広島カープブログ

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    黒田博樹

    甲子園出場を目指し、セレクションに合格した上宮への入学に迷いはなかった。黒田が中学3年の年に、甲子園で春準優勝、夏8強に入った強豪校。自分の力を試したかった。だが、すぐに希望がしぼむほどの厳しい現実を突きつけられた。



    黒田 中学3年で練習に参加したときに、これはえらいところに来たなと思った。野球じゃなくなった。

    中学時代まで楽しくて仕方なかった野球は、そこにはなかった。野球がさかんな大阪からえりすぐりの選手たちが集まり、競争はハイレベル。中学時代までなかった上下関係の厳しさもあった。さらに練習は想像を絶する過酷さだった。

    黒田はスポーツ推薦で入ってきた新入部員の1人にすぎなかった。当時コーチだった田中秀昌(現近大野球部監督)は黒田の第一印象をこう語る。

    田中 身長は180センチ近くありましたけど、線が細くてひょろっとしていたので、上宮の厳しい練習に耐えられるか、大丈夫かな? というのがありました。

    当時の上宮は好素材の宝庫だった。3年には前年甲子園のマウンドに上がった宮田正直(のちダイエー)、2年には薮田安彦(のちロッテ)、中村豊(のち日本ハム)、市原圭、久保孝之(ともにのちダイエー)がいた。さらに同学年にも西浦克拓(のち日本ハム)、筒井壮(のち中日)、溝下進崇(のち大阪ガス)。好投手も多く、ブルペンでの球筋に衝撃を受けた。

    黒田 大阪のトップクラスの選手が集まったレベルで(自分の)力のなさに面食らったところがあった。メンタルが弱かった部分もある。

    野心を持って入学したものの、レベルの高さにあっさり心が折られた。当時から上背があり、球には力があった。1年時も練習試合では登板機会が与えられた。だが、自信を持てない弱い気持ちでは結果を残すことはできない。制球を乱し、打たれる試合が続いた。その都度、黒田は走らされた。

    当時の監督、山上烈の「走っとけ」は地獄が始まる合図だった。グラウンド外の外野フェンス沿いを走り込む。1度「走っとけ」と言われれば「いいぞ」と言われるまで走り続けなければいけないが、なかなか「いいぞ」とは言われなかった。監督やコーチ、チームメートからも見えているだけに、休むことは許されない。黒田は、部員の間で怒りのツボにはまることから「ツボる」と言われた走り込みの常連だった。

    同学年で投手と野手を兼任していた西浦と溝下は、1度も「ツボった」経験はない。溝下は当時の黒田の投球に「負ける気がしなかった」と振り返る。黒田は練習試合で登板機会が巡ってきても、同じ失敗を繰り返していた。問題は技術面だけではなかった。

    黒田 精神的にびびっていたんじゃないかと思う。練習では投げられるのに、試合では投げられないタイプだった。走らされたり、きつく叱られたりして、イップスのようになった時期もあった。

    毎日のように走らされることが次のチャンスで重荷となる。失敗できないというプレッシャーに襲われ、負の連鎖から抜けることはできなかった。「唯一の救いだったことは、寮生活ではなかったことくらい。全体的にやるしごきはそこまで。耐えられる」。ただ、両親も黒田に厳しかった。黒田の野球人生にとって切っても切れない両親の厳しさが、今も上宮に残る伝説を生むことになる。(敬称略=つづく)【前原淳】

    (2017年12月14日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)


    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190110-00435964-nksports-base

    黒田は南海の野手としてプレーした父一博の次男として生を受けた。幼少期から野球は身近なものだった。家に父の現役時代の写真が飾られ、南海の試合を見に行けば、試合前に父がベンチ裏へ下りていって選手のサインをもらってきてくれたこともある。ただ、プロ野球選手の息子という特別な意識はなかった。



    黒田 生まれたときにはもう現役を引退していたので、現役時代を知らない。プロ野球選手はたくさんいたので、ただその中の1人という感覚。特別なことではないと思っていた。

    現役を引退した父はスポーツ用品店「クロダスポーツ」を営んでいた。黒田が小学6年のときに南海が消滅。父がプロ野球選手という意識はほとんどなかったが、成長とともに父の偉大さも感じるようになった。南海のOB会のゴルフが行われる日には、監督経験のある杉浦忠が黒田家に迎えに来ることもあった。

