広島カープブログ

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    高校野球

     市原 勝人監督はプロに行く選手には2パターンあると考えている。
    「最初から高い意識が備わっていて、後から実力を身に付けるタイプ。そして、才能は素晴らしいけど、取り組みや意識を改めていって、プロを狙うにふさわしい選手になるというパターンがありますが、誠也の場合は後者に入る選手ですね」

     市原監督の指導により、着々と力を付けていった鈴木。甲子園を狙うべく最後の夏に突入した。3年になり、鈴木の評価はぐんと高くなっていた。高校通算43本塁打、50メートル5秒8、投手としても最速148キロのストレートを投げ込む強肩があり、181センチ83キロと恵まれた体格。まさに大型野手に求められるスペックを全て満たしていた。

     実際に二松学舎大附の試合では、鈴木がマウンドに登った時、スピードガンを測ったり、ビデオを撮る人間は見られなかった。逆に打席に立った時、スカウトはビデオを撮り、ストップウォッチを手にした。NPBのスカウトたちは鈴木 誠也を「野手」として見ていたのだ。

     ある試合では、鈴木は一塁まで全力疾走をしたり、左翼線に転がった打球に対し、普通の打者なら一塁止まりの打球を、一気に二塁へ陥れた走塁も実践していた。市原監督は鈴木の姿を見て、「彼はエースであっても、将来は野手としてプロに行くことを考えて、全力疾走をしなさいとずっと伝えていました。投手は全力疾走をしないイメージがありますが、投手だからこそ全力疾走をやる意味があると思うんです。これはチームとしても、個人としてもメリットがある。もちろん怪我には気を付けなさいと言いますけど、ああいう姿を見て、真の中心選手になったのだなとしみじみ思いました」と成長した教え子をそう評価した市原監督。

     集大成として夏の甲子園出場を目指した鈴木だったが、準々決勝で、成立学園に敗れ、甲子園出場を果たすことなく鈴木の高校野球は終わった。市原監督はこの成立学園戦はとくに、鈴木にとって悔しい敗戦だったのではと振り返る。

    「この試合、誠也にとって苦い記憶が残った試合だったと思います。先発した誠也がまず打たれて、その後に投げた1年生の大黒 一之が粘り強く抑えて逆転した後に誠也が投げたんですけど、誠也が打たれてしまい逆転負けをしてしまったんです。自分が打たれて負けた試合なので、かなり苦い経験として残っていると思います。誠也は2年夏にはベスト4まで進出していて、最後の夏は2年夏のときよりも悪いベスト8。悔しさを感じたのと同時に、野球の厳しさを実感した試合だったと思います」

     悔しい敗戦で終わった鈴木だが、夏が終わった後、すぐにプロ入りへ向けて始動した。練習の内容は野手メニュー。今までやっていなかったショートの練習を繰り返していった。そして迎えたドラフト会議では、広島東洋カープから2位指名を受け、念願のプロ入りを叶えた。


    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190905-00010007-hbnippon-base

    大船渡(岩手)の最速163キロ右腕・佐々木朗希投手(3年)が、2日に希望進路表明会見を行う。国内プロ志望をあらためて明言するとみられる。


    佐々木は4月6日のU18代表候補合宿で「国内プロ1本です」と発言。その後は進路についての発言を避けており、約半年ぶりに決心を語ることになる。右腕をめぐっては、6月に日本ハムが1位指名方針を公言。ドラフト会議は17日に行われる。


    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20191001-10010653-nksports-base

     一流選手として侍ジャパンにも選出される広島東洋カープの鈴木 誠也。2012年のドラフト会議にて広島東洋カープから2位指名を受けた鈴木はプロ1年目から一軍出場・安打を記録。そして高卒4年目となった2016年は129試合に出場し、29本塁打、95打点と大ブレイクした。


     鈴木の活躍について緒方 孝市監督は「神ってる」と表現。この言葉は流行語年間大賞となった。そんな鈴木の活躍の原点を知るべく、高校3年間、鈴木を指導した市原 勝人監督に伺った。

