広島カープブログ

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    OB

     広島OBで、成人T細胞白血病で闘病中の北別府学氏が30日、ブログを更新。新型コロナウイルスによる肺炎で亡くなった志村けんさんを追悼し、「今、家にいられるだけで幸せなんだと感じています」とつづった。


     国民的スターの訃報を受け、「志村けんさんの訃報は悲しくてそして恐ろしさを感じています。現役時代、仕事がうまくいかないときにどれほど志村さんのお笑いに慰められたことか」と記述。続けて「志村さんは命をかけてこのウイルスの恐ろしさを教えてくれたのかと思います。心からご冥福をお祈りします」と追悼した。

     入院治療中の北別府氏は一時外出で自宅にいたとみられ、リビングのソファに座る様子の写真も添付。「私は今、家にいるだけで幸せなんだと感じています」と言葉に実感を込めた。免疫力の低下から感染症対策に十分気をつける必要もあり、「ほんの少ししかいられないので外出はできず 家族も家の中でマスクをして私と話をし ペット達を抱くのもいけないらしいので声をかけるだけ それでも家に居られるだけで嬉しい」と心境をつづった。



    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200331-00000064-dal-base

     広島カープの投手だった池ノ内亮介さん(31)は現在、大阪府警の警察官となり、寝屋川署に勤務している。



     「毎日いろんな事件事故が起こります。警察官になってまだ3年。すべてが勉強ですが、上司や仲間に恵まれ、また、街の人たちからの『ありがとう』『ご苦労さま』という声にも励まされながら頑張っています」

     同署地域課に所属し、交番勤務をメインにしている。交通事故や住民同士のトラブル、盗難、落とし物、迷子、道案内など交番に寄せられる案件は多種多様。バイクで地域のパトロールを行い、学校や老人会などで防犯教室も開く。書類を作成する仕事も多く「結構苦手です。ずっと野球しかしてこなかったので」と苦笑いする。

     三重県伊賀市出身。中京学院大を経て2010年秋のドラフト会議でカープから育成枠で指名された。1年目は3軍でひたすら体力強化に励み、3年目のシーズン終了後に支配下登録を勝ち取った。右サイドハンドから繰り出す150キロの直球とキレのある変化球を武器に、14年には1軍登板も果たした。中継ぎで2試合に投げ、いずれも1イニングを無失点に抑えた。

     しかし、翌年は1軍での登板機会はなく、オフに戦力外通告を受けた。「力不足でした」と悔しさも残ったが、カープに在籍した5年間を「不器用なタイプなので、育成から支配下、1軍と一歩ずつ上がっていけたのは自分らしくて良かったと思います。わずか2試合でしたが、1軍で投げられたことで、家族やお世話になった方にも少しは恩返しできました」と振り返る。

     第2の人生には「厳しいプロの世界でやってきたので、次の人生でも厳しい環境で挑戦したいという思いはありました」。警察官の知人の勧めもあって16年夏に大阪府警の自己推薦方式の採用試験に応募して合格。翌年8月に警察学校に入校し、警察官として新たなスタートを切った。

     プロ野球で培った経験が役に立つことも多い。「カープに入った頃はクイックやけん制に苦手意識があったんですが、プロで活躍するためには欠かせない技術。コーチから教わり、上手な人を見て研究するうちに自分の武器になったんです。だから警察官になった今も難しい仕事があっても努力すれば、必ずやれるようになると思っています」。

     かつての仲間の活躍は今も気になる。中京学院大時代の1年後輩にあたる菊池涼とは大学、カープで7年間チームメートとして過ごした。「同期で同い年の中村恭平は去年頑張ってくれて本当にうれしかった。中崎や磯村も年は下ですが同期です。同い年の会沢やマエケン(前田健太)にも頑張ってほしい」。仲間の活躍を見聞きするたびに野球の虫がうずくそうで、「たまに友達とキャッチボールします。野球したいですね」と目を細めた。

     これからの目標については「プロ野球選手は子供たちのあこがれだと思うんです。警察官でもそういう存在になりたいし、私の下に入ってくる若い人たちの見本にもなりたい。そのためにも警察官である前に一人の社会人として自分を磨いていきたいです」。地域から愛され、信頼される警察官へ。池ノ内さんは第2の人生でも一歩ずつ前進していく。

    (デイリースポーツ・工藤直樹)

