中、黒田の投球が真後ろから見えた。

    溝下 スライダーが衝撃的だった。「なんじゃ今のは? こんなスライダー打たれない」と。真っすぐの軌道で来たと思ったら横に滑っていく。自分が思っている理想と体の動きがマッチしたときはとんでもない球を投げていた。

    潜在能力の高さを認める者は他にもいた。主将の筒井壮は投手としての雰囲気を感じ取っていた。

    筒井 才能はすごく感じるけど、ムラがあった。でもやっぱり一番、投手としての振る舞いをしていた。黒田が投げた方が、より強いチームだったんじゃないかなと思います。

    そんな黒田がようやくスポットライトを浴びるときが訪れる。新チームとして迎えた2年秋の近畿大会。直前の府大会で登板機会がなかったものの、ブルペンでの投球の変化に監督の田中秀昌は気づいていた。

    田中 フォームが安定していた。体のバランスもよく、リリースも一定だった。クロにとって、良薬は結果だと思っていた。いいときに使ってあげたいし、自信をつけてもらいたかった。

    田中は相手打線との兼ね合いを考慮しながら、黒田起用のタイミングをうかがっていた。準々決勝の日高(和歌山)戦、1-0の7回途中から出番が巡ってきた。背番号17の黒田は1安打無失点に抑えて試合を締めくくる。田中の「打たれても、溝下と西浦(克拓)がいる」という予防策を立てた起用を見事に裏切った。

    続く準決勝のPL学園(大阪)戦でもチャンスを与えられた。3-0の8回から2番手で登板し、2イニングを2安打1失点。さらに決勝の天理戦では先発西浦がKOされ、2番手溝下も打ち込まれ、三たび黒田に出番がきた。3-8の4回から6イニングを投げ、登板投手の中で唯一無失点。チームは2点差まで迫り、敗れはしたものの、翌春のセンバツ出場権をほぼ手中にした。待ちわびた黒田の好投に、チームメートも自分のことのように喜んだ。

    溝下 快刀乱麻でした。切れ抜群のストレートととんでもないスライダーが面白いように決まって、バッターがクルクルと回っていた。見ていて面白いし、気持ちが良かった。僕は軟投派で、西浦は力投派でもショットガンのようですが、クロは糸を引くような真っすぐを投げていた。

    もちろん、黒田にも特別な喜びがあった。勝利をただベンチで待つのではなく、自らマウンドでたぐり寄せた勝利もあった。近畿大会で3試合10イニング以上を投げて1失点の結果は、監督の田中が期待した良薬になりそうな予感があった。上宮に入学して、初めて味わう感覚に浸った。

    黒田 自分が投げて貢献できた喜びがあった。ベンチにいてチームが勝っていくのではなく、投げて勝っていくから充実感はあった。だから、(翌春のセンバツを)すごく楽しみにしていた。

    近畿大会準優勝で、翌春のセンバツ出場はほぼ確実となった。黒田に足りなかった結果と自信が芽生え、殻を破るきっかけとなる可能性は十分あったが…。ようやく開けたと思われた視界は、予期せぬ形で真っ暗闇に変わる。(敬称略=つづく)【前原淳】

    (2017年12月17日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)


    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190113-00435995-nksports-base

    投げたことよりも、走った記憶が強く残る上宮時代で忘れられない出来事がある。1年夏の合宿のことだった。黒田はこの日も監督の山上烈から「走っとけ」と言われた。黙々と走る。日が傾いても、日が暮れても、全体の練習が終わっても、走った。合宿中は監督も合宿所に寝泊まりする。黒田は消灯になるまで走り続けた。それが4日続いた。

    食事はランニングコースの近くまでチームメートがこっそり持ってきた。消灯後にスコアボードの下に倒れ込むように眠り、そして起床時間の朝6時前には走りだした。そしてまた一日中、走った。

    黒田 景色が変わらないから時間が全然過ぎない。日の傾きでしか分からなかった。

    ただ走るだけで練習が終わった。チームメートは全体練習のウオーミングアップで外野付近をランニングする。黒田とすれ違うときに「酸っぱい臭いがした」と同学年の溝下進崇は振り返る。最長4日、食事と睡眠は何とか取っていたが、風呂には1度も入っていなかった。