    小さいころは、母靖子がキャッチボール相手だった。両親から勧められるわけでもなく、小学校の友達が入っているという理由で小学1年のときに野球チームに入った。「練習に参加してボールを追いかけて、というのが楽しかった」。当時はまだ、普通の野球少年だった。

    小学5年のときに、父一博が監督に就任したボーイズリーグ「オール住之江」に入った。当時から球が速く、投手を務めるようになった。ただ、野球が盛んな土地柄もあり、周囲の目は厳しかった。「監督の息子」ということで、保護者の中には「自分の息子ばかり試合に使って」と言う者もいた。そんな声は黒田少年の耳にも入っていた。「結果を残して黙らすしかない」。子どもながらに責任感が芽生えた。

    父一博は野球に対しては厳しかった。特に準備、道具を大切にすることには厳しかった。家に帰っても、練習をさせられた。素振りだけでなく、砂袋を腰に巻いて走りに行かされることもあった。それでも黒田少年は純粋に野球が楽しくてしょうがなかった。やらされた感覚はない。

    黒田 まったく苦にならなかった。土曜になるとすごくうれしくて、学校にいても土日の野球のことばかり考えていた。体育の授業でケガしないように気をつけていたことも覚えている。

    自然と、そして深く野球にのめり込んでいった。当時から高校野球が好きで、夏休みには家の近くの住之江球場へ1人、府大会を見に行くこともあった。中学時代も続けた野球は、高校野球へのステップアップと位置づけていた。「甲子園に行きたいのと、自分の力を試したい。どこまで通用するか楽しみもあった」。大阪の強豪校を希望し、上宮のセレクションを受け、見事に合格。ほかは受けなかった。

    黒田が中学3年になった89年、上宮は元木大介(のち巨人)や種田仁(のち中日)らを擁してセンバツで準優勝、夏の甲子園では8強に入った強豪校だった。「ワクワク感はすごくあった。あとはおやじが監督をやっていた下で野球をしていた環境から、離れて野球をする楽しみもあった」。希望にあふれていた。だが、黒田少年が抱いた大きな希望はすぐに崩れ落ちることになる。上宮の門をくぐると同時に、野球は苦しみに変わった。(敬称略=つづく)【前原淳】

    (2017年12月13日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)


    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190109-00435944-nksports-base

    全国高校野球選手権大会が100回大会を迎える2018年夏までの長期連載「野球の国から 高校野球編」の、元球児の高校時代に迫る「追憶シリーズ」第26弾は黒田博樹氏(42)が登場します。甲子園出場がなく、公式戦登板も数えるほどしかなかった上宮(大阪)での3年間。チームで控え投手のままだった右腕は苦しい日々の中でどう過ごし、何を感じたのか-。全10回で振り返ります。



      ◇   ◇   ◇   

    栄光を積み重ねたマツダスタジアムの記者席で、黒田は言葉を絞り出すように話した。高校時代の3年間に思いをはせ、「走らされていた記憶しかない」と振り返った。フラッシュバックするのは、苦しかった当時の情景ばかり。できれば思い出したくなかったのかもしれない。

    広島だけでなく、米国の名門ドジャースやヤンキースでも輝かしい足跡を残した日米通算203勝の大投手も、上宮では3番手投手だった。3年夏は登板さえかなわなかった。無力さとともに味わった悔しさが野球人生の礎となり、糧となり、黒田博樹という投手をつくってきた。出場辞退という予期せぬ形で、甲子園出場がかなわなかった悲運もあった。

    黒田 同級生に聞かれると何を言われるか分からないけど、いま考えれば(甲子園に)出られなくて良かったかなと思う。当然、当時は出たかった。でも出なかったから、今の野球人生があると思う。

    中学時代まで楽しいと思っていた野球が、高校で一瞬にして楽しくなくなった。練習試合に投げれば制球を乱し、罰走を命じられた。自信もなく、自分を支える実績を積み重ねることができなかった。頭角を現した専大でも、確かな自信を得ることはできなかった。それはプロ入りしても変わらない。広島でエースとなっても、米大リーグで名門の大黒柱となっても変わらなかった。自信がないから常に全力を意識した。「1球の重み」と表現したように、マウンドではすべてをかけて腕を振った。

