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    高校野球

    青天のへきれきだった。91年12月。秋季近畿大会で準優勝し、ほぼ確実と思われたセンバツ出場を辞退することになった。同年夏に勇退した前監督の行きすぎた指導が問題となった。ただ、現場の指導者、選手は関わっていない不祥事。黒田をはじめ上宮野球部員は突然の悪夢に襲われた。



    黒田は当時について「あんまり記憶にない。覚えていない」と多くを語らない。同学年の溝下進崇も同じで「記憶が飛んでしまっている部分がある」と吐露する。それでも断片的な記憶をつむいだ。

    溝下 聞かされたのは、沖縄の修学旅行のときだったと思うんです。離島へ行った宿舎の一室に集められて。決まったわけではないから、まずは修学旅行楽しんで、また帰ったら集合すると言われた。帰ったら「辞退します」と。正直、やる気がうせましたよね。怒りの矛先のない、憤りの中で記憶が飛んでしまっている。

    当時の教頭は部員や保護者を前に土下座してわびた。保護者からは署名活動を促すような声も上がった。ざわつく周囲とは対照的に、部員たちの時間は止まったようだった。高校球児にとって「甲子園」は夢以上の存在。溝下は2日間、家から1歩も出ることができなかった。

    溝下 高校野球をすることの意義の1つ。夢というぼやっとしたものではなく、上宮に選ばれて入った以上はそこに行かなければいけない使命感を持ってやっていた。本当にふ抜けになっていた。

    監督の田中は指導者として苦慮した。「本当にバラバラになりました。選手も選手の保護者もかわいそうだった」。学校に直談判し、自分たちが出るはずだったセンバツが始まる時期に九州遠征に出た。強豪校で野球専用球場を持つ上宮は他校の遠征を迎えることが多く、通常は遠征に出ることはない。「そんなことで心が和むとは思っていなかった。でも彼らに何かしてあげたかった。また強い上宮に戻したい気持ちがあった」と田中は述懐した。

    上宮野球部は何とか夏の大会へ向けて動きだしたが、黒田に前年秋の感覚はなかった。「冬になってボールに触れない中で、なかなか継続することは難しかった。甲子園に行っていたら変わっていたかもしれないが、春になってもあまり変わっていなかった」。加えて右手中指の腱(けん)を痛めてしまったことも投球を苦しめた。最大の武器だった真っすぐの力強さが戻ってこない。生まれて初めて痛み止めの注射を打って投げたこともあったが、結果は出なかった。オープン戦でめった打ちにあい、黒田の評価は急降下。最後の夏は、登板機会が1度も訪れないまま府大会5回戦で敗退。黒田の高校野球人生は静かに幕を下ろした。

    憧れた甲子園出場はかなわなかった。過酷な練習にも耐え抜いた3年間は無情な結末を迎えたが、高校3年間で何も得られなかったことが、結果的に何にも代え難い財産となったのかもしれない。(敬称略=つづく)【前原淳】

    (2017年12月18日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)


    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190114-00436000-nksports-base

    黒田の投手としての能力を認めていたチームメートは少なくなかった。黒田よりも評価されていた主戦の溝下進崇には、今でも忘れられない1球がある。打撃練習から遅れてブルペンへ向かう途中、黒田の投球が真後ろから見えた。

    溝下 スライダーが衝撃的だった。「なんじゃ今のは? こんなスライダー打たれない」と。真っすぐの軌道で来たと思ったら横に滑っていく。自分が思っている理想と体の動きがマッチしたときはとんでもない球を投げていた。

    潜在能力の高さを認める者は他にもいた。主将の筒井壮は投手としての雰囲気を感じ取っていた。

    筒井 才能はすごく感じるけど、ムラがあった。でもやっぱり一番、投手としての振る舞いをしていた。黒田が投げた方が、より強いチームだったんじゃないかなと思います。

    そんな黒田がようやくスポットライトを浴びるときが訪れる。新チームとして迎えた2年秋の近畿大会。直前の府大会で登板機会がなかったものの、ブルペンでの投球の変化に監督の田中秀昌は気づいていた。

    田中 フォームが安定していた。体のバランスもよく、リリースも一定だった。クロにとって、良薬は結果だと思っていた。いいときに使ってあげたいし、自信をつけてもらいたかった。

