広島カープブログ

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     今年も「ドラフト会議」が近づいてきた。社会問題に発展した“江川事件”や巨人にフラれた清原和博の涙…幾多のドラマを生んだ運命の1日。44年前、近鉄から予想外の1位指名を受け、人生が激変したのが福井保夫さん(65)だった。



     「私も、あの日を境に運命が変わった1人かもしれません。いろんな事情が絡んだでしょうが、まさかの1位。確か11月19日ですよ」

     1974年のドラフト会議。当時は予備抽選が行われており、近鉄は全球団が欲しがる「いの一番」くじを引き当てていた。つまり“全体1位指名”。これ以上ない名誉だが、福井さんにとっては理不尽でもあった。

     この年のドラフトは制度の見直しがあり、契約金の上限が外されていた。高校生ではアイドル的人気を誇った鹿実・定岡正二を筆頭に、銚子商・土屋正勝、横浜・永川英植、土浦日大・工藤一彦がビッグ4を形成。そして何より松下電器(現パナソニック)のチームメートに、剛球右腕で断然1位候補の山口高志がいた。 「私はプロ志望ではあったんですが、どの球団が来ているのか、会社で止まっていて、私には知らされていなかった。山口さんはプロに行かないという話もあったし、契約金も高くなるだろう。それに高校生の有力どころはパ・リーグはダメという状況もあった」

     当時の松下電器には、山口以外にも後にロッテ、阪神で活躍する左腕・福間納がいた。福井さんは制球力とスライダーを武器に投手王国の一角を担っていたが、飛び抜けた存在ではない。ドラフト当日も大阪府門真市にあるラジオ事業部で普段通り従事。そんな中、思わぬ一報が入った。

     「福井保夫、投手、松下電器」。司会のパンチョ伊東さんが独特の声と名調子で真っ先に名前を読み上げた。周囲が騒然となったのは言うまでもない。

     「そりゃ、驚きましたよ。監督からはすぐに本社に来いと。電話が殺到していたのも覚えてます」。運命が変わった瞬間だった。

     契約金2000万円、年俸240万円。1年目の75年、ロッテ戦で初勝利を挙げた。81年に中継ぎとして自身最多18試合に登板も右ひざの故障が響き、以降は登板なし。83年オフにトレードで森脇浩司(現中日1軍野手チーフコーチ)とともに広島へ移籍し、翌年に引退した。あの津田恒実さんとはウマが合い「家族ぐるみで付き合いがあった」という。

     阪急を日本一に導いた剛腕・山口を差し置いて“全体1位指名”で飛び込んだプロの世界だったが、結局、目立った成績を残すことはなかった。現役生活を終えた後は、古巣に戻り6年間、打撃投手、用具係、スコアラーを兼務した。

     退団後は奈良県安堵町の商工会に入り、その経験を生かして政治家に転身。町会議員として8年目を迎え、3年前から、母校の岡山・津山商の非常勤コーチも兼任。岡山県北から悲願の甲子園出場を目指している

     「小さな町なので人に優しい町づくりを。母校には恩返しがしたいだけです」

     まだ65歳。まさかの「いの一番」指名で人生が変わった元猛牛戦士は今、異色の二刀流で猛進中だ。(デイリースポーツ特約記者・山本智行)


    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20181016-00000037-dal-base

     ロッテは球団OBの金田留広氏が、10月2日に死去していたと発表した。71歳だった。死因は公表されていない。


     金田正一元監督(85)の実弟で、社会人野球の日本通運から1968年にドラフト4位で東映に入団。右腕だったが、兄と同じ、背番号34をつけた。4年目の72年には20勝で最多勝。74年には兄が監督を務めるロッテへトレード移籍し、同年に16勝で2度目のタイトルをつかみ、リーグMVP。チームのリーグ制覇、日本一に貢献した。

     79年に広島へ移籍後、82年で現役引退。87年から2年間、ロッテで2軍投手コーチも務めた。

     通算成績は434試合128勝109敗2セーブ、防御率3・25。

    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20181011-00000099-spnannex-base

     現役時代に通算213勝を挙げた元広島の大エース、北別府学さん(61)が23日、自身のブログを更新。古巣・広島が松山のサヨナラ打でDeNAに2―1で勝ち、球団初の3連覇に向けた優勝マジックを「1」としたことを喜んだ。

