広島カープブログ

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    高校時代

     日本高野連は20日、新型コロナウイルスの影響が各地に広がる中、オンラインで「第102回全国高校野球選手権大会」の運営委員会と理事会を開き、8月10日から予定されていた夏の甲子園大会と出場権を懸けた地方大会の中止を決め、発表した。この日、広島の中村奨成捕手(20)が取材に対応。大会新記録の6本塁打を放った甲子園を「人生が変わった場所」と振り返り、複雑な心境を明かした。

     高校球児なら誰もが憧れる夢舞台。夏の甲子園が、今春のセンバツに続きコロナ禍にのみ込まれた。春夏連続での中止は史上初。広陵時代、聖地で放物線を描いた中村奨は、時折言葉を詰まらせ複雑な心境を吐露した。

     「特に3年生には何と声をかけたら良いのか思い浮かびません。自分がその立場だったら…。目標がなくなってしまうので立ち直れないかもしれない。つらいです」

     17年夏。歴史の1ページを塗り替えた若鯉は、甲子園をこう表現した。

     「人生が変わった場所です」

     初戦の中京大中京戦から準々決勝の仙台育英戦までの4試合で、3試合連続を含む4本塁打を記録。準決勝の天理戦では2本塁打を放った。「何か自分の持っている以上の力が出た」。計6本塁打は、清原(PL学園)が持っていた1大会個人最多本塁打を更新するものだった。

     卒業後の進路をプロと決めていたものの、上位候補になるとは夢にも思っていなかった。「無名だった僕のターニングポイント。打っていなかったら分からなかった」。一躍全国区の選手となり、秋のドラフト会議では広島、中日から1位指名を受けた。

     日本一を目指してたたいた伝統校の門。決勝で花咲徳栄に大敗し、人目をはばからず大粒の涙を流した。夏は初めてとなる優勝を逃したが、3年間、仲間と共に泥だらけになって流した汗は、かけがえのない財産だと誇れる。

     今は「簡単に頑張っていこうとか、声をかけられない」と声を絞り出した。それでも彼らが白球を追いかけた日々は決して色あせない。いつの日か顔を上げ、前を向いて歩んでほしいと強く願っている。



    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200521-00000023-dal-base

    広島堂林翔太内野手がマツダスタジアムでの練習後、夏の甲子園大会の中止が検討されていることに言及した。



    球児のことを思い「高校の集大成にもなりますし、なんと言っていいのか分からない。目標を失うということになってしまうと思うので…つらいですね」と下を向いた。中京大中京3年の09年夏には日本文理との決勝戦を制して全国優勝。母校は出場予定だったセンバツも中止となっている。


    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200516-25160556-nksports-base

     広島・床田寛樹投手が4日に放送された読売テレビ「プロ野球No.1決定戦バトルスタジアム」に出演。高校2年の秋季大阪大会でノーヒットノーランを達成した時のエピソードを語った。

     床田は大阪・箕面学園出身のプロ野球選手第1号。野球強豪校ではなく、3年夏の大会は公立の豊中高校に敗れたという。しかし床田は2年時の秋季大阪大会で快挙を達成。しかも「前の日にブルペンで230球くらい投げて、次の日、2回戦で27人で試合が終わった」と自慢した。出した走者は失策により出塁した1人だけ。併殺でアウトになったため、9回27アウトで対戦した打者は27人だったという。

     MCのかまいたち・濱家が「230球投げて次の日、放れるっていうのがもう…」と話すと、千鳥・大悟は「今やったら問題やで!」とツッコんだ。千鳥・ノブが「なんでブルペンでそんなに投げんの?」と尋ねると、床田は「調子が悪くて全然ストライクが入らなくて」と練習した結果、その球数になってしまったという。





    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200104-00000067-dal-base

     今季、プロの舞台へと進んだ高卒1年目の選手たち。2000年生まれ世代の彼らは、「ミレニアム世代」と呼ばれ、高校3年の夏の全国高等学校野球選手権が第100回大会だったということもあり、大いに野球界をにぎわせてきた。



     根尾 昂(大阪桐蔭⇒中日)のように中学時代からその名を知られた者もいれば、吉田 輝星(金足農⇒日本ハム)のように高校3年時に一躍全国区となった者もいるミレニアム世代。そんな彼らの1年目の活躍を、球団ごとに振り返り、現在地を探っていく。今回は広島東洋カープを見ていこう。