    ◆池ノ内亮介(いけのうち・りょうすけ)。1988年11月22日生まれ。三重県伊賀市出身、現役時代は右投げ右打ちの投手。175センチ、74キロ。背番号は121→68。中京高から中京学院大を経て10年度のドラフト会議で広島に育成2位で入団。13年オフに支配下登録され、14年7月14日のDeNA戦でプロ初登板を果たす。15年に退団。通算成績は2試合に登板し0勝0敗0セーブ、防御率0・00。17年8月に大阪府警の巡査となる。独身。



    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200326-11004419-maidonans-life

     国学院大学は16日、セカンドキャリア特別選考で元ロッテの島孝明氏、元広島の岡林飛翔氏が合格したことを発表した。4月1日から人間開発学部健康体育学科に所属し学生生活をスタートさせる。



    「セカンドキャリア特別選考入試に関する協定」は、2017年11月に国学院大学と一般社団法人日本プロ野球選手会が、引退後のセカンドキャリアに進む元プロ野球選手の支援を目的に締結したもの。

     島氏は同大学を通じ「純粋に自分にはまだやりたいことが沢山ありました。自分の人生はまだ前半であり20年30年先の自分が、いい人生を送って来れたと誇れるような生き方をするには、野球から学んだことだけではなく、大学での学びが必要だと考え、進学を選択しました」とコメントを発表。

     岡林氏も「将来は、野球の指導に携わりたいと思っています。しかし、指導する立場にも学ぶべきことがあります。何も勉強せずに指導をしても相手に伝わらなかったり、その人に合った指導が出来ません。そのため、体の仕組みや使い方などしっかり学んだ後に、野球の指導に携わることができればと思い大学進学を選択しました」と進学の理由を説明していた。



    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200316-00722838-fullcount-base

     広島は15日、球団創立70周年を記念して広島市のマツダスタジアムそばに建設された「モニュメントスクエア」のお披露目式を開き、佐々岡真司監督、OB会会長の安仁屋宗八氏らが出席した。

     「モニュメントスクエア」にはこれまで所属した監督、コーチ、選手計897人の名前が刻まれた銅板を1950年シーズンから年ごとに展示。15日正午から一般公開された。70枚の銅板を眺めた佐々岡監督は「自分の担当スカウトの名前もあった。今までの選手、監督、コーチの名前が載っている。みんな喜べるんじゃないかな」と懐かしそうに話した。 



    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200315-00000037-jij-spo

     オフにドジャースからツインズへ移籍した前田健太投手。カリフォルニアの地元紙「オレンジカウンティ・レジスター」はドジャースのアンドリュー・フリードマン編成本部長がトレードについて驚きの声をあげた様子を紹介している。



     前田は自らトレードを希望したと自身のYouTubeチャンネル内の動画で発言していたが、フリードマン氏にはこれは“寝耳に水”だった様子。「彼がブルペンに配置転換になった後、私と彼は9月序盤に話をした。腹を割って、思っていることを素直に伝えあった。そして、勝利するための最良の方法を選択し、単純にバランスの取り方を見つけようとしていたのだと、彼は理解してくれた」と昨季終盤の会話内容を明かした。

     右腕は19年も先発としてシーズンをスタートしたが、夏に配置転換でブルペンへ。プレーオフも中継ぎとしてフル回転したが、本人は先発として登板することを望んでいた。そのため配置転換へ一定の理解があったとはいえ、先発での起用可能性が高まるトレードは歓迎だったようだ。

     前田とフリードマン氏の間で分かり合えないことがあったにせよ、日本人右腕にとってこのトレードはボーナス100万ドル(約1億945万円)と先発ローテを手にする良い機会となった。そして先発投手を熱望していたツインズにとっても良いトレードとなったことは間違いない。



    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200308-00713190-fullcount-base

     メキシコの野球サイト「プロベイスボル」が3日(日本時間4日)、ドーピング違反で出場停止処分を受け、2日に広島から契約を解除されたサビエル・バティスタ外野手が、メキシカンリーグの2球団からオファーを受けていると報じた。


     同サイトによると、オファーは南地区の球団からで、実際にオファーを出したそれぞれの球団GMが明かしたとしている。球団名は明かされておらず、バティスタは自身の今後について、まだ決めていないという。