     前日22日の阪神戦(マツダ)は13失点大敗を喫しただけに「昨夜の情けない試合を払拭する様な素晴らしい試合を見せてくれてありがとう!!」と北別府さん。「さあいよいよだ」と短くブログを締めくくった。

     また、芸能界の鯉党も球団初の3連覇&1991年以来27年ぶりとなる地元Vにマジック「1」となったことでワクワクが止まらない様子だ。男性デュオ「CHEMISTRY」の堂珍嘉邦(39)は「優勝、3連覇まで、あと『マジック1』明日も応援しよっ!!目が離せんねっ!!!」とツイート。”カープ芸人”のゴッホ向井ブルー(28)は現地観戦したスタンドから撮影した拳を突き上げる松山の写真とともに「カープサヨナラ勝ち決めました!!!松山選手の歓喜の瞬間と少し遅れて輪に向かう田中選手です!!わー!!優勝マジックが1です!!!」とツイッターで伝え、お笑いコンビ「ザ・ギース」の尾関高文(41)は「カープサヨナラ!!マジック1!!あした地元優勝が決まる!」と喜びツイートを投稿した。

     広島は24日のDeNA戦(マツダ)に勝てば無条件で球団初の3連覇、そして1991年以来27年ぶりとなる地元での優勝が決まる。


    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180923-00000173-spnannex-base






     現役時代から親交の深いプロ野球広島カープの元内野手、監督の野村謙二郎氏(51、スポニチ本紙評論家)が友人へのエールとともにその素顔を明かした。

     カープとサンフレッチェの選手時代に知り合って、もう30年近くなるのかな。森保監督は2学年下なんだけど気が合って、一緒に自主トレをしたり、僕がサッカーが好きなのでフットサルを楽しんだり…。それぞれが監督時代は、よく意見交換もした。僕ら世代は厳しく叱られながら育てられたけど、じゃあ今どきの世代にはどう接すればいいかなどね。今でも時々、食事をするし、先のW杯ではグループリーグ突破を決めたポーランド戦後にロシアにいた森保コーチ(当時)にメールしたら、同点を狙わず1点差負けを選択した最終盤のボール回しについて、「結果がすべてなんです。すごい決断でした」と返ってきました。

     熱い男ですね。選手の成長を発見した時は本当にうれしそうにするし、高校生のレベルが上がってきたことやJリーグの将来などサッカーのことを話し始めたら止まらない。

     1994年の広島・アジア大会。当時は代表から外れていた森保監督から韓国戦のチケットがあるから一緒に…と誘われた。はじめはスタンドで並んで楽しく話しながら見ていたんだけど、僕だったらこうするとか、あのプレーは良いとかダメとか、だんだんと熱くなってきて、途中から一人でゲームに入り込んでしまった。日本が負けたこともあって、こっちから話しかける雰囲気ではなくなり、あげく終了後は僕の存在を完全に忘れて一人で帰ってしまいましたからね(笑い)。

     ドーハの悲劇を経験した一人で、以前、その試合について話した森保監督の言葉が忘れられない。「ボクが悪いんです」と――。

     終了間際のロスタイムでイラクに同点ゴールを決められたシーン。相手コーナーキックがショートコーナーを選択し、ゴール前にいた三浦知良がボールをもつ相手選手に詰めにいった。それをかわされてクロスボールを上げられヘディングシュートを決められた。

     決して誰か一人に責任があるわけではないと思うけれど、森保監督はピッチに立っていた一人としてものすごく責任を感じていたし、今でも忘れていない。マークする選手を外さないことを最後の最後に徹底できなかった――。人につくという指示を三浦カズに出せなかった――。その後の森保一の人生には、あの悔しさと経験が基礎となっている。

     サッカーが好きで、サッカーに熱くて、勝利への激しい執念の持ち主。今回の初陣メンバーは、試したい選手、目指すスタイルに必要な選手を招集したと推測します。やりたいように思い切りさい配をふるって、森保サッカーをやりきってほしい。お互いの自宅はボールを蹴ったら届くぐらいの距離。近くに住んでいますが、遠くから応援していきます。 (元広島カープ内野手、監督)


    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180911-00000066-spnannex-socc