    田中は相手打線との兼ね合いを考慮しながら、黒田起用のタイミングをうかがっていた。準々決勝の日高(和歌山)戦、1-0の7回途中から出番が巡ってきた。背番号17の黒田は1安打無失点に抑えて試合を締めくくる。田中の「打たれても、溝下と西浦(克拓)がいる」という予防策を立てた起用を見事に裏切った。

    続く準決勝のPL学園(大阪)戦でもチャンスを与えられた。3-0の8回から2番手で登板し、2イニングを2安打1失点。さらに決勝の天理戦では先発西浦がKOされ、2番手溝下も打ち込まれ、三たび黒田に出番がきた。3-8の4回から6イニングを投げ、登板投手の中で唯一無失点。チームは2点差まで迫り、敗れはしたものの、翌春のセンバツ出場権をほぼ手中にした。待ちわびた黒田の好投に、チームメートも自分のことのように喜んだ。

    溝下 快刀乱麻でした。切れ抜群のストレートととんでもないスライダーが面白いように決まって、バッターがクルクルと回っていた。見ていて面白いし、気持ちが良かった。僕は軟投派で、西浦は力投派でもショットガンのようですが、クロは糸を引くような真っすぐを投げていた。

    もちろん、黒田にも特別な喜びがあった。勝利をただベンチで待つのではなく、自らマウンドでたぐり寄せた勝利もあった。近畿大会で3試合10イニング以上を投げて1失点の結果は、監督の田中が期待した良薬になりそうな予感があった。上宮に入学して、初めて味わう感覚に浸った。

    黒田 自分が投げて貢献できた喜びがあった。ベンチにいてチームが勝っていくのではなく、投げて勝っていくから充実感はあった。だから、(翌春のセンバツを)すごく楽しみにしていた。

    近畿大会準優勝で、翌春のセンバツ出場はほぼ確実となった。黒田に足りなかった結果と自信が芽生え、殻を破るきっかけとなる可能性は十分あったが…。ようやく開けたと思われた視界は、予期せぬ形で真っ暗闇に変わる。(敬称略=つづく)【前原淳】

    (2017年12月17日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)


    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190113-00435995-nksports-base

    投げたことよりも、走った記憶が強く残る上宮時代で忘れられない出来事がある。1年夏の合宿のことだった。黒田はこの日も監督の山上烈から「走っとけ」と言われた。黙々と走る。日が傾いても、日が暮れても、全体の練習が終わっても、走った。合宿中は監督も合宿所に寝泊まりする。黒田は消灯になるまで走り続けた。それが4日続いた。

    食事はランニングコースの近くまでチームメートがこっそり持ってきた。消灯後にスコアボードの下に倒れ込むように眠り、そして起床時間の朝6時前には走りだした。そしてまた一日中、走った。

    黒田 景色が変わらないから時間が全然過ぎない。日の傾きでしか分からなかった。

    ただ走るだけで練習が終わった。チームメートは全体練習のウオーミングアップで外野付近をランニングする。黒田とすれ違うときに「酸っぱい臭いがした」と同学年の溝下進崇は振り返る。最長4日、食事と睡眠は何とか取っていたが、風呂には1度も入っていなかった。

    合宿期間中のある日。1学年上の先輩の母親が、その先輩と黒田を合宿所から連れだし、自宅で風呂に入れてくれることになった。先輩の母親が黒田の自宅に電話すると「タクシー代は支払いますので、うちの子は合宿所に帰してください」と母靖子は黒田を突き返すようにお願いした。黒田は合宿所に戻り、また走りだした。この夜の出来事は翌日には上宮の全部員に知れ渡り、今でも伝説となっている。

    黒田 うちの母親ならそう言うだろうな、と予想はできた。(親類の)おじさんやおばさんからも「信念を貫き通す人だった」と聞いていた。家でも厳しかった。愛情のある厳しさだったように感じる。父親には野球の厳しさを教えてもらった。母親には人間的な厳しさを教えてもらった。

    溝下も黒田の母親の記憶が鮮明に残っているという。「家に泊まりに行ったり、合宿中にご飯を作りに来てくれたりした。厳しいなという印象。黒田にはもちろん言うけど、分け隔てがない。僕たちにも言わないといけないことは言ってくれていた」。筋が通っていた。

    黒田は1年秋からベンチ入りするようになった。投手としての潜在能力を買われていた部分もあるが、それ以上に同期で投手だった西浦克拓と溝下がそれぞれ野手としての能力も高く、野手として出場していたことが大きかった。投手枠が空いていたことでベンチ入りしたものの、なかなか公式戦で登板機会は巡ってこなかった。