    高校1年のときから野手としてのプロ入り選手と評価していた


     中学時代(荒川シニア)、4番エースとして全国ベスト8を経験した鈴木 誠也。そんな鈴木について市原監督は、鈴木の父親である宗人さんと友人ということもあり、小さい頃から知っていた。
     「(鈴木)誠也は僕と同じ小学校(荒川区立第五峡田小)、中学校(荒川区立第九中)ですから、地元の友達の子供という印象が強いですね」

     そして二松学舎大附に進んだ鈴木は1年夏からスタメン出場。東東京大会2回戦の國學院戦で5番ファーストとしてデビュー。3回戦の駿台学園戦で敗れたが、7打数2安打1打点とまずまずの成績を残す。


    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190904-00010005-hbnippon-base

     全国各地で行われていた全国高校野球選手権大会の地方大会が終了した。今大会でもっとも注目されていた佐々木 朗希を擁する大船渡高校(岩手県)は岩手大会の決勝で敗退。3年間で1度も甲子園の舞台に立つことは叶わなかった。また、及川 雅貴(横浜高校)や西 純矢(創志学園高校)も地方大会で散った。

     プロ野球の世界を見渡しても、最後の夏に甲子園へ手が届かなかった選手は多い。

     そんな中、7月27日のヤクルト対広島(神宮)の試合では、最後の夏に甲子園へ出場できなかった同世代の広島の選手たちが結果を残し勝利に導いた。


    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190730-00010011-hbnippon-base

     2017年WBCにおいても攻守に活躍し、決勝トーナメント進出に大きく貢献した一人に挙げられた小林誠司。2019年は炭谷銀仁朗らと切磋琢磨する小林はいったいどのような高校球児だったのだろうか。10代の成長過程を知る恩師・中井 哲之監督に話をうかがうべく、小林選手の母校、広島・広陵高校に向かった。



    「あの子がプロ野球選手に?」と言いたくなる選手だった


    「いやぁ、最初の印象と言われても特にないんですよねぇ…」
    広陵高校に到着し、監督室を訪ねると、中井 哲之監督が出迎えてくれた。早速「教え子の入学時の印象」というテーマを投げかけてみると、冒頭のコメントが苦笑いとともに返ってきた。
    「ぜんぜん目立たない子でした。入ってきた頃のことは正直、ほとんど覚えてないです。まさに『あの子がプロ野球選手になるとは…』と言いたくなる選手なので…」

     大阪・堺市出身の小林 誠司。中学時代は大阪泉北ボーイズに所属し、ポジションは遊撃手兼投手だった。中学卒業後は親元を離れ、広島・広陵高校での寮生活を選択。同学年には現広島カープの野村 祐輔投手がいた。以前、取材を通じ、小林と高校入学時の話になったことがある。中3当時のスピードは125キロ。「中学でピッチャーの楽しさに目覚め、高校でもピッチャー志望。野村を完全にライバル視していました」と語った。

     ところが高校1年の秋、小林は敗戦後のチームバスの中で突然、捕手コンバートを中井監督より言い渡される。理由は伝えられなかった。野球を始めて以来、捕手は一度も経験したことがないポジションだったが「はい」という他なかった。

     以前、野村 祐輔がこの日のバスの中での出来事を話してくれたことがあった。
    「一年生大会で負けた帰り道のことでした。重苦しい空気の中、突然中井監督が叫んだんですよ。『おい、小林~!おまえ今日からキャッチャーやれ!』って。そりゃあびっくりしましたよ。そんな発想、監督以外は誰にもなかったと思いますから。あのシーンとしたバスの空気はいまだに忘れられません」


    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190902-00010004-hbnippon-base

     「第101回全国高校野球選手権大会」の熱戦が続いている。7月に楽天からトレードで加入した広島・三好匠内野手(26)は九州国際大付時代を回想。甲子園は1年夏に初出場、高2春は準優勝に輝いた。高校野球ファンに鮮烈な印象を残した聖地の思い出を語った。