     2018年4月、プロ野球・中日の松坂大輔が国内では12季ぶりの勝利を挙げた。今季、同じ1980年生まれの「松坂世代」で、昨季まで広島でプレーした梵英心は、栃木県小山市を拠点とする社会人野球チーム・エイジェックで内野手兼コーチとして新たな野球人生を踏み出した。梵はどんな日々を過ごし、何を求めてボールを追っているのか。



     ◇「一般的なサラリー」の正社員

     エイジェック野球部は今年2月に発足。練習拠点は、小山市内の閉校した小学校だ。梵は正社員として在籍している。
     「ありがたいことに、野球に専念させてもらっています。こんなに野球漬けの環境はそうはないと思います。一般的なサラリーですよ。元プロ野球選手だからすごくもらっているという世界ではないです。サラリーマン出身、社会人だったので、金銭感覚はそれなりに持っているつもりです」
     充実した毎日だが、新天地が決まるまでの道は長かった。昨年10月、広島を自由契約に。プロ野球の他球団や米独立リーグなどへの移籍を探ったが実現せず、今年5月にようやくエイジェックへの加入が発表された。
     「まだ若い選手には負けない気持ちもあったし、もう少し頑張ればチャンスをつかめそうで。球団も自由契約にしてくれて。NPBのどこかに行けたら一番よかったんですけど。(エイジェックは)野球選手として見てくれたので、それが決め手ですね」
     「かっこいい言い方ですけど、社会人野球に何か恩返しできないかな、と。エイジェックはスポーツ選手のセカンドキャリアをサポートしている会社でもあったし、野球人口の減少に対して何か行動できないかなというのもずっと思っていました」

     ◇「いつも勉強」の毎日

     栃木で、梵は同じ松坂世代の村田修一と再会した。村田も昨オフ巨人を自由契約となり、独立リーグのBCリーグ・栃木に入団。BCリーグの栃木もエイジェックが運営し、同じ練習拠点を使用している。村田はNPBへの復帰を目指して練習に励んだが、今年8月に今季限りでの引退を表明した。
     「村田はとっつきにくい性格とか言われているじゃないですか。でも、そういう部分はまったく見えなかった。校舎からグラウンドを見ていると、若い選手にしっかりアドバイスをしている。あいつなりに頑張っているのかなというのは伝わってきます」
     「僕の勝手な思いで、村田と直接そういう話をしたとかではないんですけど、村田はまだ野球に対して何か求めているんだろうなと思います。野球のことを勉強したいんだろうな、野球に向き合いたいのかなというのを感じます。僕もここにたどり着いて、改めて野球が好き、野球がしたいと気付いたので、村田も多分そうだと思います」
     梵は、同い年の松坂を「雲の上の存在」と表現。自らを松坂世代と意識したことはないという。10月には38歳となる今について、梵はこう語る。
     「このチームはいろんな選手がいます。そういう選手に、僕が知っている物をすべて渡してあげたい。教えるのは難しいです。自分が勉強しないといけない。テレビで試合を見ていても、『こういうことがあるんだ』って、いつも勉強です。何かヒントがないかなってアンテナを立てておかないと、これからは生きていけないと思うので」

     ◇生きている広島との絆

     梵と広島との絆は今も生きている。広島の菊池涼介や安部友裕らから、エイジェックに道具の差し入れがあったという。現在の「強いカープ」は、梵の目にどう映っているのか。
     「底力があるなあと思って見ています。選手がすごく伸び伸びしていて、自信を持ってやっているので、1個のミス、1個の負けを引きずっていません。それが昔との違いですね」
     梵は広島県出身で、少年時代から広島ファンだった。指導者として広島に戻る日は来るのかと尋ねると、梵はこう言った。
     「興味はあります。でも、(広島の指導者に)なりたいという願望は今はないです。今はエイジェックの選手にすべてをささげたい気持ちでやっています。だから、中途半端な気持ちでやったら、今の選手、今のチームに申し訳ない。今はここですべての力を注いで、もし、そういうタイミングが来るなら、その時のために自分も成長しないといけないなというのは、頭の片隅には置いています。でも、それがすべてではないです」(時事ドットコム編集部)


    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180911-00000067-jij-spo

     元広島の川島堅さん(48)は、一部メディアで「甲子園史上最も美しいフォーム」と称された。東亜学園2年の秋にブロック予選で敗退した後、自ら試行錯誤を重ねてつかんだものだった。