    広島でエースと呼ばれるようになった2000年代から他球団に所属する先輩後輩へのあいさつを避けるようになった。たとえ先輩選手であっても、あいさつに行かないことも増え、後輩からのあいさつも敬遠してきた。オフになれば他球団の選手から食事に誘われる機会もあったが、断った。

    黒田 (エースとしての)立ち居振る舞いがある。へらへらするのが嫌だったし、チームの士気にも影響すると思っていた。違うユニホームの選手には敵対心を持って戦わなければいけない。チームメートは守らないといけない。そういう意識が強かった。そうしないとマウンドで目いっぱいインサイドに投げられない。

    生きるか死ぬかの世界で生き抜くすべだった。「自分が弱いことを知っているから。それくらい徹底しないとこの世界では、結果を残せないと思っていた」。高校時代に辛酸をなめた経験から、導き出されたスタイルでもあった。

    06年に広島でFA権を取得し、高額オファーを受けても、国内他球団への移籍は考えられなかった。移籍が活発な米大リーグでも7年間で所属したのは2球団のみ。黒田の謙虚さは、より良い条件を求めて球団と交渉する代理人には珍しく映り「メジャーリーガーで最も自己評価が低い選手」とまで言われていたほどだ。

    甲子園出場がかなっていれば、黒田の野球人生は大きく変わっていたかもしれない。いや、変わっていただろう。本人も認める。

    黒田 たぶん変わっていたと思う。でも、そこからおかしくなっていたかもしれないし、野球をやめようと思ったかもしれない。万が一、いい投球をしていたら、そこでプロに入れていたかもしれない。そうなると違う球団でプレーしていたかもしれないし、ここまで野球をできていたかも分からない。全く違う人生だったと思う。

    高校時代に日の目を見なかった右腕が、大投手への階段を上がったサクセスストーリーは、多くの高校球児たちに夢を与えるに違いない。(敬称略=つづく)【前原淳】

    ◆黒田博樹(くろだ・ひろき)1975年(昭50)2月10日生まれ、大阪市出身。「オール住之江」から上宮へ進学。1年秋からベンチ入りするも、3年間で公式戦登板はわずか。3年夏も3番手投手で出番がなかった。専大を経て、96年ドラフト2位(逆指名)で広島入団。01年に初の2桁勝利をマーク。04年アテネ五輪で日本代表として銅メダル獲得に貢献。05年最多勝、06年最優秀防御率のタイトルを獲得。07年オフにFAでドジャースへ移籍し、12年1月にヤンキース移籍。15年に広島復帰、16年のリーグ優勝に大きく貢献した。日米通算533試合に登板して203勝184敗1セーブ、防御率3・51。大リーグ通算79勝は野茂(123勝)に次ぐ日本人2位。現役当時は185センチ、93キロ。右投げ右打ち。

    (2017年12月12日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)


    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190108-00434613-nksports-base

     ――きちんと分析できるのが素晴らしい。

     新井 「だから、誠也はスゴいんですって。漢字は苦手だけど、野球の頭は偉い」(笑い)

     誠也 (笑い)

     新井 「ボク、打撃練習とかいろいろ見ているんですよ。打てなくなる原因はいろいろあって、技術的にダメな場合があれば、疲れからバットが出なくなっているケースもある。ヨシと思ってバットを振ったのに、差し込まれてファウルになったりしたら、アレッてなるんです」

     誠也 「ありますね」

     新井 「その場合はフォームに走りがちだけど、疲れで反応が鈍くなっているケースも結構多い。誠也がどう感じていたかはわからないけど、終盤は自分のスイングが思うようにできなくて、いろいろ考えた末にトライしたと思うんです」

     誠也 「そうですね」

     新井 「だから、言わなかった。誠也は誠也で必死に考えてやっているんだから。で、メルセデスのカーブをレフトに運んだのをベンチで見て“出た、たまたま”と思って。ゆる~い、しかも入って来る球だから、たまたま(タイミングが)合ったみたいな(笑い)そこで聞いたよね。“こういう感じじゃなかったか?”って」