    メンバーには入っても、走らされる毎日は続いた。それでも音を上げない。その精神力には両親の強い影響があると、当時コーチだった田中秀昌は感じていた。「忍耐強い生徒だった。それはなぜかと言われたら、絶対にお母さんだと思います。肝っ玉のお母さんで、あのお母さんの下で小さいころ育っている。今があるのは、お母さんのしつけだと思う」。過酷な練習にも耐える精神力。のちに男(おとこ)気と呼ばれる強い信念を持った思考の源流は、母親にあった。

    ただ、走り続けられる精神力は、エースへと駆け上がる向上心にはつながらなかった。そこには同学年のライバルの存在と、黒田の優しい性格があった。(敬称略=つづく)【前原淳】

    (2017年12月15日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)



    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190111-00435968-nksports-base

     19年ドラフトは高校生投手「四天王」が中心となる様相だ。大船渡・佐々木朗希、横浜・及川(およかわ)雅貴、星稜・奥川恭伸、創志学園・西純矢(いずれも2年)はいずれも最速150キロ超えの逸材。

     さらに、四天王以外にも速球派の候補が豊作だ。昨夏甲子園でも登板した日大三(東京)の150キロ右腕・井上や木更津総合(千葉)の149キロ右腕・根本。菰野(三重)の右腕・岡林も最速150キロを誇る。武田(広島)の右腕・谷岡は151キロと四天王に次ぐスピードを持つ。

     左腕では丹生(にゅう、福井)の玉村が最速145キロ。昨秋県大会で2戦連続2桁奪三振を記録するなどスカウトから注目を集める。



    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190120-00000069-spnannex-base

    甲子園出場を目指し、セレクションに合格した上宮への入学に迷いはなかった。黒田が中学3年の年に、甲子園で春準優勝、夏8強に入った強豪校。自分の力を試したかった。だが、すぐに希望がしぼむほどの厳しい現実を突きつけられた。



    黒田 中学3年で練習に参加したときに、これはえらいところに来たなと思った。野球じゃなくなった。

    中学時代まで楽しくて仕方なかった野球は、そこにはなかった。野球がさかんな大阪からえりすぐりの選手たちが集まり、競争はハイレベル。中学時代までなかった上下関係の厳しさもあった。さらに練習は想像を絶する過酷さだった。

    黒田はスポーツ推薦で入ってきた新入部員の1人にすぎなかった。当時コーチだった田中秀昌(現近大野球部監督)は黒田の第一印象をこう語る。

    田中 身長は180センチ近くありましたけど、線が細くてひょろっとしていたので、上宮の厳しい練習に耐えられるか、大丈夫かな? というのがありました。

    当時の上宮は好素材の宝庫だった。3年には前年甲子園のマウンドに上がった宮田正直(のちダイエー)、2年には薮田安彦(のちロッテ)、中村豊(のち日本ハム)、市原圭、久保孝之(ともにのちダイエー)がいた。さらに同学年にも西浦克拓(のち日本ハム)、筒井壮(のち中日)、溝下進崇(のち大阪ガス)。好投手も多く、ブルペンでの球筋に衝撃を受けた。

    黒田 大阪のトップクラスの選手が集まったレベルで(自分の)力のなさに面食らったところがあった。メンタルが弱かった部分もある。

    野心を持って入学したものの、レベルの高さにあっさり心が折られた。当時から上背があり、球には力があった。1年時も練習試合では登板機会が与えられた。だが、自信を持てない弱い気持ちでは結果を残すことはできない。制球を乱し、打たれる試合が続いた。その都度、黒田は走らされた。

    当時の監督、山上烈の「走っとけ」は地獄が始まる合図だった。グラウンド外の外野フェンス沿いを走り込む。1度「走っとけ」と言われれば「いいぞ」と言われるまで走り続けなければいけないが、なかなか「いいぞ」とは言われなかった。監督やコーチ、チームメートからも見えているだけに、休むことは許されない。黒田は、部員の間で怒りのツボにはまることから「ツボる」と言われた走り込みの常連だった。

    同学年で投手と野手を兼任していた西浦と溝下は、1度も「ツボった」経験はない。溝下は当時の黒田の投球に「負ける気がしなかった」と振り返る。黒田は練習試合で登板機会が巡ってきても、同じ失敗を繰り返していた。問題は技術面だけではなかった。

    黒田 精神的にびびっていたんじゃないかと思う。練習では投げられるのに、試合では投げられないタイプだった。走らされたり、きつく叱られたりして、イップスのようになった時期もあった。