     川島さん(以下、敬称略) 2年と3年では投げ方がまったく違います。2年の時は力任せで投げていました。野茂さんほどではないけど、打者に背中を向けていました。

     夏の大会も近づいた5月にアクシデントがあった。浦和学院との練習試合に登板した際、右手中指の筋を伸ばして投げられなくなってしまった。

     川島 投げているときにブチッとなりました。もうボールが握れない。本来なら最後の投げ込みをする時期に、1カ月半ぐらい投げられなかった。投球再会は6月後半…もう大会の直前でした。ぶっつけ本番ですね。

     不安を持って最後の大会を迎えた。

     川島 そうですね。でも、もう3年生だったし、負けたら引退するだけ。それほど深くは考えていませんでした。この時はプロに行くという気持ちも、まったくありませんでしたから。進路ですか? 大学でもやれたらいいかなと思っていたぐらい。監督が東洋大出身だったので、東洋かな。でも東都の強豪で通用するかな。試合に出られなかったらつまらないな。そんなことを考えていました。

     前年の経験から体力温存を重視した。2年夏の西東京大会は、背番号11ながら主力投手として奮闘した。全6試合のうち5試合で完投と、ほぼ1人で投げきった。優勝はしたものの、最後はバテてしまった。

     川島 3球勝負で球数を減らした。三振を狙ったわけではなく、どんどん勝負にいっただけ。下位打線にはど真ん中に投げていましたからね。言い方は悪くなりますが、抜いて投げることもありました。前年は6試合。この年はノーシードで7試合だから、さらにきついと思っていた。準決勝の日大三にピークを持っていこうと。そこまでは少々打たれても、要所を抑えて勝てればいいと考えていました。

     久留米西との4回戦では3点を失った。日本学園との5回戦は、1発を浴びて先行を許した。終盤に逆転して2-1で勝利した。

     川島 抜きすぎたところもあったかな。久留米西に3点を取られたけど、結局、甲子園の準決勝まで3失点以上はこれだけでした。あとは全部2点以内に抑えました。

     日大三の準決勝は圧巻だった。

     川島 一番本気で投げました。ほとんどヒットを打たれていないんじゃないかな。

     わずか3安打で完封。11三振を奪い、三塁を踏ませぬ投球だった。決勝では東京菅生(現・東海大菅生)を6-1で破り、2年連続の甲子園出場を決めた。

     圧巻の投球は甲子園でも続いた。

     ◆1回戦 2-1伊野商(高知) 9回111球6安打7奪三振0四球1失点1自責

     ◆2回戦 3-2金沢(石川) 9回139球6安打14奪三振0四球2失点1自責

     8月16日に東東京代表の帝京・芝草宇宙(ひろし)投手が、東北戦でノーヒットノーランを演じた。東亜学園の3回戦は、その翌日に行われた。

     ◆3回戦 3-0延岡工(宮崎) 9回96球6安打7奪三振0四球1失点1自責

     川島 この頃が一番調子がよかったですね。準々決勝の相手は抽選で決めたのですが、キャプテンに「PL学園を引いてきて」と言ったぐらいです。「今なら、勝てずともいい勝負ができる」と。どうせならセンバツ王者のPLとやりたかったし、負けても胸を張って帰れるでしょう。でも、対戦できませんでした。

     PL学園は立浪和義主将を軸に、エース野村弘(弘樹)投手、片岡篤史選手らを擁し、この年のセンバツを制していた。結果的に春夏連覇を果たす。

     ◆準々決勝 3-0北嵯峨(京都) 9回108球3安打14奪三振1四球0失点0自責

     この試合、甲子園で初めて四球を出した。8回2死から8番打者に対し、カウント3-2から外れた。甲子園での無四球は34回2/3で止まった。122人目の打者、441球目の初四球だった。

     川島 無四球は意識しました。そこまでいくと騒がれますので。ただ、四球を出した選手は試合前に監督と「今大会のラッキーボーイかもしれない。要注意が必要」と話していたんです。だから厳しくいった結果でした。

     ◆準決勝 1-2×常総学院(茨城) 9回0/3 152球6安打5奪三振2四球2失点2自責

     同点で迎えた延長10回裏。常総学院の先頭、島田直也投手に右前打を浴びた。続く仁志敏久選手を遊ゴロに打ち取るも、遊撃手が一塁へ悪送球した。一塁走者の島田投手が一気にサヨナラのホームに返った。