     誠也 「はい。たまたまです」(笑い)

     新井 「日本シリーズ前も同じ練習をやっていたら、言おうと思っていましたけどね」

     ――鈴木選手が初めて4番に座った17年は、精神的に苦しい時期がありました。経験者としての助言も…。

     新井 「いやいや、大したことは言っていないです、ボク」

     誠也 「助言をいただきましたよ。“自分が思っている以上に、周りは…”って」

     新井 「“自分が思っている以上に、周りはみんなお前のことを見ているし、チームへの影響も大きいんだよ”ということは言った。あれ、17年だっけ?」

     誠也 「はい。“ガマン、ガマン”と。確か夏前、6月か7月ぐらいでした」

     新井 「確かにあの頃は、精神的にツラそうだった。“これは言った方が誠也のためになる。言わないとダメだな”って感じたので、伝えたんです」

     誠也 「何もうれしくなかったんですよ。打点を挙げても、ヒットを打ってもうれしくない。いくらヒットを打とうが納得いかない…という状態が続いて。もうどうでもいい…みたいな、今までにない感覚だったんです。でも、どうしたらいいかわからない」

     新井 「分かるよ」

     誠也 「心の中ではずっと“こんなんじゃダメだ”って思っていたんですね。でも、どうしたらいいのか。その繰り返しです。試合で結果も出さないといけない。焦っていたし、いろんなものが重なって究極でしたね」

     新井 「あの時の自分はダメだって気付けるのが素晴らしいよ」

     ――新井さんとプレーした4年間、鈴木選手にはどんな学びがあったんでしょう。

     誠也 「黒田さんも含めてですが、レギュラー選手はやっぱりそうなんだ…と感じ取れたのが一番ですね。2軍の時から漠然と、レギュラーはこういうもの…と考えてはいたんですけど、新井さんと黒田さんの姿を見て、思いを強くしました。チームには、試合に出たくても出られない選手がたくさんいる。そういう人たちのことも背負い、私生活や練習態度、話す言葉、すべてができてレギュラーだと思うんです」

     新井 「自分さえ良ければいい…では、ダメということだよな?」

     誠也 「はい」

     新井 「プロ野球なんだけど、アマチュア精神でいうところの、メンバーに入れなかったヤツのために頑張るゾ…っていうね。プロ野球でも、そういう気持ちは大事。自分さえ結果を出して給料が上がっていけばいい…っていう考えじゃダメ。特にカープというチームは。そういうことを言いたいんだよな?」

     誠也 「そうです。だから、試合に出られない人たちを、認めさせないといけないと思うんですよ。アイツが出るなら応援する…って思わせるのがレギュラー。練習態度や人との接し方、すべてができてこそ本当のレギュラーだと思うんです」

     新井 「そうだな」

     誠也 「新井さんが試合に出ても多分、誰も不満に思わない。“何でだよ”って思う人は絶対に居ない。そこが大事。周囲が眉をひそめる態度を取り、“オレが代わりに出たい”と控え選手に思わせているうちは、レギュラーじゃない。それは新井さん、黒田さんの姿を見て感じたので、見習いたい…とずっと思っていました」

     ――実際、若手選手にはいろんなアドバイスを送っていますね。

     誠也 「ボクは見て感じることができましたけど、感じ取れない選手もいますから。それにボクも(1軍に定着した)16年や、17年にケガをして気付くことが多かったので、できるだけ早く伝えて何かを感じてくれれば。実際は自分で気付かないとわからないと思いますが、言っておくことで“そう言えばあの時に”って思い起こすこともありますから」

     新井 「素晴らしい。誠也にはボク、言うことはないです」

     ――才能ある4番の後継者が“新井さん、黒田さんの姿を見て”と共感してくれる。冥利(みょうり)に尽きますね。

     新井 「うれしいですね。やっぱり3連覇したのが大きいですよ。誠也は、黒田さんが復帰する前のカープも知っているでしょ。帰って来る前と、帰って来た後のチームは?」

     誠也 「全然違いますね。2つのカープを経験しています」

     新井 「その中に3連覇という実績が付いてきた。こうチームがまとまれば優勝争いに食い込める、優勝できる…ということが、雰囲気や何かでわかっている。これは大きい」

     誠也 「自分のことだけやっていてはダメだと思うし、自分の結果が良くてもチームが勝てなかったらうれしくないですから」

     新井 「そう。黒田さんとは若い時から一緒に“バラバラでは勝てない。投手と野手でコミュニケーションを取り、一丸となってやっていこう”とやってきた。でも、結果が出ないわけよ。最多勝や本塁打王を獲っても、チームが最下位だと誰も認めてくれない。だから勝たないとダメ。優勝しないと。誠也は、チーム一丸で戦うことがカープには最善だとわかっている」