    2018年プロ野球ドラフト会議で広島から指名を受けた高卒選手と、彼らのファーム成績は下記の通り。

    1位 小園 海斗 内野手 報徳学園
    58試合 40安打 4本塁打 16打点 1盗塁 42三振 打率.213(一軍)
    53試合 44安打 6本塁打 22打点 8盗塁 42三振 打率.210

    3位 林 晃汰 内野手 智辯和歌山
    102試合 71安打 7本塁打 35打点 2盗塁 67三振 打率.225

    4位 中神 拓都 投手 市立岐阜商
    87試合 33安打 1本塁打 10打点 1盗塁 56三振 打率.219

    5位 田中法彦 投手 菰野
    4試合 0勝0敗 4回 2奪三振 防御率2.25

    7位 羽月 隆太郎 内野手 神村学園
    89試合 65安打 0本塁打 9打点 23盗塁 27三振 打率.300


    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20191212-00010000-hbnippon-base

     市原 勝人監督はプロに行く選手には2パターンあると考えている。
    「最初から高い意識が備わっていて、後から実力を身に付けるタイプ。そして、才能は素晴らしいけど、取り組みや意識を改めていって、プロを狙うにふさわしい選手になるというパターンがありますが、誠也の場合は後者に入る選手ですね」

     市原監督の指導により、着々と力を付けていった鈴木。甲子園を狙うべく最後の夏に突入した。3年になり、鈴木の評価はぐんと高くなっていた。高校通算43本塁打、50メートル5秒8、投手としても最速148キロのストレートを投げ込む強肩があり、181センチ83キロと恵まれた体格。まさに大型野手に求められるスペックを全て満たしていた。

     実際に二松学舎大附の試合では、鈴木がマウンドに登った時、スピードガンを測ったり、ビデオを撮る人間は見られなかった。逆に打席に立った時、スカウトはビデオを撮り、ストップウォッチを手にした。NPBのスカウトたちは鈴木 誠也を「野手」として見ていたのだ。

     ある試合では、鈴木は一塁まで全力疾走をしたり、左翼線に転がった打球に対し、普通の打者なら一塁止まりの打球を、一気に二塁へ陥れた走塁も実践していた。市原監督は鈴木の姿を見て、「彼はエースであっても、将来は野手としてプロに行くことを考えて、全力疾走をしなさいとずっと伝えていました。投手は全力疾走をしないイメージがありますが、投手だからこそ全力疾走をやる意味があると思うんです。これはチームとしても、個人としてもメリットがある。もちろん怪我には気を付けなさいと言いますけど、ああいう姿を見て、真の中心選手になったのだなとしみじみ思いました」と成長した教え子をそう評価した市原監督。

     集大成として夏の甲子園出場を目指した鈴木だったが、準々決勝で、成立学園に敗れ、甲子園出場を果たすことなく鈴木の高校野球は終わった。市原監督はこの成立学園戦はとくに、鈴木にとって悔しい敗戦だったのではと振り返る。

    「この試合、誠也にとって苦い記憶が残った試合だったと思います。先発した誠也がまず打たれて、その後に投げた1年生の大黒 一之が粘り強く抑えて逆転した後に誠也が投げたんですけど、誠也が打たれてしまい逆転負けをしてしまったんです。自分が打たれて負けた試合なので、かなり苦い経験として残っていると思います。誠也は2年夏にはベスト4まで進出していて、最後の夏は2年夏のときよりも悪いベスト8。悔しさを感じたのと同時に、野球の厳しさを実感した試合だったと思います」

     悔しい敗戦で終わった鈴木だが、夏が終わった後、すぐにプロ入りへ向けて始動した。練習の内容は野手メニュー。今までやっていなかったショートの練習を繰り返していった。そして迎えたドラフト会議では、広島東洋カープから2位指名を受け、念願のプロ入りを叶えた。


    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190905-00010007-hbnippon-base

     一流選手として侍ジャパンにも選出される広島東洋カープの鈴木 誠也。2012年のドラフト会議にて広島東洋カープから2位指名を受けた鈴木はプロ1年目から一軍出場・安打を記録。そして高卒4年目となった2016年は129試合に出場し、29本塁打、95打点と大ブレイクした。


     鈴木の活躍について緒方 孝市監督は「神ってる」と表現。この言葉は流行語年間大賞となった。そんな鈴木の活躍の原点を知るべく、高校3年間、鈴木を指導した市原 勝人監督に伺った。