     川島 もうヘロヘロでしたね。6回ぐらいから肩も上がらなくなっていた。いっぱいでした。

     西東京大会、甲子園を通じて川島さんの名前は高まった。進路を考える時期がきた。

     川島 全日本の遠征でチームメートと話しているとき「お前、ドラフト1位だな」と言われて、そうなのかなと。

     当時の新聞を振り返ると、川島さんは在京セ・リーグの希望を口にしている。ただ、同年の目玉には立大の長嶋一茂選手がいた。在京セのヤクルト、大洋(現DeNA)は長嶋選手に狙いを定めたと報じられていた。

     川島 在京セとは言っていたけど、一茂さんがいたので無理だと思っていました。広島、阪神、近鉄が熱心に誘ってくれていました。ただ、広島には行ったことがなかったのでイメージが沸かなかった。行ったことがある大阪だろうと思っていました。

     11月18日のドラフト会議では広島、阪神、近鉄の3球団から指名され、抽選の末に広島入団が決まった。

     ◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇

     当時の広島は投手王国だった。大野豊投手、北別府学投手、川口和久投手、抑えには津田恒実投手もいた。

     川島 大野さん、北別府さん、川口さん、長富さん、清川さん、紀藤さん、金石さん、川端さん、白武さん、津田さん…すごい人ばかりだった。私のことなんか獲得する必要があったのかなと思った。もう入る余地なんてないですよ。1軍は雲の上の存在でした。当時は野手も含めて1、2軍の入れ替えも少なくて、入れるわけがないと思っていました。

     だが、1年目の8月13日に1軍昇格の機会が巡ってきた。金石投手が肘を痛めてことによる入れ替えだった。

     川島 2軍は広島市民球場でデーゲームでした。そこで首脳陣に「お前、1軍に上がりたいか」と聞かれて「はい」と答えた。そうしたら「じゃあ、このまま夜も残れ」と言われました。ナイターで1軍の試合だったんです。

     そこまでウエスタン・リーグで4勝6敗、防御率3・33の成績を残していた。昇格時、当時の阿南準郎監督が「最初は楽な場面で投げさせたい」とコメントしているが、なかなかその場面は巡ってこなかった。

     川島 1軍には上がったけど、しばらく登板の機会はありませんでした。敗戦処理が役目ですが、ピッチャーがいいから試合が壊れないから出番がない。一番下なので雑用係とブルペンで投球練習するだけの毎日でした。

     1軍昇格から約1カ月は出番のない試合が続いた。チャンスは9月16日に訪れた。高校時代に慣れ親しんだ甲子園での阪神戦。川島さんは球場に到着して、忘れ物に気付いた。コンタクトレンズだった。プロに入り、ナイターで捕手のサインが見えにくいと感じて使うようになった。

     川島 忘れたと気付いたけど黙っていました。その日の先発は大野さんでしたから、どうせ出番はないだろうと思ったんです。でも、その日に限って大野さんが打たれて、ブルペンに「次の回いくぞ」と電話がきた。

     先発の大野投手が4回途中6失点でKOされた。この回は紀藤投手が後続を断ち、次の5回から川島さんがマウンドに上がった。

     投球練習を終えると、達川光男捕手がサインを打ち合わせるためにマウンドまできた。

     川島 そこで打ち明けました。達川さんに「すみません。今日コンタクトを忘れました」と言ったら「バカタレ!」と怒られた。でも、すぐに「よっしゃ、分かった」と言って戻っていった。何が分かったのかなと思っていたら、おなかの前で大きくサインを出してくれました。すごい見やすいんですよ。

     達川捕手といえば、ホーム付近でコンタクトレンズを落として探す姿がテレビ番組の珍プレーで取り上げられていた。その達川捕手に、コンタクトレンズのことで叱られた。

     川島 達川さんは本当に頭のいい方ですよね。一瞬で「よし分かった」ですから。1回を抑えてベンチに戻ったら「大野だって打たれるんじゃ。きっちり準備をしておけ」と怒られました。

     1年目は未勝利に終わったが、2年目の1989年(平元)に初勝利を挙げた。4月29日、やはり甲子園での阪神戦だった。9回5安打1四球で1失点の完投勝利だった。

     川島 この時も達川さんのおかげです。ブルペンで調子が悪かったんですが、達川さんは「あまりよくないな」と言った後で「よっしゃ、任せておけ」と言ってくれた。もうサイン通りに投げるだけでした。それまでは内容がよくても勝てなかったのに、この日は調子が今イチで勝てました。