     ドミニカ共和国のカープアカデミー出身のバティスタは、16年から19年まで4年間広島でプレー。昨年6月のドーピング検査で陽性反応を示したことがNPBから8月17日に発表され、同9月3日から6か月間の出場停止処分を科されていた。昨季は広島で103試合に出場。打率.269、26本塁打、64打点の成績を残していた。オフには母国ドミニカ共和国のウインターリーグに出場。レオネス・デル・エスコヒードとエストレージャス・デ・オリエンテでプレーし、計26試合、59打数8安打、打率.136、0本塁打、5打点、23三振だった。

     メキシカンリーグは4月7日に開幕予定。すでに多くの球団がキャンプインしている。




    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200304-00709470-fullcount-base

    【名伯楽・内田順三「作る・育てる・生かす」】#26

     1990年代にカープの主砲だった江藤智は、88年のドラフト5位で捕手として入団した。私は二軍打撃コーチ。この時すでに右肩を故障していて、二塁まで強く送球できない状態だった。

     一方で打球の飛距離は群を抜いていた。今ではどこでもやっているロングティー。これを当時の山本浩二監督は好んだ。一番最初にやり出した人物ではないか。体全体を使って強く振る練習になるから、私も推奨している。

     江藤は新人時代に、このロングティーでバックスクリーンにブチ当てた。勢いのないトスをスタンドまで持っていくには、相当な力が必要。肩は故障していても、これだけ強く、遠くへ飛ばせるのは長所であり、大きな魅力だった。江藤を「強化指定選手」にすることにした。とはいえ、投げられなくては捕手は厳しい。3年目からは三塁手として鍛える方針になり連日の猛ノックで土台をつくった。足でしっかり土を掴み、下半身を安定させるため、裸足でのスイングも取り入れた。

     入団1、2年目の頃、江藤には消極的なところがあった。私はこう言ったことがある。

    「バットを振って三振をするのは構わない。ただし、見逃しはダメだ。真っすぐを待っていて変化球がきても、バットは振りなさい」

     自分とボールとの距離は、バットを振らないと分からない。そのうち、変化球を片手でポーンと左中間へはじき返せるようになった。猛練習の中で、下半身が強化され、守備も打撃も着々と成長の跡を見せていく。

    ■巨人へFA移籍

     90年代のチームを主軸として支え、99年オフに巨人へFA移籍。盗塁はできなくても走塁はできる――。当時、私は巨人の一軍打撃コーチ。江藤は、パワーヒッターで足が速くないにもかかわらず、一塁走者の時には、大きなリードを取り、積極的に三塁へ進塁するなど、カープで叩き込まれた走塁を披露。長嶋茂雄監督は「江藤は意識が高い」と最初に驚いたのが走塁だったそうだ。

     のちに、江藤に広島時代の過酷な練習について聞くと、こう話していた。

    「選手時代は夢中でしたけど、全てを受け入れて乗り越えられた。選手としてある程度は成功できた今、コーチをする上で、あの時に厳しくやってもらったことが生きています」

     そんな江藤と15、16年には巨人の一軍打撃コーチを一緒にやることができた。成功の要因は、なんといっても体の強さ。江藤は泥にまみれながらプロで生きる道を切り開いた。それは、体だけは丈夫だった後輩の新井貴浩にも通じている。

     私が50年間もユニホームを着続けられたのは、広島のコーチ3年目に初めて「作った」と自負できる選手に出会ったからに他ならない。後にプロ野球史上初の快挙を成し遂げる正田耕三である。

    (内田順三/前巨人巡回打撃コーチ)



    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200227-00000010-nkgendai-base

    1980年代、産声を上げたばかりの韓国のプロ野球のチームに、日本で活躍した在日コリアンの選手たちが入団し、韓国野球のレベル向上に貢献した。

    その中の一人、故・福士敬章投手(韓国名・張明夫)の生涯を、武蔵野美術大学の韓国人留学生、李泳坤(イ・ヨンゴン)さん(26)が、卒業制作のドキュメンタリー映画「玄界灘の落ち葉」にまとめた。

    弱小チームで30勝を挙げたが、4年で燃え尽き、薬物事件で韓国を追われた幻のヒーロー。「福士選手の話だけじゃない、その背景に潜んでいる日韓関係の問題や、その中で苦しむ在日という存在についても、多くの人に見て、考えてもらいたい」と話す。

    巨人から韓国に渡り、3年間で計54勝をあげて日本球界に復帰した新浦壽夫投手(韓国名・金日融)や、日韓両国で監督を務めた白仁天氏らの活躍を覚えているのも、韓国ではもはや40代後半以上。20代の李さんはなぜ、福士投手に光を当てようと思ったのだろうか。