    高校1年のときから野手としてのプロ入り選手と評価していた


     中学時代(荒川シニア)、4番エースとして全国ベスト8を経験した鈴木 誠也。そんな鈴木について市原監督は、鈴木の父親である宗人さんと友人ということもあり、小さい頃から知っていた。
     「(鈴木)誠也は僕と同じ小学校(荒川区立第五峡田小)、中学校(荒川区立第九中)ですから、地元の友達の子供という印象が強いですね」

     そして二松学舎大附に進んだ鈴木は1年夏からスタメン出場。東東京大会2回戦の國學院戦で5番ファーストとしてデビュー。3回戦の駿台学園戦で敗れたが、7打数2安打1打点とまずまずの成績を残す。


    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190904-00010005-hbnippon-base

     全国各地で行われていた全国高校野球選手権大会の地方大会が終了した。今大会でもっとも注目されていた佐々木 朗希を擁する大船渡高校(岩手県)は岩手大会の決勝で敗退。3年間で1度も甲子園の舞台に立つことは叶わなかった。また、及川 雅貴(横浜高校)や西 純矢(創志学園高校)も地方大会で散った。

     プロ野球の世界を見渡しても、最後の夏に甲子園へ手が届かなかった選手は多い。

     そんな中、7月27日のヤクルト対広島(神宮)の試合では、最後の夏に甲子園へ出場できなかった同世代の広島の選手たちが結果を残し勝利に導いた。


    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190730-00010011-hbnippon-base

     「第101回全国高校野球選手権大会・甲子園練習第3日」(3日、甲子園球場)

     15年ぶり23度目の出場となる広島商(広島)が聖地の感触を確かめた。20分間の練習時間で打撃練習は行わず、ノックを中心に守備の確認に充てた。荒谷忠勝監督(42)は「ウチの野球はまず守りから。選手たちも落ち着いていて、しっかり動いてくれた」と目を細めた。

     伝統校の久々の甲子園出場。その陰には多くの広島商OBのバックアップもあった。元広島監督の達川光男氏(64)が昨秋から月2回、臨時コーチとして母校の指導を行い、広島大会前も何度もグラウンドに足を運び、アドバイスを送った。

     7月29日の決勝で尾道に勝利し、甲子園出場を決めた後、ナインは達川氏の元を訪れ、感謝の思いを伝えた。達川氏は「“ありがとうございます”を言うのはまだ早い。甲子園で勝ってから、あいさつに来んさい」とナインにゲキを飛ばした。

     捕手の山路祥都捕手(3年)は達川氏からスローイングやリード面など多くのアドバイスをもらった。今大会の決勝戦では達川氏が始球式を行うことが決まっており、山路は「今の自分があるのは達川さんのおかげ。決勝まで勝ち進んで、自分が達川さんの球を受けたい」と意気込んだ。

     4番の真鍋駿主将(3年)は「自分たちが(広島商の)歴史を変えるつもりで頑張りたい。日本一を目指します」ときっぱり。これまで夏は6度の全国優勝を果たしているが、その輝かしい歴史に新たな1ページを加える決意を示した。


    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190803-00000049-dal-base

    ■元プロ野球選手 新井貴浩さん

     台風で順延してしまいましたね。見たかったなあ、甲子園での試合。いまは朝起きると、テレビをつけて高校野球を見ます。一生懸命な、はつらつとしたプレーに元気をもらってます。

     僕は甲子園には出られませんでした。広島工3年の夏、県内では、二岡智宏(元巨人など)、福原忍(元阪神)のいた広陵が絶対的な優勝候補だった。3回戦で対戦することになり、「失うものは何もない」とみんなでぶつかって勝利。「これで甲子園いける」と思ったけど、4回戦で西条農に競り負けた。主将だったので、試合後は涙を我慢したけど、学校に戻って仲間の前であいさつする時に、一気に涙が出てきました。42歳になっても、当時の仲間とは忘年会をしています。

     プロ野球選手になって最初に感動したのが、試合で甲子園球場に足を踏み入れた時。憧れであり夢だった場所。大きいな、広いな、これが甲子園かと思いながら土に触れました。

     引退した昨年までの3年間、広島でセ・リーグ3連覇を成し遂げる中で、周囲からは精神的支柱と言ってもらいました。自分としては、みんなでワイワイやっただけ。でも、全力プレー、全力疾走は貫きました。実績を重ね、ベテランになるほど責任は重くなり、周囲への影響力は大きくなる。高校生なら1年生より3年生。上級生やベテランがちゃらんぽらんなことをするとしらける。率先垂範(そっせんすいはん)です。