    合宿期間中のある日。1学年上の先輩の母親が、その先輩と黒田を合宿所から連れだし、自宅で風呂に入れてくれることになった。先輩の母親が黒田の自宅に電話すると「タクシー代は支払いますので、うちの子は合宿所に帰してください」と母靖子は黒田を突き返すようにお願いした。黒田は合宿所に戻り、また走りだした。この夜の出来事は翌日には上宮の全部員に知れ渡り、今でも伝説となっている。

    黒田 うちの母親ならそう言うだろうな、と予想はできた。(親類の)おじさんやおばさんからも「信念を貫き通す人だった」と聞いていた。家でも厳しかった。愛情のある厳しさだったように感じる。父親には野球の厳しさを教えてもらった。母親には人間的な厳しさを教えてもらった。

    溝下も黒田の母親の記憶が鮮明に残っているという。「家に泊まりに行ったり、合宿中にご飯を作りに来てくれたりした。厳しいなという印象。黒田にはもちろん言うけど、分け隔てがない。僕たちにも言わないといけないことは言ってくれていた」。筋が通っていた。

    黒田は1年秋からベンチ入りするようになった。投手としての潜在能力を買われていた部分もあるが、それ以上に同期で投手だった西浦克拓と溝下がそれぞれ野手としての能力も高く、野手として出場していたことが大きかった。投手枠が空いていたことでベンチ入りしたものの、なかなか公式戦で登板機会は巡ってこなかった。

    メンバーには入っても、走らされる毎日は続いた。それでも音を上げない。その精神力には両親の強い影響があると、当時コーチだった田中秀昌は感じていた。「忍耐強い生徒だった。それはなぜかと言われたら、絶対にお母さんだと思います。肝っ玉のお母さんで、あのお母さんの下で小さいころ育っている。今があるのは、お母さんのしつけだと思う」。過酷な練習にも耐える精神力。のちに男(おとこ)気と呼ばれる強い信念を持った思考の源流は、母親にあった。

    ただ、走り続けられる精神力は、エースへと駆け上がる向上心にはつながらなかった。そこには同学年のライバルの存在と、黒田の優しい性格があった。(敬称略=つづく)【前原淳】

    (2017年12月15日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)



    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190111-00435968-nksports-base

    黒田は南海の野手としてプレーした父一博の次男として生を受けた。幼少期から野球は身近なものだった。家に父の現役時代の写真が飾られ、南海の試合を見に行けば、試合前に父がベンチ裏へ下りていって選手のサインをもらってきてくれたこともある。ただ、プロ野球選手の息子という特別な意識はなかった。



    黒田 生まれたときにはもう現役を引退していたので、現役時代を知らない。プロ野球選手はたくさんいたので、ただその中の1人という感覚。特別なことではないと思っていた。

    現役を引退した父はスポーツ用品店「クロダスポーツ」を営んでいた。黒田が小学6年のときに南海が消滅。父がプロ野球選手という意識はほとんどなかったが、成長とともに父の偉大さも感じるようになった。南海のOB会のゴルフが行われる日には、監督経験のある杉浦忠が黒田家に迎えに来ることもあった。

    小さいころは、母靖子がキャッチボール相手だった。両親から勧められるわけでもなく、小学校の友達が入っているという理由で小学1年のときに野球チームに入った。「練習に参加してボールを追いかけて、というのが楽しかった」。当時はまだ、普通の野球少年だった。

    小学5年のときに、父一博が監督に就任したボーイズリーグ「オール住之江」に入った。当時から球が速く、投手を務めるようになった。ただ、野球が盛んな土地柄もあり、周囲の目は厳しかった。「監督の息子」ということで、保護者の中には「自分の息子ばかり試合に使って」と言う者もいた。そんな声は黒田少年の耳にも入っていた。「結果を残して黙らすしかない」。子どもながらに責任感が芽生えた。

    父一博は野球に対しては厳しかった。特に準備、道具を大切にすることには厳しかった。家に帰っても、練習をさせられた。素振りだけでなく、砂袋を腰に巻いて走りに行かされることもあった。それでも黒田少年は純粋に野球が楽しくてしょうがなかった。やらされた感覚はない。