     初めて聖地に立った時、まだ16歳だった。福岡県の九州国際大付に入学してわずか5カ月、三好は夏の甲子園に出場。常総学園との初戦は「9番・左翼」でスタメンに名を連ねた。

     「真っ白でした。ここが甲子園かって。中学校を卒業してすぐに甲子園に出たので」

     憧れの舞台で感慨に浸りつつ、いきなり輝きを放った。2-4の四回に打線が爆発。三好も無我夢中で2点三塁打を放った。打者11人の猛攻で5得点を奪って大逆転。8-4で勝利した。九州国際大付にとって夏の甲子園の初白星でもあった。

     3回戦の帝京戦では九回に同じ1年生伊藤拓郎(元DeNA)と初対戦した。3球目にファウルした1球は当時の甲子園1年生最速。「148キロ出ていました。速かったです」。甲子園がどよめく中、チームは悔しいサヨナラ負けを喫した。「一生懸命、思い切ってやりました」。三好は3試合で5安打。がむしゃらに駆け抜けた夏が幕を閉じた。

     高3春、三好はエースとして、聖地に戻ってきた。高城(現オリックス)とのバッテリーで、強豪校を次々と撃破。最も印象に残る一戦は日大三高戦だ。「優勝候補だったので、次の夏も優勝していますし」。三好は初回に先制2ランを放ち、9回7安打2失点で完投勝利を収めた。相手は高山(現阪神)、横尾(現日本ハム)など好選手ぞろい。「自信になった」と三好。若生監督も「最高の投球をしてくれた。満点以上」と大絶賛だった。決勝で東海大相模に敗れたが、準優勝。再び甲子園に出場した夏は2回戦で敗れた。

     恩師は東北の監督時代にダルビッシュ(現カブス)を指導した若生監督だ。「厳しかったです。私生活から掃除、あいさつ…。野球に対する姿勢をよく言われていました」。ダルビッシュの連続写真を見せてもらったこともある。恩師の教えを忘れることはない。

     プロ8年目、26歳の夏は激動だ。7月上旬に楽天から広島に驚きのトレード移籍。新天地では前評判の高かった内野守備に加えて、しぶとい打撃でもアピールしている。初めて甲子園に出場してから10年。今年の夏も三好はがむしゃらに、白球を追い続ける。(デイリースポーツ・杉原史恭)


    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190814-00000068-dal-base

     第101回全国高校野球選手権大会、8日の第1試合は智弁和歌山(和歌山)が8―1で米子東(鳥取)に勝利。5季連続出場の優勝候補が順当に2回戦へと駒を進めた。

     試合前には思わぬ贈り物が届けられていた。開幕日の6日、智弁和歌山ナインの元に届いたのは、1個1500円の高級ハンバーグ80個相当。部員36人全員でも食べきれない量のハンバーグは、東京・五反田の黒毛和牛専門店「ミート矢澤」のもので、送り主はなぜか智弁和歌山とは縁もゆかりもない広島・長野久義外野手(34)だった。

     長野といえば今大会にも出場している筑陽学園(福岡)のOB。当初は同校に送るつもりの差し入れが、間違えて届いたものかとも疑われたが…。実はこれ、元プロの中谷仁監督と長野が巨人時代に懇意にしていた仲から、監督の甲子園出場を祝って贈られたものだったという。

     思わぬ贈り物に「あんなうまいもの食べたことない。1個でごはん3、4杯はかきこみました。スタミナがついたし、ハンバーグだけにうまく“ミート”できた気がします」とナインも大いに舌鼓。中谷監督も巨人移籍初年度、長野にバースデーパーティーを主催してもらったエピソードを事あるごとに話しており「『ミート矢澤』はステーキも取り扱ってるそうなので、次はそっちも食べてみたいなあ」(ある選手)と、長野の男気にさらなる“おねだり”攻勢を見せている。