     ――新井さんが故障離脱中の昨季序盤、故障明けの鈴木選手はベンチ待機している際、殊勲打の選手らを笑顔で真っ先に出迎えていました。

     新井 「素晴らしい。そういう姿勢が周りを振り向かせ、チームを引っ張る力になる。来年は何年目かな?」

     誠也 「7年目です。25歳になります」

     新井 「大卒で言えば3年目か。仲間とふさげ合ったりするけど、頭は賢いからね」

     誠也 「やっぱり楽しくやりたいので」(笑い)

     新井 「いろんなことを見て感じ取れる。4番は大変だし、重荷になるほど背負わなくてもいいけど、少しずつ発信した方がいい…とオレは思うなぁ」

     誠也 「そうですね。新井さん、黒田さんに残してもらったものを消してはいけない。そこは自覚して伝えていこうと思います」

     新井 「素晴らしい考え方をしているし、言うことで責任感も芽生える。そのポジションにいると思うので、段階を追ってね」

     誠也 「頑張ります」

     新井 「今日はありがとう。4連覇と日本一を目指して頑張れ。応援しています」

     誠也 「ありがとうございました」


    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190102-00000061-spnannex-base

     温厚な性格の広島・大瀬良大地投手(27)大瀬良の“野球観”が変わったプレーがある。2017年8月16日の阪神戦(京セラドーム)。2回の打席で藤浪から左腕に死球を受けた。

     球場内は一時騒然。しかし、大瀬良が笑顔で「大丈夫」と藤浪にサインを送ったことで不穏なムードはすぐに収まった。この行為にネット上では「神対応だった」など称賛の声が挙がった。

     大瀬良は「別にあれは神対応だとは思ってない」と振り返る。「僕が小さいころから学んできた野球観がそういうものだったので、そういう対応をした」と当たり前のことをしただけだった。しかし、この行為が思わぬ波紋を呼んだ。16年限りで引退したレジェンド黒田氏から「大地のやったことを肯定も否定もしない。ただ、やるかやられるかという気持ちは必要」との指摘を受けたのだ。

    「“アマチュアの野球観”と“プロの野球観”に違いがあるというのは、そこで勉強させてもらった」。少年時代から高校、大学を通して自らを形成してきた野球に対する考えを見直すきっかけになったという。

     ただ「変えなくてもいい価値観もある」とも言う。チームメートとの接し方。後輩に対して言葉で伝えることやコミュニケーションを取りやすい環境をつくることは継続していくつもりだ。


    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190103-00000012-tospoweb-base

     今季限りで現役を引退した前広島の新井貴浩氏(41)が20日、広島市内で講演を行い、モデルデビューを果たした件を振り返った。12月25日発売の男性向けファッション誌「メンズクラブ」2月号に登場。中国地方の一部書店には新井氏を表紙とした特別号も置かれる。

     観客から「この間、モデルもされたようですが、今後、どのようなことをされたいですか?」と質問を受けると、「その話、出ると思っていました」と苦笑いを浮かべた。

     新井氏によると、所属事務所のマネジャーの勧めで、撮影に臨んだ。当初は「これは恥ずかしいです」と断りかけたが、「歴史も格式もある雑誌ですから」と説得されたという。「12月25日に発売ということですが、その日が本当に怖くて怖くて」と心情を明かした。

     さらに「後日談があるんです」と裏話を披露。「そのニュースが出て、絶対にあの人からメールが来ると思った。朝、携帯をパッとつけたら『モデルデビューおめでとう! 俺も大量に買って、友人に配るわ』と。はい、関西の方で監督をされていた方です。すごくネタにされるんで」と爆笑を誘った。「あの人」は阪神の前監督の金本知憲氏(50)で間違いなさそうだ。