    黒田 まったく苦にならなかった。土曜になるとすごくうれしくて、学校にいても土日の野球のことばかり考えていた。体育の授業でケガしないように気をつけていたことも覚えている。

    自然と、そして深く野球にのめり込んでいった。当時から高校野球が好きで、夏休みには家の近くの住之江球場へ1人、府大会を見に行くこともあった。中学時代も続けた野球は、高校野球へのステップアップと位置づけていた。「甲子園に行きたいのと、自分の力を試したい。どこまで通用するか楽しみもあった」。大阪の強豪校を希望し、上宮のセレクションを受け、見事に合格。ほかは受けなかった。

    黒田が中学3年になった89年、上宮は元木大介(のち巨人)や種田仁(のち中日)らを擁してセンバツで準優勝、夏の甲子園では8強に入った強豪校だった。「ワクワク感はすごくあった。あとはおやじが監督をやっていた下で野球をしていた環境から、離れて野球をする楽しみもあった」。希望にあふれていた。だが、黒田少年が抱いた大きな希望はすぐに崩れ落ちることになる。上宮の門をくぐると同時に、野球は苦しみに変わった。(敬称略=つづく)【前原淳】

    (2017年12月13日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)


    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190109-00435944-nksports-base

    全国高校野球選手権大会が100回大会を迎える2018年夏までの長期連載「野球の国から 高校野球編」の、元球児の高校時代に迫る「追憶シリーズ」第26弾は黒田博樹氏(42)が登場します。甲子園出場がなく、公式戦登板も数えるほどしかなかった上宮(大阪)での3年間。チームで控え投手のままだった右腕は苦しい日々の中でどう過ごし、何を感じたのか-。全10回で振り返ります。



      ◇   ◇   ◇   

    栄光を積み重ねたマツダスタジアムの記者席で、黒田は言葉を絞り出すように話した。高校時代の3年間に思いをはせ、「走らされていた記憶しかない」と振り返った。フラッシュバックするのは、苦しかった当時の情景ばかり。できれば思い出したくなかったのかもしれない。

    広島だけでなく、米国の名門ドジャースやヤンキースでも輝かしい足跡を残した日米通算203勝の大投手も、上宮では3番手投手だった。3年夏は登板さえかなわなかった。無力さとともに味わった悔しさが野球人生の礎となり、糧となり、黒田博樹という投手をつくってきた。出場辞退という予期せぬ形で、甲子園出場がかなわなかった悲運もあった。

    黒田 同級生に聞かれると何を言われるか分からないけど、いま考えれば(甲子園に)出られなくて良かったかなと思う。当然、当時は出たかった。でも出なかったから、今の野球人生があると思う。

    中学時代まで楽しいと思っていた野球が、高校で一瞬にして楽しくなくなった。練習試合に投げれば制球を乱し、罰走を命じられた。自信もなく、自分を支える実績を積み重ねることができなかった。頭角を現した専大でも、確かな自信を得ることはできなかった。それはプロ入りしても変わらない。広島でエースとなっても、米大リーグで名門の大黒柱となっても変わらなかった。自信がないから常に全力を意識した。「1球の重み」と表現したように、マウンドではすべてをかけて腕を振った。

    広島でエースと呼ばれるようになった2000年代から他球団に所属する先輩後輩へのあいさつを避けるようになった。たとえ先輩選手であっても、あいさつに行かないことも増え、後輩からのあいさつも敬遠してきた。オフになれば他球団の選手から食事に誘われる機会もあったが、断った。

    黒田 (エースとしての)立ち居振る舞いがある。へらへらするのが嫌だったし、チームの士気にも影響すると思っていた。違うユニホームの選手には敵対心を持って戦わなければいけない。チームメートは守らないといけない。そういう意識が強かった。そうしないとマウンドで目いっぱいインサイドに投げられない。

    生きるか死ぬかの世界で生き抜くすべだった。「自分が弱いことを知っているから。それくらい徹底しないとこの世界では、結果を残せないと思っていた」。高校時代に辛酸をなめた経験から、導き出されたスタイルでもあった。