    毎日のように走らされることが次のチャンスで重荷となる。失敗できないというプレッシャーに襲われ、負の連鎖から抜けることはできなかった。「唯一の救いだったことは、寮生活ではなかったことくらい。全体的にやるしごきはそこまで。耐えられる」。ただ、両親も黒田に厳しかった。黒田の野球人生にとって切っても切れない両親の厳しさが、今も上宮に残る伝説を生むことになる。(敬称略=つづく)【前原淳】

    (2017年12月14日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)


    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190110-00435964-nksports-base

    黒田は南海の野手としてプレーした父一博の次男として生を受けた。幼少期から野球は身近なものだった。家に父の現役時代の写真が飾られ、南海の試合を見に行けば、試合前に父がベンチ裏へ下りていって選手のサインをもらってきてくれたこともある。ただ、プロ野球選手の息子という特別な意識はなかった。



    黒田 生まれたときにはもう現役を引退していたので、現役時代を知らない。プロ野球選手はたくさんいたので、ただその中の1人という感覚。特別なことではないと思っていた。

    現役を引退した父はスポーツ用品店「クロダスポーツ」を営んでいた。黒田が小学6年のときに南海が消滅。父がプロ野球選手という意識はほとんどなかったが、成長とともに父の偉大さも感じるようになった。南海のOB会のゴルフが行われる日には、監督経験のある杉浦忠が黒田家に迎えに来ることもあった。

    小さいころは、母靖子がキャッチボール相手だった。両親から勧められるわけでもなく、小学校の友達が入っているという理由で小学1年のときに野球チームに入った。「練習に参加してボールを追いかけて、というのが楽しかった」。当時はまだ、普通の野球少年だった。

    小学5年のときに、父一博が監督に就任したボーイズリーグ「オール住之江」に入った。当時から球が速く、投手を務めるようになった。ただ、野球が盛んな土地柄もあり、周囲の目は厳しかった。「監督の息子」ということで、保護者の中には「自分の息子ばかり試合に使って」と言う者もいた。そんな声は黒田少年の耳にも入っていた。「結果を残して黙らすしかない」。子どもながらに責任感が芽生えた。

    父一博は野球に対しては厳しかった。特に準備、道具を大切にすることには厳しかった。家に帰っても、練習をさせられた。素振りだけでなく、砂袋を腰に巻いて走りに行かされることもあった。それでも黒田少年は純粋に野球が楽しくてしょうがなかった。やらされた感覚はない。

    黒田 まったく苦にならなかった。土曜になるとすごくうれしくて、学校にいても土日の野球のことばかり考えていた。体育の授業でケガしないように気をつけていたことも覚えている。

    自然と、そして深く野球にのめり込んでいった。当時から高校野球が好きで、夏休みには家の近くの住之江球場へ1人、府大会を見に行くこともあった。中学時代も続けた野球は、高校野球へのステップアップと位置づけていた。「甲子園に行きたいのと、自分の力を試したい。どこまで通用するか楽しみもあった」。大阪の強豪校を希望し、上宮のセレクションを受け、見事に合格。ほかは受けなかった。

    黒田が中学3年になった89年、上宮は元木大介(のち巨人)や種田仁(のち中日)らを擁してセンバツで準優勝、夏の甲子園では8強に入った強豪校だった。「ワクワク感はすごくあった。あとはおやじが監督をやっていた下で野球をしていた環境から、離れて野球をする楽しみもあった」。希望にあふれていた。だが、黒田少年が抱いた大きな希望はすぐに崩れ落ちることになる。上宮の門をくぐると同時に、野球は苦しみに変わった。(敬称略=つづく)【前原淳】

    (2017年12月13日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)


    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190109-00435944-nksports-base

    全国高校野球選手権大会が100回大会を迎える2018年夏までの長期連載「野球の国から 高校野球編」の、元球児の高校時代に迫る「追憶シリーズ」第26弾は黒田博樹氏(42)が登場します。甲子園出場がなく、公式戦登板も数えるほどしかなかった上宮(大阪)での3年間。チームで控え投手のままだった右腕は苦しい日々の中でどう過ごし、何を感じたのか-。全10回で振り返ります。



      ◇   ◇   ◇   

    栄光を積み重ねたマツダスタジアムの記者席で、黒田は言葉を絞り出すように話した。高校時代の3年間に思いをはせ、「走らされていた記憶しかない」と振り返った。フラッシュバックするのは、苦しかった当時の情景ばかり。できれば思い出したくなかったのかもしれない。