    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20181220-00000101-sph-base

     今季限りで現役を引退した前広島の新井貴浩氏(41)がモデルデビューを果たしたことが17日、分かった。12月25日に発売する男性向けファッション誌「メンズクラブ」(ハースト婦人画報社=定価880円)の2月号に登場予定。中国地方を中心とした一部書店には、新井氏を表紙にした特別版(5000部限定)も置かれる。



     同誌の西川昌宏副編集長は「もっとマッチョな体格かと思っていましたが、足が長いし、どんな服を着ても、きれいに見える。慣れていらっしゃるように見えた。今後、このような仕事の依頼が増えていくのではないでしょうか」と、身長189センチの体格と表情豊かな魅力に舌を巻いた。

     メンズクラブは来年で65周年を迎える日本最古のメンズ誌で、世界でも2番目の伝統を誇る。これまでにも水泳の北島康介氏、インディカードライバーの佐藤琢磨氏らが表紙を飾ってきた。撮影は新井氏の現役最終ゲームとなった日本シリーズ、ソフトバンク戦翌日の11月4日に、カープの本拠地・マツダスタジアムで行われた。

     誌面上ではロングコートやダウンジャケットに身を包んだ新井氏のショットが満載となっている。また「新井貴浩が引退翌日に語ったこと」と題し、仲間やカープファンへの感謝がつづられたインタビュー記事も掲載されている。

     新井氏は「自分でいいのかと思った。初めてのことで恥ずかしかった。撮影の時、すごく褒めてくれるので、勘違いしそうになりました」と照れ笑いを浮かべながら感想を口にした。


    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20181217-00000174-sph-base

     2018年シーズンを最後に、20年間の現役生活にピリオドを打った広島の新井貴浩氏。DAZNでは、オフの新番組「Home of Baseball」の配信を2日から開始し、その中で新井氏へのロングインタビューを行った。2016年に現役引退した黒田博樹氏とともに、広島のレジェンドとして巨人に続く2球団目となるセ・リーグ3連覇に貢献した新井氏が、カープへのチーム愛、選手たちとの絆、自らの歩んできた道について語り尽くした。最終回は20年の現役生活を振り返り、自分を支えてきたものについて語っている。



     新井氏は決してエリートコースを歩んできたスラッガーではない。プロ入りも1998年ドラフト6位と下位指名。東都大学リーグの名門・駒大の出身で、リーグの打点王・ベストナインに選ばれた経験はあるものの、大学時代の本塁打はわずか2本。広島工高時代も甲子園には縁がなかった。カープ名物の猛練習で鍛え上げられ、プロ野球でも屈指の強打者になった努力の人だ。

    「まずはやっぱり両親ですよね。丈夫な体に産んで、育ててくれましたから。僕なんか特にセンスがあったわけでもないですし、それがこうしてできたっていうのもカープの厳しい練習に耐えられた体があってこそなので、やっぱり両親に一番感謝しています」

     プロでの練習は、キツく苦しいということしかなかった。

    「(練習は)全部キツいですね。もう入団して何年かは本当に苦しかった。どうやって手を抜こうかとばかり考えてましたからね。キャンプはキャンプでキツいですし、シーズン入っても『お前らなんかにシーズンもクソもない、もう1年中キャンプだ』ってずっとキャンプみたいなことやらされてましたから。とにかくキツかったです」

     自主性も何もない、ついていくのが精いっぱいの猛練習。考える余裕などなかったが、それが身になったからこそ今の自分がある。だから、新井氏は「やらされる練習でも身になるものはある」という、独特の考えを持っている。


    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20181205-00261486-fullcount-base

     今季限りで現役引退した広島・新井貴浩内野手が22日、中国放送「RCCニュース6」に生出演した。番組では若手時代やプロ20年間の名場面を映像で振り返った。番組終盤、司会者から今後について聞かれると「終わったばかりなので」と苦笑いし「外からいろんな勉強をしたい。いろんなところに行って、いろんな人と触れあって、いろんなものを感じたい」と話した。

     また将来的な指導者について振られると、「それは僕が決めることではないので、求められてから考えます」と答えていた。


    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20181122-00000143-dal-base

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