    06年に広島でFA権を取得し、高額オファーを受けても、国内他球団への移籍は考えられなかった。移籍が活発な米大リーグでも7年間で所属したのは2球団のみ。黒田の謙虚さは、より良い条件を求めて球団と交渉する代理人には珍しく映り「メジャーリーガーで最も自己評価が低い選手」とまで言われていたほどだ。

    甲子園出場がかなっていれば、黒田の野球人生は大きく変わっていたかもしれない。いや、変わっていただろう。本人も認める。

    黒田 たぶん変わっていたと思う。でも、そこからおかしくなっていたかもしれないし、野球をやめようと思ったかもしれない。万が一、いい投球をしていたら、そこでプロに入れていたかもしれない。そうなると違う球団でプレーしていたかもしれないし、ここまで野球をできていたかも分からない。全く違う人生だったと思う。

    高校時代に日の目を見なかった右腕が、大投手への階段を上がったサクセスストーリーは、多くの高校球児たちに夢を与えるに違いない。(敬称略=つづく)【前原淳】

    ◆黒田博樹(くろだ・ひろき)1975年(昭50)2月10日生まれ、大阪市出身。「オール住之江」から上宮へ進学。1年秋からベンチ入りするも、3年間で公式戦登板はわずか。3年夏も3番手投手で出番がなかった。専大を経て、96年ドラフト2位(逆指名)で広島入団。01年に初の2桁勝利をマーク。04年アテネ五輪で日本代表として銅メダル獲得に貢献。05年最多勝、06年最優秀防御率のタイトルを獲得。07年オフにFAでドジャースへ移籍し、12年1月にヤンキース移籍。15年に広島復帰、16年のリーグ優勝に大きく貢献した。日米通算533試合に登板して203勝184敗1セーブ、防御率3・51。大リーグ通算79勝は野茂(123勝)に次ぐ日本人2位。現役当時は185センチ、93キロ。右投げ右打ち。

    (2017年12月12日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)


    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190108-00434613-nksports-base

    「親分」と慕われた元南海監督、鶴岡一人の長男・鶴岡泰(現山本泰=72)は、1974年(昭49)4月にPL学園の野球部監督に就任した。7年間の監督生活を振り返り、PLにとって、初の甲子園全国制覇のピッチャーで4番だった西田真二のことは、「ヤンチャ坊主の印象が強烈に残っている」という。


    山本泰 ある時、キャプテンの木戸がやってきて、ボクもう野球やめます。その代わり、西田を殴ってもいいですかって言うんです。それぐらい西田は個性的な選手でした。(78年夏の甲子園)決勝でサヨナラヒットを打った柳川という選手がいたのですが、彼は頭がいいし、ケンカも強く、責任感の強い男でした。彼に西田と木戸のことも言い含めて、チームのまとめ役をお願いした。個性の強い選手がそろっていたチームで、とりわけ西田の存在というのは目立ちました。

    西田はアマ時代も、プロに入ってからも、目立つ存在だった。しかし、大胆で豪快なイメージがある一方、繊細な一面がある。

    全寮制だったPLには、休部の遠因ともなった「付き人制度」がある。特定の上級生の身の回りの世話を、特定の下級生がする制度で、今も年1回行われるOB会総会では、そのことが話題になって盛り上がる。賛否両論あるが、名門・PLの伝統の制度だ。

    西田 ボクって結構先輩にはズケズケと話すタイプなんです。でもね、この年齢になって感じることですが、先輩を含めいろいろな人にズケズケ話しますが、本音を話して、真剣にお付き合いしてきたことが、今は自分の人脈として大きな財産になっています。高校、大学、プロ…ユニホームを脱いでからも、解説の仕事をさせていただいたり、コーチもやらせてもらった。そして、今はこうして独立リーグの監督として野球をやらせてもらっている。ありがたいと感謝しているんです。

    西田の繊細な一面は、今でも下級生の「元付き人」と連絡を取り合いながら、親しく付き合っていることだろう。「お世話した上級生は忘れましたが、お世話してくれた下級生は一生忘れません」と言う。

    その一方で、山本は「相手の反応をうかがいながらすぐに対応する能力を持ち合わせている」と明かす。孤高のマウンドで相手打線と立ち向かう投手の仕事がら、ピタリとハマる性格だったのだろう。