     ただ、この時の不調は長引いた。初勝利の後、中4日で5月4日のヤクルト戦(広島)に登板すると、4回1/3を7安打3失点で途中降板した。さらに同18日の阪神戦(広島)は1回1/3を4安打3四球の6失点でKOされた。

     川島 初勝利の後で中4日ですよね。なかなか球が走らなかった。この年から山本浩二さんが監督になって、キャンプから競争が激しかった。私も飛ばしていたんで、もうヘロヘロになっていていたんでしょう。結局この年は1軍と2軍を行ったり来たりでした。

     この年は8月6日にもう1度先発している。先発予定だった北別府投手が右肩の異常を訴えて回避したため、緊急的な昇格で先発した。だが、4回5安打3失点で降板となり、チャンスを生かせなかった。

     翌90年は1軍に入れなかった。結果を残せず、首脳陣からフォーム変更を指示された。高校時代、「甲子園で最も美しい」と評されたフォームだったが、プロでは欠点と評された。

     川島 プロとすれば迫力に欠けていたのでしょう。「このままじゃ終わってしまうよ。イメージを変えないとダメだ」と言われて、スリークオーターで投げるようになりました。

     高校時代からの力みのないフォームは理想的に見えるが…

     川島 結果が出れば何も言われないんですよ。でも、結果が出ていないから仕方がない。言われたらやるしかなかった。

     フォームを変更して2カ月ほど過ぎた5月中旬、川島さんの右肘に異変が起きた。(つづく)【飯島智則】


    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180713-00261800-nksports-base.view-000

    【熱血球論 大下剛史】中日がサヨナラ負けで3タテを食らった9日の広島戦で、両チームの差を痛感するワンプレーがあった。4回、広島が西川の適時打で同点に追いつきなお無死一、二塁の場面だ。岡田の投前へのバントは三塁で完全に封殺できる打球だったが、三塁手の福田は前に出てしまってベースに戻れない。みすみす一死二、三塁とピンチを広げてしまった。

     あれは三塁手が絶対に前に出てはいけない打球だ。笠原が踏ん張って追加点にはつながらなかったが、広島の守備陣なら考えられないプレーだ。投げて打っては両チームにそれほど力の差はない。ただ、こうしたちょっとしたことが積もり積もって首位と最下位という差になっている。

     福田はもともとが捕手で、内野はほとんど一塁しか守っていない。今年から打撃を買われて三塁へ本格的にコンバートされた選手。プロのコンバートとはそんなに簡単なもんじゃない。守備が打撃にも影響する。

     福田のコンバートは首脳陣が決めてキャンプから練習もさせていたのだから、私がとやかく言うつもりはない。福田も本職じゃないのだからミスもする。守備でミスをすれば苦しいだろう。それでも「俺は打ってナンボの選手。守りのミスは打って取り返す」ぐらいの強い精神力を持ってほしい。

     大事なのは首脳陣が守りのミスを怒らず、どれだけ我慢できるか。練習をさせるのは当たり前だが、怒ってはいけない。そうしたベンチの我慢が選手へも伝わる。それが首脳陣と選手の強い絆にもなる。まだまだ中日は発展途上。このワンプレーを見てつくづくそう思った。 (本紙専属評論家)


    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180810-00000027-tospoweb-base

    <全国高校野球選手権:下関国際-創志学園>◇15日◇2回戦

     「レジェンド始球式」に沖縄(現沖縄尚学)OBで元広島の安仁屋宗八氏(73)が登板した。往年のフォームをほうふつとさせる力投で力強く投げ込んだ。

     「終戦の日」の登板に「100回大会を迎えられて、日本が平和じゃないと続くことじゃない。日本が平和だから続いたこと。戦争というのは2度と起きてはいけない。終戦の日に始球式をさせてもらえることは、幸せの1ページ。一生の思い出です」と平和を願った。


    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180815-00300125-nksports-base

     ドジャースが前田健太投手とロス・ストリップリング投手の両右腕をブルペンに配置転換することになった。先発のアレックス・ウッド投手と柳賢振投手の両左腕が故障者リスト(DL)から復帰するため、現在の先発ローテーションから2人を外す必要が生じた。