    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200225-00010003-huffpost-int

     江夏、沈痛-。プロ野球の南海(現ソフトバンク)で戦後初の三冠王となるなど選手、監督として活躍した野村克也さん(享年84)の死去から一夜明けた12日、南海で指揮官と選手としてともに戦った江夏豊氏(71)が、ソフトバンクのキャンプ地・宮崎で恩師の急逝に言及。沈痛な面持ちで「後ろ姿を見て育ってきた」と感謝の思いを口にした。



     ともに「革命」を起こした恩人は突然、天国へ旅立った。ソフトバンクのキャンプ地を訪れた江夏氏は、宮崎の曇天を寂しそうに見上げた。11日に急逝した野村さんへの思いを問われると、感謝と尊敬の念を口にした。

     「投げる方は(プロ野球史上最多400勝を記録した)金田(正一=国鉄、巨人)さん、野手なら野村さんがプロ野球を繁栄させた。その後ろ姿を見て、育ってきた」

     知人に会うために宮崎市内のキャンプ地に立ち寄った。工藤監督と言葉を交わして久々の現場を見守った後、恩師への思いを語った。

     大投手・江夏豊の歴史の中で、中興の祖といえる人物が野村さんだ。出会いは電撃トレード。1967年の阪神入団以降、6年連続で奪三振王に輝くなど大エースに君臨するも、血行障害や心臓疾患などで成績は徐々に下降。76年1月に江夏氏と望月充、南海は江本孟紀(サンケイスポーツ専属評論家)、島野育夫、長谷川勉、池内豊の2対4の大型トレードが成立した。

     事実上の放出に江夏氏は涙し、現役引退も考えたが、思いとどまらせたのが南海の選手兼任監督だった野村さん。投球術をほめてチームに迎え入れた。しかし、血行障害で50球も投げれば握力が落ちる。先発としては全盛期の力はない。だが、短いイニングなら-。1年目に思うような成績が出せなかった左腕を、風呂場で口説いた。

     「プロ野球に革命を起こしてみないか?」

     まだ投手の分業制が確立していない時代に、抑えへの転向をすすめた。自宅も近く、毎夜のように野球談義を交わす野村さんの説得で77年からリリーフに転向。193セーブを記録し、最優秀救援に5度も選ばれる史上最強ストッパー・江夏豊が誕生した瞬間だった。

     77年に野村さんが南海監督を解任されると「ワシは野村監督に拾われた人間。監督がやめる以上、俺もとどまるわけにはいかん」と言い、古葉監督に請われて広島へトレードで移籍。79、80年の日本一に貢献し、79年の近鉄との日本シリーズでは、1点リードで迎えた九回無死満塁の大ピンチを乗り切る「江夏の21球」という伝説も生んだ。それもこれも野村さんのおかげ。遠山奬志(阪神)、小早川毅彦(ヤクルト)、山崎武司(楽天)…。後に「野村再生工場」と呼ばれる手腕も、江夏氏と起こした革命がはじまりだった。

     「革命かはわからないけど、教えてもらったことは思い出だよ」

     11日の訃報は、早い段階で耳に入ってきた。最後に顔を合わせたのは昨年の東京ドームでの巨人-阪神戦。野村さんとのすべての思い出は宝物。寂しい、悲しいなどという言葉で、語り尽くせるはずもなかった。

     「簡単な言葉では…。残念でならない」

     2人で起こした革命は今や球界の常識となった。野村さんとの軌跡は、心からの誇り。球場を去るとき、江夏氏は寂しげにほほ笑んだ。


    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200213-00000039-sanspo-base

     白血病のため入院中の元広島・北別府学さんが7日、自身のツイッターで巨人キャンプを訪れた山本浩二元監督について「山本浩二先輩の復活の報せ」と題してコメントした。山本元監督は昨年がんの手術を受けたことをこの日、公表していた。
     ツイッターによると、昨年名球会の会合で北別府さんが会ったときは、(病状が)あと一歩という感じだったそうで、「キャンプ視察が嬉しくてたまらないのでは」とつづった。


     また自身は7日から無菌室に入る予定だったが、このまま投薬治療などで経過観察することになったと報告。いまだに吐き気も脱毛もほぼないという。




    引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200207-00010042-chuspo-base

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