    西田はPLのエースとして独り立ちし、いよいよ「奇跡の夏」を迎える。(敬称略=つづく)【井坂善行】

    (2017年11月25日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)


    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20181223-00422379-nksports-base

    現在は休部状態とはいえ、甲子園で7度の全国制覇を誇るPL学園を語る時、この人物を抜きには語れないだろう。


    井元(いのもと)俊秀、81歳。PLの1期生で、学習院大時代は投手として神宮で活躍した経験を持つ。野球の実績だけでなく、元スポーツ紙の記者でもあり、プロアマ問わず、球界における人脈には定評がある。

    PLでスカウトを務めていた井元に、「和歌山にすごいピッチャーがいる」との情報が入ったのは、1975年(昭50)の年明けだった。しかし、4月になって、この中学生にはPL進学を断られた。落胆した井元だったが、「もう1人、いい選手がいます」と聞きつけ、和歌山市にある河西(かさい)中学へと足を運んだ。西田真二だった。

    その時の光景を、井元は鮮明に記憶している、という。PLに関係する選手は、のべ500人を超える素材を見てきた。だが、「こんな型破りなタイプは、後にも先にも西田がNO・1」と断言する。

    井元 ちょうど目当ての西田がバッティングをしていたのですが、いつまでたっても西田しか打たない。つまり、他の野球部員を全員で守らせて、一人打ち続けているんです。それが終わると、今度は西田がノックをする。他の野球部員全員が、西田のノックを受けていました。

    直感的に、井元は「面白い素材」と見抜いた。しかし当時、和歌山には神奈川の東海大相模も情報網を張り巡らせており、すでに西田の元にも、元巨人監督・原辰徳の父親である監督の原貢が熱心に勧誘に動いていた。

    負けず嫌いな井元は、「西田争奪戦」に血が騒いだ。70年の夏の52回大会、初めて甲子園で決勝に進んだPLは、原貢率いる東海大相模に6-10で敗れている。その雪辱もあり、井元の「西田詣で」が始まった。

    メモ魔でもある井元の当時の手帳には、西田獲得のために日参した36回の日時が記されていた。西田の自宅の電話番号は「0734-51-○○○○」。今回の取材でも、もう40年以上前のことをスラスラと覚えていたほどだ。

    井元はPL進学に対する西田の条件を聞いて、仰天する。

    「ピッチャーはボク1人でいいです。他のピッチャーは取らないでください」

    井元に情報をくれた人が「全国制覇するか、PL野球部がつぶれるかという選手」と語ってくれた理由が、この時初めて理解できた。

    (敬称略=つづく)【井坂善行】

    (2017年11月22日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)


    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20181220-00417401-nksports-base

    全国高校野球選手権が100回大会を迎える2018年夏までの大河連載「野球の国から 高校野球編」。元球児の高校時代に迫る「追憶シリーズ」の第24弾は、西田真二氏(57=四国IL香川監督)です。大阪・PL学園の4番&エースで、1978年(昭53)夏の甲子園で全国制覇。準決勝、決勝とも敗戦寸前の9回に追いつき、逆転、サヨナラで勝つ「逆転のPL」を生んだヒーローでした。昨夏限りで休部した全国制覇7度の同校硬式野球部も追憶し、全8回でお届けします。

        ◇      ◇     

    しっかりと五角形のホームベースを踏み、決して長くはない両腕を高々と上げた。チームメートが、「奇跡の主役・西田」を迎えると、一塁側ベンチは空っぽになった。

    夏の高校野球選手権大会のフィナーレは、いつの時代も感動的だ。だが、39年前の夏、78年の60回記念大会の幕切れは、高校野球史に残るほど劇的で、ドラマチックで、奇跡的だった。

    「戦いは終わった。甲子園の夏は終わった。3-2。PL学園、初優勝。青春のドラマは今、終わりました。まさにPL、奇跡の逆転。サイレン鳴って、もう戦いはありません」

    ネット裏にある朝日放送のブースで、「甲子園は清原のためにあるのか!」など、数々の名実況で有名なアナウンサー・植草貞夫が叫んだ。甲子園は興奮というより、異様な、騒然とした雰囲気に包まれた。「逆転のPL」が誕生した瞬間だった。