     終戦の日です。黙禱(もくとう)しましょう。

     (観客のいないスタンド。新井さんは立ち上がり、目を閉じました)

     小学生の頃は毎年、授業の一環で広島平和記念資料館を訪れた。慰霊碑の前で手を合わせ、被爆者の体験を聞きました。一時期、原爆ドームから約2キロの場所に住んでいたこともあります。小学校には被爆した木があった。祖母2人も被爆者です。戦争を直接知らない世代ですが、広島で生まれ育った者にとって戦争は身近なものです。

     小さい頃、怖くても目をそらしちゃだめと思いながら読んだ「はだしのゲン」の作者・中沢啓治先生とも交流を持たせていただきました。広島の人にとってカープは戦後復興の希望。お会いした時、僕は阪神でプレーしていました。でも、「どこに行こうが、君は広島で生まれ育った人間だ。ずっと応援している」と言葉をもらいました。

     僕が日本プロ野球選手会の会長をしていた2011年には東日本大震災が起きました。楽天の選手に話を聞くと、野球どころではない状況だった。それまで毎年、開幕を迎えて野球を出来ていたことが、実はあたりまえのことじゃなかった。

     野球はみんなが助け合うスポーツです。東北以外に住む自分たちが被災していないからいい、ではない。ファンの方の後押しも受けてセ・パ同時開催に奔走しました。昨年は広島などで西日本豪雨もありました。あたりまえに野球が出来ることへの感謝を意識し続けるのは、難しいかもしれない。でも、心の片隅において、節目に思い返したいし、球児にもそう思ってもらえるといいですね。(構成・藤田絢子)


         ◇

     あらい・たかひろ 1977年、広島市生まれ。プロ野球広島、阪神で20年にわたりプレー。2016年には通算2千安打達成。デイリースポーツとスポーツニッポンの評論家として活躍中。


    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190815-00000059-asahi-spo

     「第101回全国高校野球選手権大会」の熱戦が続いている。

     令和最初の夏の甲子園。プロ9年目でブレークした広島・中村恭平投手(30)が、立正大淞南(島根)で過ごした3年間を振り返った。



     プロ9年目で覚醒を遂げた左腕は、神奈川を離れ、島根県にある立正大淞南で白球を追った。中学時代は身長158センチと小柄で、最速も110キロ止まり。高校入学後も順風満帆ではなかった。膝を故障し、2年夏には肘を手術した。球児としてプレーしたのは「実質1年ぐらい」と言う。

     高3春から本格的に実戦復帰し、夏には背番号1が与えられた。地方大会は2回戦益田産を破り、続く川本戦も大勝。準々決勝まで駒を進めたが、梶谷(DeNA)を擁する開星に八回コールド負けを喫した。中村恭はすべて2番手で登板したが、夏の甲子園への道は険しかった。

     「あぁって感じでした。負けるかなあと思っていました。開星は強かったので。そこに勝たないと行けないと思っていました」

     06年夏と言えば“佑ちゃん、マー君フィーバー”が巻き起こった年だ。早稲田実業と駒大苫小牧の再試合は国民的な関心を集めていたが、「プロになれると思っていなかった」という左腕にとって別世界のようであった。

     「テレビも見てなかったです。でも情報は入ってくるじゃないですか。すごいなあと。それぐらいですよ。負けたチームの選手ってこれからどれだけ遊ぼうかっていうことを考えてますから(笑)」

     中村恭も開放感に満たされていたが、左腕に夏休みはなかった。「オマエは絶対プロになれる。大学でも野球を続けた方がいい」。卒業後の進路に迷っていた頃、田中謙二監督に半ば強引に大学進学を勧められた。高3の頃には身長180センチまで伸びていたが、球速は120キロ台。プロからスカウトされることもなかったが、中村恭は恩師の言葉に従った。

     07年9月、富士大でプロの夢を追い始めていた中村恭にまさかの訃報が届く。田中監督が脳梗塞で急逝したという知らせだ。41歳の若さだった。悲しみを乗り越え、左腕は急成長を遂げる。最速149キロをたたき出し、10年に広島からドラフト2位指名を受け、恩師との約束を果たした。

     昨年までの8年間はくすぶったが、今季は1軍に定着。6月は勝ちパターンも担った。左肘違和感で一時離脱もあったが、7月後半には1軍復帰。キャリアハイの成績を残して、今オフは恩師の墓前へ報告するつもりだ。(デイリースポーツ・杉原史恭)


    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190815-00000107-dal-base

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