     まさかの“男気サプライズ”に士気上々の智弁和歌山。筑陽学園とは準決勝以降まで当たることはないが、もちろん筑陽学園にもハンバーグは届いている。「ハンバーグ対決」は実現するか、注目だ。

    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190809-00000030-tospoweb-base

     「第101回全国高校野球選手権大会・甲子園練習第3日」(3日、甲子園球場)

     15年ぶり23度目の出場となる広島商(広島)が聖地の感触を確かめた。20分間の練習時間で打撃練習は行わず、ノックを中心に守備の確認に充てた。荒谷忠勝監督(42)は「ウチの野球はまず守りから。選手たちも落ち着いていて、しっかり動いてくれた」と目を細めた。

     伝統校の久々の甲子園出場。その陰には多くの広島商OBのバックアップもあった。元広島監督の達川光男氏(64)が昨秋から月2回、臨時コーチとして母校の指導を行い、広島大会前も何度もグラウンドに足を運び、アドバイスを送った。

     7月29日の決勝で尾道に勝利し、甲子園出場を決めた後、ナインは達川氏の元を訪れ、感謝の思いを伝えた。達川氏は「“ありがとうございます”を言うのはまだ早い。甲子園で勝ってから、あいさつに来んさい」とナインにゲキを飛ばした。

     捕手の山路祥都捕手(3年)は達川氏からスローイングやリード面など多くのアドバイスをもらった。今大会の決勝戦では達川氏が始球式を行うことが決まっており、山路は「今の自分があるのは達川さんのおかげ。決勝まで勝ち進んで、自分が達川さんの球を受けたい」と意気込んだ。

     4番の真鍋駿主将(3年)は「自分たちが(広島商の)歴史を変えるつもりで頑張りたい。日本一を目指します」ときっぱり。これまで夏は6度の全国優勝を果たしているが、その輝かしい歴史に新たな1ページを加える決意を示した。


    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190803-00000049-dal-base

    ■元プロ野球選手 新井貴浩さん

     台風で順延してしまいましたね。見たかったなあ、甲子園での試合。いまは朝起きると、テレビをつけて高校野球を見ます。一生懸命な、はつらつとしたプレーに元気をもらってます。

     僕は甲子園には出られませんでした。広島工3年の夏、県内では、二岡智宏(元巨人など)、福原忍(元阪神)のいた広陵が絶対的な優勝候補だった。3回戦で対戦することになり、「失うものは何もない」とみんなでぶつかって勝利。「これで甲子園いける」と思ったけど、4回戦で西条農に競り負けた。主将だったので、試合後は涙を我慢したけど、学校に戻って仲間の前であいさつする時に、一気に涙が出てきました。42歳になっても、当時の仲間とは忘年会をしています。

     プロ野球選手になって最初に感動したのが、試合で甲子園球場に足を踏み入れた時。憧れであり夢だった場所。大きいな、広いな、これが甲子園かと思いながら土に触れました。

     引退した昨年までの3年間、広島でセ・リーグ3連覇を成し遂げる中で、周囲からは精神的支柱と言ってもらいました。自分としては、みんなでワイワイやっただけ。でも、全力プレー、全力疾走は貫きました。実績を重ね、ベテランになるほど責任は重くなり、周囲への影響力は大きくなる。高校生なら1年生より3年生。上級生やベテランがちゃらんぽらんなことをするとしらける。率先垂範(そっせんすいはん)です。

     終戦の日です。黙禱(もくとう)しましょう。

     (観客のいないスタンド。新井さんは立ち上がり、目を閉じました)

     小学生の頃は毎年、授業の一環で広島平和記念資料館を訪れた。慰霊碑の前で手を合わせ、被爆者の体験を聞きました。一時期、原爆ドームから約2キロの場所に住んでいたこともあります。小学校には被爆した木があった。祖母2人も被爆者です。戦争を直接知らない世代ですが、広島で生まれ育った者にとって戦争は身近なものです。