    3年間の高校野球生活をかけた最後の夏は、全国各地で行われる予選大会でも、信じられない逆転ドラマが展開されている。しかし、PLは甲子園を舞台に、しかも準決勝、決勝の大一番で2日続けて9回に追いつき、逆転、そしてサヨナラで優勝を決めた。PLはその後も逆転を伝統にし、強い強豪校というより、「筋書きのないドラマ」を演じる人気校となって甲子園を沸かせた。

    西田 教団の教えが、粘って粘って粘り抜けだった。予想通りにならないのが野球の面白いところだし、甲子園の大観衆もすごく力を与えてくれた。苦しい状況でも粘り抜く気持ちでやっていたが、あんなことが起こるとは…。逆転のPLって、いい表現ですよね。マスコミの方に感謝しないと…。桑田も清原もあの試合を見て、PLに進学してきたそうです。もちろん、ボク自身も人生を変えてくれた逆転優勝でした。

    PL卒業後は法大に進み、82年ドラフト1位で広島入団。13年間のプロ生活の多くは代打の切り札としての活躍だった。だが、その勝負強さを支えたのも、「逆転のPL」の主役を演じたことによるものだろう。

    西田は今、独立リーグの四国アイランド・リーグ「香川オリーブガイナーズ」の監督として、プロを夢見る若い選手と一緒に汗を流す毎日を過ごしている。

    西田 高校、大学、プロと、ずっと野球をやってきましたが、振り返ると、すごく恵まれた環境でした。でも、今預かっている選手たちは、ホントに厳しい中で野球をやっている。環境は悪くないけど、収入という点では厳しいです。独立リーグという性質上、仕方ないことですが、そんな中から1人でも2人でもプロの世界へ送り出してやりたいと思っています。

    母校のPL硬式野球部は今、休部となっている。昨年の夏を最後に野球部は存在せず、高野連にも加盟していない状態である。西田は「寂しいのひと言に尽きる」としか言わなかった。だが、西田らの時代は教団、学園を挙げて「悲願の日本一」に向けて、PLが一体となっていた。まさに、「隔世の感あり」ということになる。

    中学時代、和歌山で有望選手として注目されていた西田とPLは不思議な縁でつながっていく。「逆転のPL」のドラマは、その時から始まっていた。(敬称略=つづく)【井坂善行】

    78年夏の甲子園

    ▽準決勝(8月19日)延長12回

    中京 000 101 011 000  4

    PL 000 000 004 001X 5

    【中】武藤、黒木、武藤-阪本【P】西田-木戸 [三]辻、栗岡(中)、西田(P)[二]柳川、戎、渡辺(P)

    ▽決勝(8月20日)

    高知商 002 000 000  2

    P L 000 000 003X 3

    【高】森-坂上【P】西田-木戸 [二]木戸、西田、柳川(P)

    ◆西田真二(にしだ・しんじ)1960年(昭35)8月3日生まれ、和歌山市出身。78年PL学園のエース兼4番として春の甲子園ベスト8、夏は同校初の全国制覇を導く。法大で外野手に転向し、東京6大学ベストナイン5回。82年ドラフト1位で広島入団。主に代打の切り札として活躍。91年は山本浩二監督のもと後半戦で4番も務め、リーグ優勝に貢献。95年引退までの13年間で出場787試合、打率2割8分5厘、44本塁打、226打点。引退後は3年間広島でコーチを務め、07年から香川監督。174センチ、82キロ。左投げ左打ち。

    ◆井坂善行(いさか・よしゆき)1955年(昭30)2月22日生まれ。PL学園(硬式野球部)、追手門学院大を経て、77年日刊スポーツ新聞社入社。阪急、阪神、近鉄、パ・リーグキャップ、遊軍記者を担当後、プロ野球デスク。92年大阪・和泉市議選出馬のため退社。市議在任中は市議会議長、近畿市議会議長会会長などを歴任し、05年和泉市長に初当選、1期4年務めた。現在は不動産、経営コンサルタント業。PL学園硬式野球部OB会幹事。

    (2017年11月21日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)


    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20181219-00417389-nksports-base

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