     ウッドは内転筋の炎症で8月4日にDL入りしていたが、14日のジャイアンツ戦で登板の予定。柳賢振は鼠径部の故障で5月上旬から戦列を離れていたが、15日に登板の見込みとなっている。

     MLB公式サイトによれば、デーブ・ロバーツ監督は前田について「彼は大いにプライドと自信があり、我々もそれを期待している。だが、うちには多くの優秀な選手がおり、試合に勝つためにどうするのがいいか、考えなくてはならない。今、我々はそういう状況にある。彼は受け入れたが、自分は先発だと考えていると話してくれた。ありがたいことだが、今はこれが我々の取る道だ」と語った。

     ドジャースでは、クローザーのケンリー・ジャンセン投手が不整脈のため戦列を離れており、複数投手がクローザーの役目を担っている。ストリップリングは14日、前田は15日から救援として待機する予定。

    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180813-00298377-nksports-base

     1966年(昭41)、大阪大会の準決勝で快速左腕・江夏豊を擁する大院大高は公立校・桜塚に0-1で惜敗した。決勝点は3回に出た内野手の3失策によるものだった。もう1歩のところまでに迫った甲子園にわずかに届かなかった。自身が打ち込まれたわけでもない。しかし江夏は今はもちろん、その頃も不満を示すことはなかったという。


     江夏 ウチも桜塚の奥田(敏輝)を打てなかった。1回裏1死一、三塁。ここで4番打者のオレが二ゴロ併殺に倒れた。チャンスらしいチャンスはここだけだったな。それに野球にエラーはつきものだしな。そういう考えは、もう頭に染み込んでいた。だからプロ野球の世界に入った後も野手のエラーにそんなに怒った記憶はないんや。

     大院大高3年になったころ江夏の名前は高校球界にとどろいていた。「学院に江夏あり」。そう言われた。向かうところ敵なしの状況に慢心も生まれていった。味方が失策すると滑り止めのロジンバッグをマウンドにたたきつけ、けっ飛ばしたりもしたという。

     江夏 3年になったころかな。試合中にエラーが出て、そういう感じになっていたら塩釜監督が飛んできて、はり倒された。そして試合の後に懇々と諭されたわ。野球にエラーはつきもの。それにロジンは自分の味方なんやぞ。グラブとロジンは投手にとって最後の味方なんや、ということだったな。そのことをしっかり染み込まされた。だからオレは野手のエラーに怒ったことはないと思うよ。

     多くの人たちの力があっての野球人生だと、江夏は振り返る。慕った大院大高監督の塩釜強も、その1人だ。塩釜は野球の技術論はほとんど教えなかったが、野球に対する考え方をしつこく指導した。失策に不満顔を示した江夏を叱責(しっせき)し、指導したのも塩釜だった。

     江夏 このトシになるまでオレは好き放題に生きてきたよ。バカな失敗もやらかしたしな。でも本当にいい人たちに恵まれたと思う。人との出会いがよかったんだな。

     夢を砕かれ、のちに阪神で同僚になった奥田、高校の練習試合で打ちのめされた兵庫・育英の同じ左腕だった鈴木啓示もライバル視した。プロに入ってからは同じ背番号「28」を背負っていた衣笠祥雄も意識していた。

     江夏 鈴木には高校時代、てんぐの鼻を折られたからな。サチ(衣笠)は高校時代から知ってたよ。「平安の衣笠」は有名だ。あとになって広島でいっしょに戦ったんだけどな。そんな連中と、のちになって親友といえる存在になるんだからな。

     そんな人々とのめぐり合いも野球をやっていればこそだ。その原点は江夏本人も強調するように高校野球にあった。大院大高での3年間は江夏豊という男の基礎をつくった。そして失策で甲子園を逃した桜塚との試合も忘れることはない思い出だ。

     江夏 高校野球、プロ野球、それにメジャーリーグとそれぞれ技術の次元は違うだろう。でもな、1つのボールを追いかける思い、情熱はみんな同じなんだ。だから高校野球はいいんだ。

     今年も夏の大会がやってくる。江夏は自宅のテレビの前で、痛む膝をかばい、少しだけ申し訳ない気持ちになりながら球児たちの行進を見守る。(敬称略=おわり)【高原寿夫】


    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180727-00278365-nksports-base.view-000

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