    広島だけでなく、米国の名門ドジャースやヤンキースでも輝かしい足跡を残した日米通算203勝の大投手も、上宮では3番手投手だった。3年夏は登板さえかなわなかった。無力さとともに味わった悔しさが野球人生の礎となり、糧となり、黒田博樹という投手をつくってきた。出場辞退という予期せぬ形で、甲子園出場がかなわなかった悲運もあった。

    黒田 同級生に聞かれると何を言われるか分からないけど、いま考えれば(甲子園に)出られなくて良かったかなと思う。当然、当時は出たかった。でも出なかったから、今の野球人生があると思う。

    中学時代まで楽しいと思っていた野球が、高校で一瞬にして楽しくなくなった。練習試合に投げれば制球を乱し、罰走を命じられた。自信もなく、自分を支える実績を積み重ねることができなかった。頭角を現した専大でも、確かな自信を得ることはできなかった。それはプロ入りしても変わらない。広島でエースとなっても、米大リーグで名門の大黒柱となっても変わらなかった。自信がないから常に全力を意識した。「1球の重み」と表現したように、マウンドではすべてをかけて腕を振った。

    広島でエースと呼ばれるようになった2000年代から他球団に所属する先輩後輩へのあいさつを避けるようになった。たとえ先輩選手であっても、あいさつに行かないことも増え、後輩からのあいさつも敬遠してきた。オフになれば他球団の選手から食事に誘われる機会もあったが、断った。

    黒田 (エースとしての)立ち居振る舞いがある。へらへらするのが嫌だったし、チームの士気にも影響すると思っていた。違うユニホームの選手には敵対心を持って戦わなければいけない。チームメートは守らないといけない。そういう意識が強かった。そうしないとマウンドで目いっぱいインサイドに投げられない。

    生きるか死ぬかの世界で生き抜くすべだった。「自分が弱いことを知っているから。それくらい徹底しないとこの世界では、結果を残せないと思っていた」。高校時代に辛酸をなめた経験から、導き出されたスタイルでもあった。

    06年に広島でFA権を取得し、高額オファーを受けても、国内他球団への移籍は考えられなかった。移籍が活発な米大リーグでも7年間で所属したのは2球団のみ。黒田の謙虚さは、より良い条件を求めて球団と交渉する代理人には珍しく映り「メジャーリーガーで最も自己評価が低い選手」とまで言われていたほどだ。

    甲子園出場がかなっていれば、黒田の野球人生は大きく変わっていたかもしれない。いや、変わっていただろう。本人も認める。

    黒田 たぶん変わっていたと思う。でも、そこからおかしくなっていたかもしれないし、野球をやめようと思ったかもしれない。万が一、いい投球をしていたら、そこでプロに入れていたかもしれない。そうなると違う球団でプレーしていたかもしれないし、ここまで野球をできていたかも分からない。全く違う人生だったと思う。

    高校時代に日の目を見なかった右腕が、大投手への階段を上がったサクセスストーリーは、多くの高校球児たちに夢を与えるに違いない。(敬称略=つづく)【前原淳】

    ◆黒田博樹(くろだ・ひろき)1975年(昭50)2月10日生まれ、大阪市出身。「オール住之江」から上宮へ進学。1年秋からベンチ入りするも、3年間で公式戦登板はわずか。3年夏も3番手投手で出番がなかった。専大を経て、96年ドラフト2位(逆指名)で広島入団。01年に初の2桁勝利をマーク。04年アテネ五輪で日本代表として銅メダル獲得に貢献。05年最多勝、06年最優秀防御率のタイトルを獲得。07年オフにFAでドジャースへ移籍し、12年1月にヤンキース移籍。15年に広島復帰、16年のリーグ優勝に大きく貢献した。日米通算533試合に登板して203勝184敗1セーブ、防御率3・51。大リーグ通算79勝は野茂(123勝)に次ぐ日本人2位。現役当時は185センチ、93キロ。右投げ右打ち。

    (2017年12月12日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)


    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190108-00434613-nksports-base

    広島中村奨成捕手(19)が恩師からカツを入れられた。29日に母校広陵高で行われた野球教室に参加。「背筋が伸びますね」と表情を引き締めながら、野球少年と触れ合った。そんな中村奨に、待っていたのは厳しい言葉だ。再会した中井哲之監督(56)は教え子のルーキーイヤーを「心がまだ大人じゃない。考え方がぬるい。プロの世界は厳しい。自分の立ち位置が分かったと思うので、一層の努力をすると思う」と辛口で評した。