     小さい頃、怖くても目をそらしちゃだめと思いながら読んだ「はだしのゲン」の作者・中沢啓治先生とも交流を持たせていただきました。広島の人にとってカープは戦後復興の希望。お会いした時、僕は阪神でプレーしていました。でも、「どこに行こうが、君は広島で生まれ育った人間だ。ずっと応援している」と言葉をもらいました。

     僕が日本プロ野球選手会の会長をしていた2011年には東日本大震災が起きました。楽天の選手に話を聞くと、野球どころではない状況だった。それまで毎年、開幕を迎えて野球を出来ていたことが、実はあたりまえのことじゃなかった。

     野球はみんなが助け合うスポーツです。東北以外に住む自分たちが被災していないからいい、ではない。ファンの方の後押しも受けてセ・パ同時開催に奔走しました。昨年は広島などで西日本豪雨もありました。あたりまえに野球が出来ることへの感謝を意識し続けるのは、難しいかもしれない。でも、心の片隅において、節目に思い返したいし、球児にもそう思ってもらえるといいですね。(構成・藤田絢子)


         ◇

     あらい・たかひろ 1977年、広島市生まれ。プロ野球広島、阪神で20年にわたりプレー。2016年には通算2千安打達成。デイリースポーツとスポーツニッポンの評論家として活躍中。


    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190815-00000059-asahi-spo

     「第101回全国高校野球選手権大会」の熱戦が続いている。

     令和最初の夏の甲子園。プロ9年目でブレークした広島・中村恭平投手(30)が、立正大淞南(島根)で過ごした3年間を振り返った。



     プロ9年目で覚醒を遂げた左腕は、神奈川を離れ、島根県にある立正大淞南で白球を追った。中学時代は身長158センチと小柄で、最速も110キロ止まり。高校入学後も順風満帆ではなかった。膝を故障し、2年夏には肘を手術した。球児としてプレーしたのは「実質1年ぐらい」と言う。

     高3春から本格的に実戦復帰し、夏には背番号1が与えられた。地方大会は2回戦益田産を破り、続く川本戦も大勝。準々決勝まで駒を進めたが、梶谷(DeNA)を擁する開星に八回コールド負けを喫した。中村恭はすべて2番手で登板したが、夏の甲子園への道は険しかった。

     「あぁって感じでした。負けるかなあと思っていました。開星は強かったので。そこに勝たないと行けないと思っていました」

     06年夏と言えば“佑ちゃん、マー君フィーバー”が巻き起こった年だ。早稲田実業と駒大苫小牧の再試合は国民的な関心を集めていたが、「プロになれると思っていなかった」という左腕にとって別世界のようであった。

     「テレビも見てなかったです。でも情報は入ってくるじゃないですか。すごいなあと。それぐらいですよ。負けたチームの選手ってこれからどれだけ遊ぼうかっていうことを考えてますから(笑)」

     中村恭も開放感に満たされていたが、左腕に夏休みはなかった。「オマエは絶対プロになれる。大学でも野球を続けた方がいい」。卒業後の進路に迷っていた頃、田中謙二監督に半ば強引に大学進学を勧められた。高3の頃には身長180センチまで伸びていたが、球速は120キロ台。プロからスカウトされることもなかったが、中村恭は恩師の言葉に従った。

     07年9月、富士大でプロの夢を追い始めていた中村恭にまさかの訃報が届く。田中監督が脳梗塞で急逝したという知らせだ。41歳の若さだった。悲しみを乗り越え、左腕は急成長を遂げる。最速149キロをたたき出し、10年に広島からドラフト2位指名を受け、恩師との約束を果たした。

     昨年までの8年間はくすぶったが、今季は1軍に定着。6月は勝ちパターンも担った。左肘違和感で一時離脱もあったが、7月後半には1軍復帰。キャリアハイの成績を残して、今オフは恩師の墓前へ報告するつもりだ。(デイリースポーツ・杉原史恭)


    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190815-00000107-dal-base

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