    昨夏の甲子園で大会最多の6本塁打を記録し、準優勝に貢献。ドラフト1位で期待された1年目は1軍出場なく、2軍でも打率2割1厘、4本塁打、16打点に終わった。中村奨も「悔しさしかない。思うように結果を残せなかった。結果を残せないと1軍にも上がれない」と険しい表情を見せた。オフは肉体強化に重点を置く。目標の体重85キロまであと3キロ。自主的に遺伝子検査を受け「太りにくい」などの体質と向き合いながら肉体改造を目指す。

    年明けは元日から始動する。「動かないと動けなくなる。1軍に上がれば視野も変わるし、考え方も変わると思う。まずは1軍に上がりたい」。恩師からも「死に物狂いでやると言っていたので、死に物狂いでやれと言いたい」と激励を受けた。プロの道を切り開いた地で、決意を新たにした。【前原淳】


    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20181230-00431956-nksports-base

    広島中村奨成捕手(19)が29日、母校広陵で野球教室に参加した。

    同校の年末恒例行事となり、広島の野村や中田、上本だけでなく、巨人小林や吉川、日本ハム有原など他球団OBも参加。豪華な顔ぶれとなった。



    降雪の影響もあり、屋内練習場で行われた野球教室では、選手を代表して中村奨が野球少年の前でティー打撃で見本を見せた。質問コーナーでは「甲子園で6本の本塁打を打つにはどうしたらいいですか?」という問いに「たまたま…」と苦笑い。それでも「たくさんの応援があったから打てたと思います」と感謝した。

    プロ1年目を終えて参加した野球教室に「野球少年の純粋に野球を楽しんでいる姿に、子どもの頃の気持ちを思い出した。もっと野球を好きになってくれたらうれしいです」と笑顔で振り返っていた。


    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20181229-00431592-nksports-base

    「親分」と慕われた元南海監督、鶴岡一人の長男・鶴岡泰(現山本泰=72)は、1974年(昭49)4月にPL学園の野球部監督に就任した。7年間の監督生活を振り返り、PLにとって、初の甲子園全国制覇のピッチャーで4番だった西田真二のことは、「ヤンチャ坊主の印象が強烈に残っている」という。


    山本泰 ある時、キャプテンの木戸がやってきて、ボクもう野球やめます。その代わり、西田を殴ってもいいですかって言うんです。それぐらい西田は個性的な選手でした。(78年夏の甲子園)決勝でサヨナラヒットを打った柳川という選手がいたのですが、彼は頭がいいし、ケンカも強く、責任感の強い男でした。彼に西田と木戸のことも言い含めて、チームのまとめ役をお願いした。個性の強い選手がそろっていたチームで、とりわけ西田の存在というのは目立ちました。

    西田はアマ時代も、プロに入ってからも、目立つ存在だった。しかし、大胆で豪快なイメージがある一方、繊細な一面がある。

    全寮制だったPLには、休部の遠因ともなった「付き人制度」がある。特定の上級生の身の回りの世話を、特定の下級生がする制度で、今も年1回行われるOB会総会では、そのことが話題になって盛り上がる。賛否両論あるが、名門・PLの伝統の制度だ。

    西田 ボクって結構先輩にはズケズケと話すタイプなんです。でもね、この年齢になって感じることですが、先輩を含めいろいろな人にズケズケ話しますが、本音を話して、真剣にお付き合いしてきたことが、今は自分の人脈として大きな財産になっています。高校、大学、プロ…ユニホームを脱いでからも、解説の仕事をさせていただいたり、コーチもやらせてもらった。そして、今はこうして独立リーグの監督として野球をやらせてもらっている。ありがたいと感謝しているんです。

    西田の繊細な一面は、今でも下級生の「元付き人」と連絡を取り合いながら、親しく付き合っていることだろう。「お世話した上級生は忘れましたが、お世話してくれた下級生は一生忘れません」と言う。

    その一方で、山本は「相手の反応をうかがいながらすぐに対応する能力を持ち合わせている」と明かす。孤高のマウンドで相手打線と立ち向かう投手の仕事がら、ピタリとハマる性格だったのだろう。

    西田はPLのエースとして独り立ちし、いよいよ「奇跡の夏」を迎える。(敬称略=つづく)【井坂善行】

    (2017年11月25日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)


    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20181223-00422379-nksports-base

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